漫筆日記・「噂と樽」

寝言のような、アクビのような・・・

海音寺潮五郎氏の「一色崩れ」

2018年06月11日 | 
私は以前、
ガラシア病院と云う処に入院したことがありましてね。

ある朝、周囲を散歩してたら、
病院の職員さんがタケノコを掘ってる。

話を聞いたら、
この裏山も病院の持ち物だが、

放っとくと竹が増えすぎて危険なほどになる。

だから、掘るのであって、食料目あてではないと云う。

それが嘘でない証拠に、
実際、病院の食事には出てこなかった。(笑)

最近読みなおした短編小説に、
海音寺潮五郎氏の「一色崩れ」と云うのがありましてね。

戦国の一時期、
丹後の国を細川氏と半分づつ領した一色氏の滅亡譚。

ここ丹後の国は織田信長の勢力が伸長した時、
明智光秀の裁量に任せたのですが、

その光秀の指示により、
細川氏と一色氏に半分づつ治めさせることになった。

処が間もなく、本能寺の変。

で、その時、
光秀の裁量によって丹後半国を領していた、

細川忠興の嫁は光秀の娘、玉、

当時から、その美貌を喧伝された人で、
忠興の愛情が一方ならず、と、このことは、

今に、数々の逸話が残ってます。

で、光秀は当然、
丹後半国を世話してやった娘婿の細川は、

我が味方に付くはず、と思ってるから、勧誘の手紙が来る。

この時のことを海音寺氏は、次のように書きます。

  ~~~~~~~~~~~~~~~

宮津城内では評定が行なわれた。

 (中略)

おそらく細川親子の迷いは
一通りや二通りののものではなかったであろうが、

二人は談合して、
味方はせぬと志を決していたので

評定は単に言い渡しに終わった。

 (中略)

(義理の親子だとて味方になるとは限らぬ)

そんな時代なのだ。

つまりは利害の比較商量ということになるが、
それがどうなるか一寸先は闇だ。

明智に味方して勝てば、

とりあえず摂津(大坂北部)という
日本一の利益の多い土地がもらえるばかりでなく、

天下人の娘婿として将来の栄達は謀るべからざるものがあるが、

負ければ目も当てられないことになる。

 (中略)

どっちが当るか、五里霧中だ。

  ~~~~~~~~~~~~~~~

この時、細川忠興は、
ヨメのお玉を離別せず、山奥に蟄居させるのですが、

このことを海音寺潮五郎氏は、こう書いてます。

  ~~~~~~~~~~~~~~

当時の武家の常識に従えば
当然離縁しなければならないところだ。

忠興はお玉を愛することが深く、
お玉の生きている間は、

ひとりの側室もおいていないほどであるから、
お玉に対する愛情がこうさせたともとも思えるが、

僕には、愛情だけのこととは思われない。

忠興の心中には
二股をかける気持ちもあったのではないかとも思っている。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~

結局、明智は亡んで、
秀吉の世となるのだが、

  ~~~~~~~~~~~~~~

(そうなってから、細川)父子は
秀吉の元へ軍状を注進して、二心なきを誓った。

秀吉ほどの人物だから、
父子の心は見通しであったには違いないが、

秀吉は将来にさしつかえのないかぎり、
知っていてだまされておくという機略のあった人だ。

 (中略)

「つらかったろうな。
よくぞ大義を踏み違えざった。

あっぱれであるぞ、武士の鑑というべきはご辺ら父子のことだ」

と、かえって激賞して、本領安堵の誓紙をおくった。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~

細川氏は、
戦国のはじめ足利将軍につかえ、

のち、信長に乗り換え、
さらに明智との義理や恩を振り切って秀吉につき、

関ケ原ではその豊臣を振り捨て徳川についた。

海音寺氏の云う
“どっちが当るか、五里霧中”の世を、

巧みに泳ぎきり、ついには熊本の太守となった。

思えば、
細川護熙さんも、

ご先祖が戦国の世を踏み誤っていたら、
首相の座に就くこともなかったかもしれない。

大坂の箕面にあるガラシア病院は、
キリスト教に帰依した細川玉の洗礼名、

ガラシャの名を冠した
キリスト教系の医療法人が経営する病院で、

私が入院していたことのある病院です。



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