私の若いころ、
古代史最大の内乱で、
天下分け目の戦いでもあった
「壬申の乱」に付いて書かれたものは少なく、
たまに見かけても、
そのほとんどは日本書紀の記述に基いたものでしかなかった。
だからそれは、
学者が検討する史料にはなり得るが読んで面白いものではなかった。
しかも日本書紀は「勝者の書いた歴史書」
つまり「関ケ原の戦い」を百年後に徳川幕府が書いたようなものです。
だから、勝者に都合よく書かれたと見てよい。
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【壬申の乱】 じんしんのらん
壬申の年にあたる672年、
天智天皇の弟の大海人(おおあまの)皇子 と
天皇の長子である大友皇子が、皇位継承をめぐって起こした内乱。
大友皇子は敗北して自殺し、
翌年、大海人皇子は即位して天武天皇となった。
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処がひと月ほど前、
「女たちの壬申の乱」と云う本が出たそうです。
私はまだ未読なのですが、
その本を読んだ人の紹介文。
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本書の見解でまず注目されるのは、
病床の天智と大海人とのやり取りです。
『日本書紀』によると、
天智が大海人に皇位を譲ろうとしたものの、
大海人は病気を理由に断り、
皇后の倭姫に皇位を継承もしくは代行させるよう天智に進言しました。
(このあと大海人は急ぎ近江京から脱出する)
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この場面、学者たちは、
「大海人は身の危険を感じ後継を断り奈良の吉野へ脱出した」としますが、
危篤の天皇から「あとを頼む」と言われただけで、
「身の危険を感じ」たうえ「奈良吉野までも逃げた」と云うのは、
素人目から見ていかにも不自然。
堂々と跡を継いで、
天下を統治すればいい分けですからね。天皇位を
まぁ、学者さんたちは、
「天皇位を受ければ天智はすぐに大海人を殺すつもりだった」と解説するんですけれどね。
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しかし本書は、
兄弟のこのやり取りには創作がある、と推測します。
天智はすでに弟の大海人ではなく
息子の大友を後継者として決めており、
大海人を呼んだのは、
大友の後見を頼んだものの、
大海人は断って出家を申し出て、
天智はそれを認めた、というわけです。
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この解釈なら、
自分が天皇となって天下を動かしたい大海人が辞退するのも分かる。
まだ若い大友より、
自分の方が経験もあり、実力人望ともにあると思ってますからね。
こんな処で補佐役になっては もう天皇に成れない。
つまり、辞退したこの時にはすでに、
大海人は兄の息子・大友を討ち天皇になろうと腹を決めていた。
しかしそう書いては、
大海人が謀反人のようになる、
だから日本書紀では、
大海人はもともと後継者になれたのだが辞退し、
後に大友が大海人を討とうとしたから、
「やむなく兵を挙げたのだ」と大海人を正義のように書いた。
まぁ、本書の解釈も物証の無いことですからネ、
「所詮は推測に過ぎない」と言われればそれまでですが、
私的には納得が行き、とても面白い解釈だと思いました。