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週刊現代と、電通を創った男たち

2015年11月02日 | JULIE

J友さんから情報です。有難うございます。タイガースの「明治チョコレート」のCM裏話。

電通を創った男たち  112
http://dentsu-ho.com/articles/3279

(抜粋)彼が担当していた明治製菓での話だ。「明治チョコレート」の広告に、デビュー間もない沢田研二率いる「ザ・タイガース」を抜擢する企画をプレゼンした。グループサウンズ(GS)の一大ブームが起こる前、駆け出しだった彼らのことなど明治製菓の担当者は知るはずもない。だが、豊田は今後ブレークすることを予見して起用を提案。難色を示すクライアントを説得するため、当時の社長をコンサート会場にまで連れて行き説いた。その甲斐あって、ファンの熱狂ぶりを肌で感じた社長はザ・タイガースを広告塔とすることを了承したのだ。

ほどなくGSは若者の間で熱狂的な支持を受けている。いち早くザ・タイガースを広告に起用できた明治製菓は、1968年春商品の包み紙と70円の切手を一口として応募すると、もれなく楽曲収録したピクチャーレコードやポスター、メンバーの写真をプレゼントされるという販売促進キャンペーンを実施。商品の宣伝に大きく寄与した。


週刊現代に、サリーのインタビューが載っていますと伺って立ち読みしてきました。「最高の名脇役」という賞賛の言葉が載っていましたが、その後、記事の要約をいただきました。


 

出過ぎた真似はしない。若き日の面影は消えても、岸部はザ・タイガースで過ごした日々が俳優としての「味」 につながってる。

ピーのインタビューでは、タイガースでも1番手は沢田研二 サリーは2番手以下  サリーは2番手以下の生き方を知っている。5人集まればケンカもある、意見を言うわけでなく、聞き役に徹していた。


主役にとって自分の座を奪われることはないという、安心を感じられる存在。
15年間苦労重ね、「死の棘」で主役。2011年「境遇」では  長野松本ロケ、サリーは四日間の予定なのに、1週間前から入り現地の人々の生活をなじませたて撮影に入った。


温厚でミステリアス 演出家「一徳さんは、昔の日本のいいところが出ている役者さんです。体が大きく顔も怖い。そして不器用。でも見た目と違い温厚で真面目です。こわもてなのに、主役との心の距離を巧みに縮める。瞬時に台本に自分なりのアドリブを加え主役を光らせる。

一徳さんは、見た目怖く寡黙なイメージですが、もともと京都の人なので、関西弁でダジャレが飛び出すほどよくしゃべる。ソフトなしゃべり方が、安心感を与えているんです。

岸部さんは若い頃、音楽の世界で頂点を極め、注目を浴びましたが、反面役者としとは遅れをとっていると言う謙虚な気持ちを持ってらっしゃる。その不器用な部分のよさが、俳優岸部さんの魅力にプラスアルファされていると思います。

映画「しんがり」 江口洋介主演、若松監督談 大物感を出せる役者として、岸部さんが適役だと思った。背が高く、声が野太く、貫禄があり、相手を飲み込んでしまう包容力がある。岸部さんが演じることによって、その役のキャラクターをひとつに限定しない、懐の深さを出せるんです。脚本家戸田氏

岸部に出演オファーが殺到する理由。「行儀のいい役者さんが多くなりました。携帯やツイッターの普及により、情報がすぐに広まってしまうため生活でも羽目を外せなくなってしまった」昔の役者さんは、「銀幕のスター」と言われたように一般社会からかけ離れた場所にいた。

岸部さんも血気盛んな20歳代 前半で社会現象となったバンドの一員として、人々の渦の中心にいた。せの壮絶な体験が生み出すオーラは、誰も持ち合わせてない。遺産争族の伊東四郎  半世紀ほど前に一世を風靡したザ・タイガースにいた一徳さんと今を比べ、「あの頃の面影は全然ないね」と笑っていた。

タイガースは4年で解散、その後沢田や萩原健一らと「PYG」「井上尭之バンド」でより高い音楽性を追求しましたが、自己評価が厳しかった岸部は、音楽の才能に自信をなくし、ミュージシャンをやめた。
俳優業に転身したのは28才の時だった。

 

 

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③岡山シンフォニーホール

2015年11月02日 | ライブ・公演・舞台

アンコール前MC

有難うございます。どうぞ皆さん 座ったままで・・(昨日は前の人は座ってくれました)拍手をいっぱいしてもらって、これを聴きながら着替え。全然ボタンが止まらない。皆さんお疲れでしょう?アンコールアンコールで必ず出てきますよね。出てこなかったら大変なことになる。衣装だって作ってるんだから。僕らがいなくなったら、トイレに走る方がいるんじゃないですか?皆さん大丈夫ですか?始まる前にスッカリ綺麗にサッパリ・・(笑) (そういえば、途中で抜けた70歳くらいのオヤジさんがいました。神席だったはずだけど、あの後帰ってきてないような)

今回は加瀬さんが亡くなり、ツアーが始まるまで時間があり19曲。何より想像できなかったのは、加瀬さんが亡くなったこと。加瀬さんの死は非常に重かったと、改めて思い知らされた。僕の中でとっても大きな存在だった。タイガースが終わって、PYGもソコソコに活動しなくなり、ソロとしてやれと言われどうせタイガースような事はないだろう。タイガースはグループで5人で人気だった。タイガースが終わったら京都に帰ってもいいけど、4年の経験がとても大きく、ここから抜け出せそうにない、不思議な感覚に囚われた、東京へ出てきて細々としかできんやろな。

ソロで「君をのせて」を出して、加瀬さんが沢田研二に合った曲を作らなアカンと「許されない愛」を作ってくれた。加瀬さんと東海林さんと3人でロンドンでレコーディング。ロンドン帰りと事務所がいう、それがどないした。帰ってきたら歌が小さい、声が演奏のボリュームに負けている。僕はエーやん、小さくてもかっこええやん・・歌を大きくして出した。

元タイガースの沢田研二と言われていたが、レコード大賞の歌唱賞に入って その中に和田アキ子もいて、31日の本番和田アキ子が「絶対にジュリーや、うちの曲は難しいわ」と言われて 心の隅でチビっと呼ばれるかもと思いました。(※あの鐘を鳴らすのはあなたの歌まね、ちょっと似てました) 

時々「レコ大思い出のシーン」で流れますが(※和田アキ子が「ジュリーも一緒にきて!」とジュリーの手を引張て無理やりステージに上げた。知らない人が多かったのか、会場の反応はいまいち・・) あの後 どうやって下がって行ったんでしょう。恥ずかしい思い出、係りの人に下がってください!と言われ可哀想になぁ。俺を下げるなら和田アキ子も下げとけ!でも、歌唱賞に残ったことで歌が上手いというレッテルが貼られちゃった、かなんわ~ ブルーコメっツの井上大ちゃんに絶対言われるわ、下手くそやのに。

(※阿久悠さんの話では、和田アキ子に何か賞をとらせようと 仕掛けたのが「あの鐘を鳴らすのはあなた」仕掛けが成功したわけですね)

ちょこちょこヒットして、元タイガースと言われんようになって、仕掛けてくれたのが加瀬さん。「危険なふたり」の時に正式にプロデューサーとして 男か女かわからん衣装着て、化粧もして「やっちゃえ やっちゃえ!」70年代中頃から、80年代の冒頭は「TOKIO」です。落下傘を出したら、井上さんが自分たちがTVに映らんからとやめていき、映らんでもエーという人が来てくれて、オールウェイズ、エキゾティクス・・・吉田建さんも化粧して、いろんな事やって大変でした。

「晴れのちブルーボーイ」では紅白で一番優れたパフォーマンスに金杯を差し上げます。ライトで燃えて衣装が焦げて大変。金杯はジュリー、沢田研二です! その前に、紅白のトリをやらせてもらった。サヨナラサヨナラでその年は終わったんです。それを全部仕掛けたのが加瀬さん。やりつくしたら、その後は何もやらなくても良かった。TVに出るのか、映画ドラマに出たいのか、一番したいことはナマが好き。コンサートを続けよう。沢田は派手でキラキラしている方がいいというけど、売れていないとやる意味がない。そんなに売れたいの?おバカねと言われる。楽。しく、不穏なことをしているのが良かった。

あの頃、千昌夫が近所に住んでいて売れなくなっている頃、直接僕に交渉に来た。一緒にジョイントコンサートをやろう、僕は屋台を出すからお前電飾出せよ。誰やと思ってんの、どれだけ口からアホか!でも頭ごなしに断れず、柔らかくその気はないからと断った。

加瀬さんはいろんなことを教えてくれた。加瀬さんが大きな大きな存在だったと知り、無意識に涙が出たんだろう。今日は新曲を4曲、それ以外は加瀬さんでやろう。優しい気持ちで受け止めて欲しい。ご清聴御礼申し上げます。これからも加瀬さんの曲を小出しにして、歌い続けてゆきたい。

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