脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

「ひとり」を手離す。 

2016年12月26日 13時23分02秒 | 近況
今年はあと一週間もない。と言っても、締め切りの仕事を抱えている
のでもなければ、金策に詰まっているのでもない。朝起きると、母親
のポータブル・トイレの始末をし、母の朝飯の支度、ゴミ出し・時に
庭掃除、洗濯機を廻す等家事の後、やっと自分の朝の身支度だの朝食。

そんな朝を毎日過ごし、そんな朝に年末も正月もなく、もはや迷いも
希望もなく、ただ親の介護人として生きているという存在感。九月に
父が亡くなって以後、名義上は母だが、私がこの家の事実上の戸主で
ある。一戸建ての戸主って、色々面倒臭いが仕方ない。

父が物故し、一面では肩の荷が降りた気持ちもあるが、他面では父が
やってくれた近所の付き合いその他、新たな荷物が私に課せられて来
る。私は私として、父とは異なる人柄とスタンスで、その種の世過ぎ
は対処するつもりでいるが。

今朝、外に出てみたら、隣の事業所の壁に車でもぶつかったかのよう
な凹み痕を見つけた。我が家の敷地にある貸駐車場から出庫した車が
仕出かした不始末である可能性・大である。必ずしもそうと限った訳
ではないが、自然に眺めればそう見える。厄介事・面倒は困る。

貸駐車場の経営は某パーキング会社に委ねているので、建物への物損
責任という点ではその某社が負うべき、これもあくまで貸駐車場の客
の車がやったという証明があればだが、いやその証拠があっても、当
該車両運転のドライバーが責任を負うのみで、パーキング会社の管理
責任は、裁判でもしない限り生じないのかもしれない。

先日、新潟の糸魚川で大火災が発生した。自分は最大限気を付けてい
ても、いつどんな災害や不幸に巻き込まれるのかは、神のみぞ知るで
ある。神なんて知ってても、助けてくれないのである。賠償だのあっ
ても、生きていくって事は、最終的には自分の自己責任である。

「自己責任」だのと強調すると、何だか自分ひとりであらゆる困難に
立ち向かわねばならないかのような、世間と対峙すべく孤高に切り立
つ、尖がった思いに閉じ込められそうになるが、そうではない。

ヒトは、自分で引き受けられない過度の責任に、さらされることだっ
てある。だからこそ、一層に他者との繋がりや協力、救いの手が必要
なのであり、我々は、その基本が自己責任者であるというのなら、だ
からこそ、そんな個々人が互いに支えあうことが自然な営みである
生活風景をこそ取り戻すことが重要なのだ。


補遺:話が飛ぶが、某ドラマのエンディング「恋ダンス」というダン
   スが人気を博している。ダンスも明るく愉快だが、よく聴くと
   歌詞も意味深である。新しい「個人」又は新しい男女の結び方
   を模索するかのようである。

   「夫婦を超えてゆけ 二人を超えてゆけ 一人を超えてゆけ」
   (星野源)という終わりのリフレインは、哲学風でさえあって、
   何か新しい風が吹く予感を孕んで感じられて好い。




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