脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

『M』(フリッツ・ラング/1931)。

2010年11月27日 13時17分53秒 | コギト
ジグムント・フロイドは周知のように、人間の心に意識と無意識という
二つの層を仮設する思考をした。身体的現実とネット的現実というもの
にも、同じアナロジーが成立するかもしれない。

ネット社会は、記録・記憶の海であり、匿名で大衆的な無意識の世界で
ある。無意識は突如として噴出する。かの尖閣諸島の映像のように‥。


表題の『M』は、1931年にドイツで公開された幼児連続誘拐殺害事
件を題材にした映画である。第一次大戦で敗退し世界大恐慌に晒され、
ワイマール末期のドイツは退廃と不安の中に沈みこんでいた。

当時のドイツでは、大量の失業者・浮浪者が溢れ、犯罪が横行し、一般
市民も警察・行政も衰退し行く国家・社会の先行きに光が見出せぬまま
、ナチズムへの期待とその強大な台頭へと流されていく。

『M』はそんなドイツ現代史の冒頭に位置する映画にも思える。
連続殺人犯のベッカートは第一次大戦に従軍して戦時トラウマを有する
人間であるらしい。警察は彼を捕まえるために懸賞金をかけ、浮浪者集
団を利用し捜索を展開する。ベッカートは新たな犯罪に着手しようとし
た処を発見され追い立てられる。

終盤では、まるで無数の匿名の声々が指弾する無意識の、「夢の法廷」
のような場所に、ベッカートは立たされている。

ここで裁く者たちは、浮浪者・前科者・犯罪被害遺族・一般人である。
ベッカートは戦争後遺症による強迫性精神障害を申し立て、法の保護を
求めるが、裁く側は、精神障害による罪の減刑、短期の服役、そして出
所後の再犯という結末が見え透いているとして、即時処刑を主張する。
ほぼ人民裁判のような様相で、圧倒的な糾弾に取り巻かれ、吊るし上げ
られたベッカートは、無力なまま頭を抱えて崩れ落ちる。

映画では最後の場面で、現実の裁判所の法廷が用意されているかのよう
な映像が短く挟み込まれて終わっている。
しかしラングが、法秩序の枠組みで事態は収束すべきだというメッセー
ジを発しているのかは、不明瞭に見える。
この作品は、連続殺人犯の猟奇的恐怖を描くよりも、大衆がその暴力性
を顕現させ、一方的な感情で制裁を始めること、集団で敵を包囲した際
の、人間の同調的な恐しさの方を描いているようにも、私は感じた。

国家的・社会的諸制度を飲み込んでしまう「大衆」という匿名で無責任
なる、無意識の噴出を「野蛮」「未開」として、かつての知識層(例え
ばニーチェやオルテガ)のように切り捨てつつ、選民意識を持つ全体主
義に道を拓いた歴史は、また繰り返されるのかもしれない。


インターネット社会は、ネットという秘めた心のはけ口、あるいは大衆
的無意識を形成しつつある。
だが、これが「夢の法廷」として現実の諸制度を凌駕し、現実世界へ
介入し暴走し始めるとき、それを食い止める有効な手段も仕組みもない。
元栓を締めることが出来ても、流れた水は元には戻らない。

それでも、ネットは規制すべきではない。
ミニマムなルールはあってもよいが、ネットが基本としてもつ民主性と
自由が、緩やかな社会的革命をもたらすことの方に期待したい。





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