脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

「残業代ゼロ」の雇用社会。

2014年04月26日 19時44分12秒 | 社会時評
この見出しを新聞で最初見たとき、えッ「残業ゼロ」社会を作る? と
見間違えた。今週、競争力会議なる政府機関が「残業代ゼロ」という提
言をした。以前出たホワイトカラー・エグゼンプションの焼き直しだ。
本人が同意すれば、時間や場所を拘束されずに自由に働けるという社員
制度だが、会社は、給料を時間でなく成果で支払い、残業代の支払義務
は負わないというものらしい。

これまでも研究職や営業職等で「みなし労働」制というものがあった。
所定労働時間勤務したとみなす労働時間法制の運用だが、その場合に
残業をしても「みなし残業」代は通常払われないものであった。この処
遇をさらに一般職にも拡大し、雇用契約として法制度化し正規に位置づ
けようというのだろうが、労働者の使い捨てが進みかねないのでは。

高給が保証されて自由な勤務が許されるなら、「残業代ゼロ」を選択す
る社員もいるであろうが、そのような幸せなケースはほんの一部だろう。
大半は、同意せねば勤続出来ないような圧力が掛かる等、人件費圧縮策
や、使用者責任の軽減手段にも使われそうであり、勤労者を蹂躙し、雇
用保障の低下、不安定雇用をも助長する悪辣な雇用政策だと思う。

安倍政権は既に、解雇ルールや派遣労働の緩和等、全て経済界寄りに労
働法制の規制緩和を打ち出してきた。さらに、雇用労働のブラック化を
国を挙げて推し進めるのかという感じだ。ブラック企業の取締りどころ
か、これでは国民は、増税ラッシュと労働のブラック化の二重圧力でさ
らに労働・生活ともに疲弊・困窮しかねない。

この二十年位、世間では成果主義とか自己責任という言葉が横行してき
た。成果主義という場合、意味や程度、測り方に様々あろう。が、まず
雇用労働者は企業損益が直接帰属する立場ではない。損益の帰属先は経
営者や株主である。一般に労働者は、労働を時間で売る立場に過ぎない。
その対価として報酬を得る賃金生活者である。大原則としては(例外もあ
ろうが)成果を問わず、会社は賃金の支払い義務を負っているはずである。

だが会社が、一定の業務や成果と引き換えにしか報酬を支払わなくて良
いとなれば、それでは雇用労働ではなく、請負労働であり独立自営業者
と同じである。この立場では逆に、会社に不利益が生じた場合、社員は
その責任や賠償を負う義務さえ発生しかねない。利益の大半は会社が取
り、損失は社員が被るでは、ブラック労働が益々はびこる。

労働基準法が厳禁しているのも、搾取労働(ピンハネ)と強制労働(タコ部
屋等)というブラック労働である。「残業代ゼロ」制度は、その両者に微
妙に抵触するような実質・実態を持つようにならないかという懸念があ
る。総じて安倍政権の労働法制改悪には、労働者保護法制としての、労
働基準法の精神を、根本から骨抜きにしかねない危うさがある。

戦後の日本でいち早く法整備がなされたのは、労働法の分野であった。
GHQは日本の雇用労働・労使関係には封建遺制が色濃いと問題視した。
その結果、労働組合法が日本国憲法(1946年公布)に先駆けて1945年
に公布され、労働関係調整法(1946)、労働基準法(1947)と労働三法が整
備された経緯がある。また教育基本法も同じ時期に公布されている。

戦後民主主義の原点に、憲法・労働法・教育法があり、曲りなりに国の
かたちを法・思想・制度面で整えてきた。「戦後レジーム」からの脱却
というとき、これらは一定の時代の役割を終えたという意味なのか、或
いはその「かたち」は元々誤りであったということなのか。

憲法の解釈改憲、労働法制改悪、教育勅語の見直しといい、戦前の封建
保守な時代に戻すこと、または企業経営の便益拡大が、今目指されてい
る、取り戻すべき「国のかたち」なのだろうか。企業にばかり恩典を与
え競争を奨励する、この「かたち」とは果たして、今後もこの国で暮ら
すであろう我々国民に、安心や安寧、生存の自然なかたちを与えてくれ
るものなのだろうか。







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