いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
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謹賀新年

2008-01-01 | Weblog

 新しい年が来たが、この新しい年に何が起きるのだろう。教会は本当に目を向けなければならないところに、目を向けられるだろうか。それも、神学的に裏打ちされた信仰の眼をだ。信徒に阿る聖職が多すぎないか?あるいは、自分たちを正当化することにだけ奔走している聖職が多すぎないか?

 日本の教会で、道路から礼拝堂までまったく段差がない教会がどれだけあるだろう。車椅子で自走できる教会はどれだけあるだろう。知的障害者への洗礼に関しては、はっきりとした神学的対応が出来ているのだろうか。ヨーロッパやアメリカの神学を日本にそのまま持ち込んで、無理矢理翻訳しても、信仰は生活に密着しないだろうに、しかし翻訳神学だけがキリスト教会を闊歩していないだろうか。

 聖職が神学するということは、極めて当たり前のことなのだが、そこで血みどろの戦いをしているだろうか。説教が単なる聖書講話になっていないだろうか。肩書きや学位が説教していないだろうか。聖餐式の意味が、教会としてしっかりと認識されているだろうか。カルヴァンが礼拝の最後に主の祈りを唱えるようにしたのは、聖餐がない礼拝でのことで、聖餐式があれば、御言葉の祭儀の後にある聖餐式で主の祈りが唱えられていたのだが、そうした理解が今も残っているだろうか。

 昨日、都会の雑踏の中で「証」をしている人の話を聞いた。プロテスタント教会なのだが、その証の内容は確実に行為義認だった。「悔い改め」を語っているのだが、何をどう悔い改めたらいいのかがはっきりしていなかった。教会にとって大事なことは、悔い改めの内容だろう。それも、言葉だけではなく、自分の生き方と密接に関わる悔い改めだ。そして、時として、十字架の福音のために、多くの人々と対立しなければならないことさえある。そうした時に聖職者は、自らの生活を賭してでも戦う気持ちがあるだろうか。これがなくなったら、理由の如何に関わらず、その聖職は説教をすべきではないと思える。説教は神の言葉である聖書の説き明かしなのだから。

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