このあいだ、テレビで「関が原」をやってましてね、
ドラマでなく、歴史ドキュメントとして。
この種の番組には珍しいことに、
NHKでなく、BSではありますが民放が取り上げてました。
その中に、「家康の問鉄砲(といでっぽう)」のことが出て来ましてね。
日本史で一番有名な戦いである、
「天下分け目の関が原」、ですが、
この戦いの帰結を決めたのが、
西軍の武将、「小早川秀秋の裏切り」であることは、良く知られた事実。
豊臣秀吉の正室、
寧々(ねね)の甥である秀秋がなぜ西軍を裏切ったか、
と云うような話はさておき、
このとき、関が原で戦いが起きて、数時間、
西軍やや有利と云う戦況を見て、東軍の総大将・徳川家康がイライラしだした。
実はこの戦いの前、
家康は西軍の秀秋から裏切ると云う内諾を得ていた。
ところが、山上に布陣した秀秋が、
戦い半ばのこの時となっても、一向に動かないので、
イラついた家康が、
「テメェ、約束はどうした、フザケンナよっ!!」とばかりに、
秀秋の陣地へ鉄砲を撃ちかける。
驚いた秀秋が裏切りを決断すると云うこの場面、
司馬遼太郎の「関が原」では次のように描かれています。
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火縄をはさみ、
火蓋(ひぶた)をひらき、いっせいに引き金をひかせた。
硝煙があがり、銃声は天へふきあがった。
「なにごとだ」と、山頂で、秀秋はかん高い声をあげた。
「指物に覚えがござる。
あれは内府(家康)の鉄砲頭布施源兵衛でござりましょう」と側近の者がいった。
「なに内府が」
「督促でござろう」と平岡石見がいった。
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いつまでも動かぬ秀秋にいらだった家康が、
「裏切る気が有るのか!」と、問いかけたから問鉄砲。
これで顔面蒼白になった秀秋が、
松尾山の陣から一気に駆け下りて裏切り決行、
関が原の戦いの帰趨(きすう)が決した、
と云うのですが、
実はこの話は、
関が原から百年ほどもたった書物に出てくるのだそうで、
最近では信憑性が薄いと言われてます。
番組では、
家康の位置から秀秋の陣地まで一キロ以上あること、
この距離、当時の火縄銃では弾が半分も届かないこと、
また、両軍数万の将兵が戦っている最中では、
そうとうな騒音、
だから、家康の親衛隊の発した鉄砲の音程度なら、
秀秋の陣地からでは、
誰の発したものかは、とてもじゃないが、聞き分けられないこと、
などなど、様々に検証していました。
話は変わるのですが、
先日、散歩をしていて自衛隊のグランド横を通ったら、
演習をしていたんです。
と云っても、
差し渡し100メートルほどのグランドですからね、
演習と言っても本格的なものではなく、
運動会規模ですが。
それでも、空砲とは云え、
ホンモノの鉄砲ですからね、一斉射撃だと凄い音がします。
散歩中の私の位置と、
発砲している位置はわずかに三十メートルほど、
「実物はさすがにすごい迫力」と、
耳を押さえながら暫く見ていて、やがて通り過ぎたのですが、
ブラブラと歩くうち、
その発射音が、轟音から、騒音へ、騒音から雑音へと、
つまり、だんだんと気にならなくなった。
その距離、およそ一km余ほどかな、
つまり、松尾山の秀秋の陣地と家康の本陣の距離。
そこまで離れると
耳を澄まさないと分からないほど。
家に帰って我が同居人ドノに聞くと、
「気がつかなかった、聞こえなかった」とのこと。
まぁ、あばら家とは云え、
屋内にいたのでムリもないのかもしれませんが、
新式武器の発射音で、コレですからね、
小早川秀秋は、関が原の大功労者であるにもかかわらず、
このあと、数年を経ずして亡くなり、
「跡継ぎがいない」と云うことで、家は取り潰されています。
関が原で裏切ったと云うことでもあり、
大名家として存続していないことでもあり、
史談を書く側に、
事実以上に、
秀秋をおとしめて書き易い状況であったことは確か。
それらを考えあわせると、
「関が原の問鉄砲」は、
後世につくられた逸話だと思わざるを得ません。
話としてはおもしろいんですがね、「問鉄砲」。