脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

自分物語合理性。 ---- 経済合理性 から 欲望合理性へ。

2014年02月22日 14時27分05秒 | コギト
昔の経済学の入門書、サミュエルソンの経済学とかには大抵、人間は
ホモ・エコノミックスであり、経済合理性を以て行動するものだと書
かれていた。最近でもそう書かれてあるのか知らないが、誰でも思う
のは、人間も社会も経済合理性だけでは動いていないということだ。

動物なら本能や習性とか感情で動くだろうが、人間も見栄だの損得抜き
の感情等で動くことは多い。今言いたいことは、非・経済合理性として
の消費欲求(楽であること・便利さ・最新性・美装等への欲求・欲望)
のことである。ここではそれを、自己欲望への合理性として捉えたい。

統計的に真かは知らないが、世間を眺めると、衣食住その他日常生活に
おける経済合理的消費と、楽や便利さ、自己満足等という個人の欲望合
理的な消費の割合は、時代を経るに従って、後者の消費比率が拡大・増
大している気がする。それは、より豊かになった証かもしれないが、
人間性の方はどんどん表層的で薄っぺらくなってきたけど。


18~19世紀の空想的社会主義者とか、かのマルクスやエンゲルスも、生
活に不足がなく、求めれば誰でも与えられる社会に、共産主義社会の理
想を夢見た。マルクスが生きた頃は、衣食住や職という、人間生活の生
存の基本にさえ深刻に事欠く時代だったからだ。

しかし、モノさえ豊かに行き渡るなら、ヒトは争わず生存闘争から解放
されて、平等に富を分ち合う社会が実現するかといえば、そうではなか
った。さらなる欲望(楽・便利・華美等)がドライヴし、それの獲得へと
生存の闘争は、新しい局面を繰り広げるだけなのである。

(※ 前々段落、マルクスが楽観的な社会科学者のように書いてしまった
  が、<資本>や剰余価値の運動が社会を変動させていくと論じた天才
  に、社会的欲望論のセンスが無かったとは、私は思わない。)


現代「楽」や「便利さ」等は、100年前の衣食住と同レベルの、基本欲求
に位置付けられるだろう。今、欲望合理性という場合、自分が欲望する
「物語」への参入や、それの同時代的共有、それを消費(成就)することに、
つまりそのためにカネを払うことに、彼も彼女も、抵抗のない自然な「(経
済)合理性」を感じる時代なのだと思う。

物語消費論みたいな設論は、80年代以降様々に展開されてきているが、
ヒトは、衣食住さらには、楽・便利等の対価としてよりも、物語の獲得・
達成のためになら、夢中で競い合い、社会的生命さえも賭けるという傾
向が出始めていると思う。

このところマスコミは、ソチ五輪の「物語」報道で、人心の現実を「感動」
で編集しているが、東京五輪への地ならしなのか。「物語」がヒトを動か
し、新たな現実を引き起こしては、人の運命や歴史を作り替えていくこと
がある。「国家」とか「日本民族」とか、また大きな「物語」が喚起され、
操られた人心が、社会変動へと駆り立てられていくのだろうか?

例えば、秋葉原のホコ天に車で乱入し、多数の死傷者を出した事件の犯人
・加藤某から、この国の首相や支配層に至るまで、まるでゲームに熱中し
過ぎて周囲が見えなくなった子供達みたいに、自分の物語を時代にいかに
織り込む、或いは押し付けるかに、誰もが執心・腐心しているように、私
には見えるのだが…。










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