昨年「ウェブ進化論」と並んで広く読まれた、「グーグルGoogle-既存のビジネスを破壊する」の著者による最新刊である。既にブログ界においても論評されているようだ(池田信夫氏、小飼弾氏)。本書はインターネット社会の最新動向を論じている本のようであるが、そうではなく、むしろ、元毎日新聞の記者の視点で書かれた、マスコミ論/日本社会論である。その議論はステレオタイプな戦後社会観に依拠しているので、そのようなものを最初から信じない人は、本書の論説を正面から受け止める必要はないと思われる。しかし、インターネットとメディアの関係に関わる最近の様々な事件を内面から知る資料としては適切かもしれない。自らも関わり、また取材した事件に関する著者の丁寧な筆致は、著者の誠意を感じさせる。
本書が言っていることは、
- かつては、①共通のコミュニケーション媒体、②共通の事実認識、③共通の価値判断、の3点セットの上に一つの集団として存在しえた「われわれ」という集団が、インターネット社会では消失しつつある。ここで「われわれ」とは、日本の戦後社会のことである。それは、かつての「むら」に替わるゲマインシャフトであった「会社」に一人一人が帰属することによって個人のアイデンティティが確立される「会社社会」であり、それは一億総中流社会であり、マスメディアがその目や耳や頭脳を代表していた。しかし、今や、以前ならばマスメディアが担っていたコミュニケーションの中心は、インターネットによって分散し、それとともにかつての「われわれ」は分断され、事実や価値判断の正しさを担保する権威も失われた。そして、社会は今や、中心や上下を持たない「フラット」なものになりつつある。
- インターネットは、かつての「われわれ」を消失させるとともに、人と人の関係の組み換えを行い、新しい社会関係を出現させている。インターネットを通じて生まれる新しい社会関係は、「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」だけでつながりが生まれる世界である。それは、「専門的見識や分析力を持つ個人のネットワークによる集合知の世界」を出現させているが、一方では、「出会い系に代表されるような希薄な人間関係の世界」や、「ネットイナゴの集団に代表される思考を停止して罵詈雑言を浴びせる集団」をも生んでいる。そして、圧倒的多数は後者の世界に帰属している。
で、その何がいったい問題なのか?本書が問題提起していることは、
- 一人一人が「われわれ」を離れた「わたし」であることに耐えられるか?
- 社会が社会であるために必要な、情報や言論の「公共性」は誰が保障するのか?(従来はマスメディアが保障していたとされる)「公共性」を、ネットにつながる全員で分散して保証することが可能か?
- 一人一人が単なる「わたし」であることに耐えられなくなり、しかも「公共性」を保障する主体やメカニズムが見い出せなかった時、そこには、「衆愚」、「混乱と恐怖」、そして「ファシズム」が出現するのではないか?
それに対する本書の回答は、インターネットが可能にする言論のオープン性こそが、公共性を保証する新しいメカニズムなのではないか、という希望である。抜粋すると、
- コミュニケーションがインターネット上でオープンに見えるかたちで表出してきたことこそ、実は公共性の最大の保証になっていたのではないだろうか。(P.271)
- そうした一連の情報のやりとりの過程そのものが、社会を構成する<わたし>たち全員の前に、可視化されているということ。そのやりとりに<わたし>のだれもが参加し、評価し、非難し、批判し、分析できるような仕組みがオープンなかたちで提示されていること。(P.272)
- 無数の<わたし>が公共性を担保する(P.277)
- 批判、それに対する反論、そして再反論、そうした議論のすべてが可視化されていくことこそが、新たな公共性を生み出していくのだ。(P.277)
この結論はあくまでも著者の希望であり、仮に言論のオープン性が新しい公共性の必要条件であるとしてもそれが十分条件になりうる根拠については全く触れられていないし、著者自身、未来への確信まで表明しているわけではない。本書は次のように結ばれる。
- まだ未来は、見えない。しかし、もう後戻りはできない。この先に待ち受けている世界を、目を見開いて待ちかまえながら、先へと進んでいくしかないのだ。(P.281)
この結論では、未来はきっと良くなる、とひたすら繰り返す「ウェブ進化論」の教義と変わらない。実践的な指針を見い出すことができるような、もう少しきちんとした議論をする必要がある。
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本書の議論は、最初から前提が間違っている・・・とまで言わなくても粗すぎる。一枚岩の「われわれ」など最初から存在しないし、マスコミがその中心で権力と良識を握っているということなど最初からなかったのだ。そのようなマスコミ中心の発想は、マスコミの中心にいてその価値観で生きた人間が持つであろう発想でしかなく、日本人全員がマジョリティであって当然であるかのようなその物言いは不毛であるだけでなく、マイノリティの人々を疎外する無神経さを含んでいる。そのことに気づき、その前提を見直せば、慌てふためくこともないし、革命などと騒ぐこともないし、淡々と環境変化に対応していけばよいだけのことである。
きちんとした議論のためには、本書が前提としている次の2つの二元論を克服することが必要だし、またそれによって、様々な可能性が見えてくる。
1) 署名記事はその肩書きがモノをいい肩書きの権威も含めて記事の内容が判断される。それに対して匿名記事は記事の内容だけで判断される。・・・という二元論。
<<< 実際には、記事の信頼性は、著作者、内容、言論のプロセス、コンテキスト、ロジック等々によって複合的に形成される。そして、どのような場面においては、どのような信頼性の保障が必要か、その都度決まる。そして、様々な信頼性のレベルがありうる。その場面に応じた言論の信頼性のレベルと、その信頼性を担保するための要件が求められることになる。当然のことである。
2) 日本人は「われわれ」という一枚岩の社会に所属している。その所属から切り離された時には、一人一人は個々人にまで解体された「わたし」になってしまう。・・・という二元論。
<<< 実際には、社会とは多元的なものである。「大新聞が代表する日本社会」ですら一枚岩ではない。朝日/毎日新聞が代表してきた社会と、日本経済新聞が代表してきた社会とでは、その存立の原理も価値観も異なる。そして、日本社会と個人との間には様々な中間団体が存在する。すなわち人々は厳然として地域に属し、政党に属し、専門家の集団に属し、同じ企業社会にあっても異なった価値観を持つ企業に属し、教会に属し、その他、様々なコミュニティに所属している。それらの中間団体はそれぞれの仕方で伝統的なコミュニケーション方法や価値判断基準を持っており、それらはよく知られたものであり、社会全体の中に固有の位置を占め、その名においてなされた言説に対して公共性を与えている。このような構図はネットによって何も変わらない。変わったのは、マスメディアという媒体によってほんの数十年前に作り上げられたにすぎない虚構の「われわれ」だけにすぎない。
今後の課題は、上記の2つの二元論の克服に合わせて、次の2点になるだろう。
1) 言論の多様性を認識しつつ、言論の信頼性のレベル、信頼性の保障方法について、言論の場面や属性を整理すること。・・・ あたりまえのことだが、マスコミにおける言論の他にも、学会における言論、司法における言論、企業経営における言論、アートにおける言論・・・それぞれ全く異なった品質基準と品質保証方法を要する。
2) 社会の多元性を認識しつつ、一人一人の多元的な所属関係を今一度明るみに出すこと。マスコミによる長年の「われわれ」の認識の強制によって弱まってはいるが、決して失われたわけではない様々な伝統的な組織の存在とその存立原理を確認すること。例えば私は、日本国民としてのアイデンティティや職業的なアイデンティティの他にも、様々な伝統的コミュニティに帰属しながら自らのアイデンティティを複合的に形成しているが、それらのコミュニティの存立原理はネットによって影響を受けるものではないし、むしろネットの利便性を活用することで、それらコミュニティへの帰属の確認は容易になっている。ネットはその利便性を通じて様々な中間団体を再発見し、それらへの帰属を強化することを支援するといってよい。
なお、本書で取り上げられている問題について、戦後マスコミ論の文脈ではなく、より伝統的な言説である社会思想史の文脈の中で考えたい場合には、次を参考にすることができるのでお勧めしたい。
- ケインズとハイエク 間宮陽介 ちくま学芸文庫 (特に終章「大衆社会の中で」)
- 市場社会の思想史-「自由」をどう解釈するか 間宮陽介 中公新書
なお、本書は日本社会論であるが、企業組織論にそのままスライドさせることができる。企業組織も、その多元性の認識が急務になっているのである。