私は以前、
ガラシア病院と云う処に入院したことがありましてね。
ある朝、周囲を散歩してたら、
病院の職員さんがタケノコを掘ってる。
話を聞いたら、
この裏山も病院の持ち物だが、
放っとくと竹が増えすぎて危険なほどになる。
だから、掘るのであって、食料目あてではないと云う。
それが嘘でない証拠に、
実際、病院の食事には出てこなかった。(笑)
最近読みなおした短編小説に、
海音寺潮五郎氏の「一色崩れ」と云うのがありましてね。
戦国の一時期、
丹後の国を細川氏と半分づつ領した一色氏の滅亡譚。
ここ丹後の国は織田信長の勢力が伸長した時、
明智光秀の裁量に任せたのですが、
その光秀の指示により、
細川氏と一色氏に半分づつ治めさせることになった。
処が間もなく、本能寺の変。
で、その時、
光秀の裁量によって丹後半国を領していた、
細川忠興の嫁は光秀の娘、玉、
当時から、その美貌を喧伝された人で、
忠興の愛情が一方ならず、と、このことは、
今に、数々の逸話が残ってます。
で、光秀は当然、
丹後半国を世話してやった娘婿の細川は、
我が味方に付くはず、と思ってるから、勧誘の手紙が来る。
この時のことを海音寺氏は、次のように書きます。
~~~~~~~~~~~~~~~
宮津城内では評定が行なわれた。
(中略)
おそらく細川親子の迷いは
一通りや二通りののものではなかったであろうが、
二人は談合して、
味方はせぬと志を決していたので
評定は単に言い渡しに終わった。
(中略)
(義理の親子だとて味方になるとは限らぬ)
そんな時代なのだ。
つまりは利害の比較商量ということになるが、
それがどうなるか一寸先は闇だ。
明智に味方して勝てば、
とりあえず摂津(大坂北部)という
日本一の利益の多い土地がもらえるばかりでなく、
天下人の娘婿として将来の栄達は謀るべからざるものがあるが、
負ければ目も当てられないことになる。
(中略)
どっちが当るか、五里霧中だ。
~~~~~~~~~~~~~~~
この時、細川忠興は、
ヨメのお玉を離別せず、山奥に蟄居させるのですが、
このことを海音寺潮五郎氏は、こう書いてます。
~~~~~~~~~~~~~~
当時の武家の常識に従えば
当然離縁しなければならないところだ。
忠興はお玉を愛することが深く、
お玉の生きている間は、
ひとりの側室もおいていないほどであるから、
お玉に対する愛情がこうさせたともとも思えるが、
僕には、愛情だけのこととは思われない。
忠興の心中には
二股をかける気持ちもあったのではないかとも思っている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
結局、明智は亡んで、
秀吉の世となるのだが、
~~~~~~~~~~~~~~
(そうなってから、細川)父子は
秀吉の元へ軍状を注進して、二心なきを誓った。
秀吉ほどの人物だから、
父子の心は見通しであったには違いないが、
秀吉は将来にさしつかえのないかぎり、
知っていてだまされておくという機略のあった人だ。
(中略)
「つらかったろうな。
よくぞ大義を踏み違えざった。
あっぱれであるぞ、武士の鑑というべきはご辺ら父子のことだ」
と、かえって激賞して、本領安堵の誓紙をおくった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
細川氏は、
戦国のはじめ足利将軍につかえ、
のち、信長に乗り換え、
さらに明智との義理や恩を振り切って秀吉につき、
関ケ原ではその豊臣を振り捨て徳川についた。
海音寺氏の云う
“どっちが当るか、五里霧中”の世を、
巧みに泳ぎきり、ついには熊本の太守となった。
思えば、
細川護熙さんも、
ご先祖が戦国の世を踏み誤っていたら、
首相の座に就くこともなかったかもしれない。
大坂の箕面にあるガラシア病院は、
キリスト教に帰依した細川玉の洗礼名、
ガラシャの名を冠した
キリスト教系の医療法人が経営する病院で、
私が入院していたことのある病院です。
ガラシア病院と云う処に入院したことがありましてね。
ある朝、周囲を散歩してたら、
病院の職員さんがタケノコを掘ってる。
話を聞いたら、
この裏山も病院の持ち物だが、
放っとくと竹が増えすぎて危険なほどになる。
だから、掘るのであって、食料目あてではないと云う。
それが嘘でない証拠に、
実際、病院の食事には出てこなかった。(笑)
最近読みなおした短編小説に、
海音寺潮五郎氏の「一色崩れ」と云うのがありましてね。
戦国の一時期、
丹後の国を細川氏と半分づつ領した一色氏の滅亡譚。
ここ丹後の国は織田信長の勢力が伸長した時、
明智光秀の裁量に任せたのですが、
その光秀の指示により、
細川氏と一色氏に半分づつ治めさせることになった。
処が間もなく、本能寺の変。
で、その時、
光秀の裁量によって丹後半国を領していた、
細川忠興の嫁は光秀の娘、玉、
当時から、その美貌を喧伝された人で、
忠興の愛情が一方ならず、と、このことは、
今に、数々の逸話が残ってます。
で、光秀は当然、
丹後半国を世話してやった娘婿の細川は、
我が味方に付くはず、と思ってるから、勧誘の手紙が来る。
この時のことを海音寺氏は、次のように書きます。
~~~~~~~~~~~~~~~
宮津城内では評定が行なわれた。
(中略)
おそらく細川親子の迷いは
一通りや二通りののものではなかったであろうが、
二人は談合して、
味方はせぬと志を決していたので
評定は単に言い渡しに終わった。
(中略)
(義理の親子だとて味方になるとは限らぬ)
そんな時代なのだ。
つまりは利害の比較商量ということになるが、
それがどうなるか一寸先は闇だ。
明智に味方して勝てば、
とりあえず摂津(大坂北部)という
日本一の利益の多い土地がもらえるばかりでなく、
天下人の娘婿として将来の栄達は謀るべからざるものがあるが、
負ければ目も当てられないことになる。
(中略)
どっちが当るか、五里霧中だ。
~~~~~~~~~~~~~~~
この時、細川忠興は、
ヨメのお玉を離別せず、山奥に蟄居させるのですが、
このことを海音寺潮五郎氏は、こう書いてます。
~~~~~~~~~~~~~~
当時の武家の常識に従えば
当然離縁しなければならないところだ。
忠興はお玉を愛することが深く、
お玉の生きている間は、
ひとりの側室もおいていないほどであるから、
お玉に対する愛情がこうさせたともとも思えるが、
僕には、愛情だけのこととは思われない。
忠興の心中には
二股をかける気持ちもあったのではないかとも思っている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
結局、明智は亡んで、
秀吉の世となるのだが、
~~~~~~~~~~~~~~
(そうなってから、細川)父子は
秀吉の元へ軍状を注進して、二心なきを誓った。
秀吉ほどの人物だから、
父子の心は見通しであったには違いないが、
秀吉は将来にさしつかえのないかぎり、
知っていてだまされておくという機略のあった人だ。
(中略)
「つらかったろうな。
よくぞ大義を踏み違えざった。
あっぱれであるぞ、武士の鑑というべきはご辺ら父子のことだ」
と、かえって激賞して、本領安堵の誓紙をおくった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
細川氏は、
戦国のはじめ足利将軍につかえ、
のち、信長に乗り換え、
さらに明智との義理や恩を振り切って秀吉につき、
関ケ原ではその豊臣を振り捨て徳川についた。
海音寺氏の云う
“どっちが当るか、五里霧中”の世を、
巧みに泳ぎきり、ついには熊本の太守となった。
思えば、
細川護熙さんも、
ご先祖が戦国の世を踏み誤っていたら、
首相の座に就くこともなかったかもしれない。
大坂の箕面にあるガラシア病院は、
キリスト教に帰依した細川玉の洗礼名、
ガラシャの名を冠した
キリスト教系の医療法人が経営する病院で、
私が入院していたことのある病院です。