昔の経済学の入門書、サミュエルソンの経済学とかには大抵、人間は
ホモ・エコノミックスであり、経済合理性を以て行動するものだと書
かれていた。最近でもそう書かれてあるのか知らないが、誰でも思う
のは、人間も社会も経済合理性だけでは動いていないということだ。
動物なら本能や習性とか感情で動くだろうが、人間も見栄だの損得抜き
の感情等で動くことは多い。今言いたいことは、非・経済合理性として
の消費欲求(楽であること・便利さ・最新性・美装等への欲求・欲望)
のことである。ここではそれを、自己欲望への合理性として捉えたい。
統計的に真かは知らないが、世間を眺めると、衣食住その他日常生活に
おける経済合理的消費と、楽や便利さ、自己満足等という個人の欲望合
理的な消費の割合は、時代を経るに従って、後者の消費比率が拡大・増
大している気がする。それは、より豊かになった証かもしれないが、
人間性の方はどんどん表層的で薄っぺらくなってきたけど。
18~19世紀の空想的社会主義者とか、かのマルクスやエンゲルスも、生
活に不足がなく、求めれば誰でも与えられる社会に、共産主義社会の理
想を夢見た。マルクスが生きた頃は、衣食住や職という、人間生活の生
存の基本にさえ深刻に事欠く時代だったからだ。
しかし、モノさえ豊かに行き渡るなら、ヒトは争わず生存闘争から解放
されて、平等に富を分ち合う社会が実現するかといえば、そうではなか
った。さらなる欲望(楽・便利・華美等)がドライヴし、それの獲得へと
生存の闘争は、新しい局面を繰り広げるだけなのである。
(※ 前々段落、マルクスが楽観的な社会科学者のように書いてしまった
が、<資本>や剰余価値の運動が社会を変動させていくと論じた天才
に、社会的欲望論のセンスが無かったとは、私は思わない。)
現代「楽」や「便利さ」等は、100年前の衣食住と同レベルの、基本欲求
に位置付けられるだろう。今、欲望合理性という場合、自分が欲望する
「物語」への参入や、それの同時代的共有、それを消費(成就)することに、
つまりそのためにカネを払うことに、彼も彼女も、抵抗のない自然な「(経
済)合理性」を感じる時代なのだと思う。
物語消費論みたいな設論は、80年代以降様々に展開されてきているが、
ヒトは、衣食住さらには、楽・便利等の対価としてよりも、物語の獲得・
達成のためになら、夢中で競い合い、社会的生命さえも賭けるという傾
向が出始めていると思う。
このところマスコミは、ソチ五輪の「物語」報道で、人心の現実を「感動」
で編集しているが、東京五輪への地ならしなのか。「物語」がヒトを動か
し、新たな現実を引き起こしては、人の運命や歴史を作り替えていくこと
がある。「国家」とか「日本民族」とか、また大きな「物語」が喚起され、
操られた人心が、社会変動へと駆り立てられていくのだろうか?
例えば、秋葉原のホコ天に車で乱入し、多数の死傷者を出した事件の犯人
・加藤某から、この国の首相や支配層に至るまで、まるでゲームに熱中し
過ぎて周囲が見えなくなった子供達みたいに、自分の物語を時代にいかに
織り込む、或いは押し付けるかに、誰もが執心・腐心しているように、私
には見えるのだが…。
ホモ・エコノミックスであり、経済合理性を以て行動するものだと書
かれていた。最近でもそう書かれてあるのか知らないが、誰でも思う
のは、人間も社会も経済合理性だけでは動いていないということだ。
動物なら本能や習性とか感情で動くだろうが、人間も見栄だの損得抜き
の感情等で動くことは多い。今言いたいことは、非・経済合理性として
の消費欲求(楽であること・便利さ・最新性・美装等への欲求・欲望)
のことである。ここではそれを、自己欲望への合理性として捉えたい。
統計的に真かは知らないが、世間を眺めると、衣食住その他日常生活に
おける経済合理的消費と、楽や便利さ、自己満足等という個人の欲望合
理的な消費の割合は、時代を経るに従って、後者の消費比率が拡大・増
大している気がする。それは、より豊かになった証かもしれないが、
人間性の方はどんどん表層的で薄っぺらくなってきたけど。
18~19世紀の空想的社会主義者とか、かのマルクスやエンゲルスも、生
活に不足がなく、求めれば誰でも与えられる社会に、共産主義社会の理
想を夢見た。マルクスが生きた頃は、衣食住や職という、人間生活の生
存の基本にさえ深刻に事欠く時代だったからだ。
しかし、モノさえ豊かに行き渡るなら、ヒトは争わず生存闘争から解放
されて、平等に富を分ち合う社会が実現するかといえば、そうではなか
った。さらなる欲望(楽・便利・華美等)がドライヴし、それの獲得へと
生存の闘争は、新しい局面を繰り広げるだけなのである。
(※ 前々段落、マルクスが楽観的な社会科学者のように書いてしまった
が、<資本>や剰余価値の運動が社会を変動させていくと論じた天才
に、社会的欲望論のセンスが無かったとは、私は思わない。)
現代「楽」や「便利さ」等は、100年前の衣食住と同レベルの、基本欲求
に位置付けられるだろう。今、欲望合理性という場合、自分が欲望する
「物語」への参入や、それの同時代的共有、それを消費(成就)することに、
つまりそのためにカネを払うことに、彼も彼女も、抵抗のない自然な「(経
済)合理性」を感じる時代なのだと思う。
物語消費論みたいな設論は、80年代以降様々に展開されてきているが、
ヒトは、衣食住さらには、楽・便利等の対価としてよりも、物語の獲得・
達成のためになら、夢中で競い合い、社会的生命さえも賭けるという傾
向が出始めていると思う。
このところマスコミは、ソチ五輪の「物語」報道で、人心の現実を「感動」
で編集しているが、東京五輪への地ならしなのか。「物語」がヒトを動か
し、新たな現実を引き起こしては、人の運命や歴史を作り替えていくこと
がある。「国家」とか「日本民族」とか、また大きな「物語」が喚起され、
操られた人心が、社会変動へと駆り立てられていくのだろうか?
例えば、秋葉原のホコ天に車で乱入し、多数の死傷者を出した事件の犯人
・加藤某から、この国の首相や支配層に至るまで、まるでゲームに熱中し
過ぎて周囲が見えなくなった子供達みたいに、自分の物語を時代にいかに
織り込む、或いは押し付けるかに、誰もが執心・腐心しているように、私
には見えるのだが…。