脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

大学という「壺」。

2011年01月08日 14時35分40秒 | 社会時評
今週木曜日に、障害者仲間と靖国神社に詣でた。
靖国へ行くのは、15年ぶりくらいだろうか。
国難殉死者を祀るこの神社には、太平洋戦争の戦犯も合祀されている
等々の理由で、嫌われてもいるが、最近の私は随分と無頓着になった。

神社本殿、右手奥の空には、高層ビルがみえるが、何だと思ったら、
法政大学らしい。
この界隈の大学、専修とか明治とかも高層ビル化した。
どこの大学も専門学校さえも、どこか「会社」みたいである。
いや既に、大学の方が「大手就職予備校」なのだろう。

従来大学というものは、横拡がりの空間の中に、シンボル的な塔をもつ
ものだったが、都心の大学は、存在が丸ごと「塔」だか石碑のようだ。
大学が、外見も中身も以前より「たこ壺」化してはいないだろうか。

学問の「たこ壺」化は古くて新しい議論である。
今や、名実ともに「たこ」な専門業者だけが、我が物顔で出入りする、
排他的な壺に化しているのだろうか?
現代の「たこ壺」問題とは、「たこ」教授よりも学生がその「壺」に
嵌った「たこ」になり、企業向けに出荷されている問題かもしれない。

私は、世のアカデミズムには関係ない人間だが、
アカデミックな事物に触れることは好きである。
だが、大学という「たこ壺」に再度身を置きたいとは全く思わない。


私は、ヨーロッパを自由にひとり旅をしながら、考え続けたデカルトや
レンズ磨きを生業としながら哲学を展開したスピノザが好きである。
彼らは世に知られたが、全く知られずに没した無名な哲学者や学者も
数多くいたのだろう。

ある事柄に、好きで独り取り組んでいる者にとっては、外の世界の
諸々は、ある意味ではどうでもよいことである。
この夢中ごとは、ただ自分の人生の意味のひとつとして、
行われる個人的な営みである。飽きたら止めるし、気が向けば始める。

哲学とは、人間、社会、国家、世界、宇宙等における究極的「何故」を
問い、それの答えを探求するパズルか、知恵の輪だと思う。
個別分科諸科学を基礎付ける学、だのとは思わない。
万物の創造主への、有限な知見しか持ちえぬ人間、しかも一個人による
密やかな挑戦である。(いや、ただの、脳活動による暇つぶしか?)

と、ここまで記したら、
あなたこそ、究極の「たこ壺」の「たこ」ではありませんか? 
という声が聞こえそうである。

それは全く、その通り!

私は寧ろ、誰もが自分の「たこ壺」を持つべきだと思う。
但し、権威ある大学アカデミズムの現場が「たこ壺」型では情けない
と言っているだけである。




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