いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
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どうしたらいいかは簡単なことではないですか?

2007-05-31 | Weblog

 先日の裁判記録閲覧報告メールをご覧になって、皆さん、これからどうしたらいいのかと悩んでいらっしゃるようですが、どうしたらいいかは簡単なことではないですか?
 こう書くとすごく冷たいような言い方に聞こえるかもしれませんが、しかし、本当に簡単なことなので仕方がありません。

 審判廷を開廷することです。それ以外にはありません。
 日本聖公会法憲法規に照らし合わせれば、審判廷を開いて、原田司祭とあの準強制猥褻事件に関して誤った判断をされた主教や司祭を、審判廷で裁く以外にありません。「裁判などとたいそれたことを」とお考えの方もいらっしゃるかもしれませんが、裁判をすることによって、加害者や被害者の人権が守れるのではないでしょうか。裁判というのは、ひとを裁くところではなく、何が真実であったかを明らかにし、それをその組織の構成員(国なら国民)がどのようにその問題を解決するかということなのではないでしょうか。

 法規では、審判廷によらなければ陪餐停止にすることは出来ないにも関わらず、高地主教は一方的に原田司祭を陪餐停止にしてしまいました。たとえ主教であっても、法憲法規を守らなければなりません。主教は治外法権を持っていません。そのことは、法憲法規自身が規定しているのではないでしょうか。そうした意味からすれば、宗教団体の規則はある種の神学であると言うことも出来るかと思います。

 また、京都教区以外の教区の主教や司祭のほとんどは、「糾す会」の問題に関して沈黙し続けてきています。ここにも大きな問題があるわけですから、場合によっては、首座主教もまたこの審判廷で立場を明らかにされる必要があるかと思っています。未成年者への準強制猥褻に関しては、アメリカでも大きな問題になっています。日本でも、大きな問題になっています。それを教会の中で許してしまっているとすれば、カルト教団と言うよりは、犯罪者集団になりかねません。

 そして、法憲法規に則った審判廷でこの問題を裁かなければ、法憲法規が日本聖公会の憲法・法律でなくなってしまいます。「裁判などということを‥‥‥」とお考えになるのは止められた方がいいと思います。法憲法規は飾りではありません。教会規則は常に、教会自身の歩みを調和し、規制してきました。これは一般社会と同じだと思います。
 法憲法規に則った仕方で問題を解決しない限り、日本聖公会は教会ではなくなってしまうのではないでしょうか。ローマ・カトリック教会やギリシア正教会あるいはプロテスタント教会では、教会規則は実に大切なものとして扱われてきました。しかし、日本のプロテスタント教会では「規則ではなく信仰だ」という、ある意味では理不尽な考え方が大手を振って歩いてきました。教会の信仰を守るために教会の規則があるのではないでしょうか。

 皆さん、是非祈って、審判廷を開かれたらいいと俺は思っています。
 そして、解決する道はそこにしかないとも思っています。規則が飾りになると、その集団は無秩序になるのではないでしょうか。学校でも、会社でも、そして公官庁などでは特に、規則は大切なものです。英国聖公会は、マグナカルタ以降、そうした規則をきちんと守ろうとされてきているのではないでしょうか。日本聖公会がもしその法憲法規を無視して解決しようとしたら、それは日本的「なぁなぁ」主義の道でしかないのではないでしょうか。
 教会規則は、ですから、実に信仰の問題であるということが出来ると思っています。是非、審判廷を開廷して下さい。そこで問題の全癒が明らかにされない限り、この司祭による準強制猥褻の問題は解決しないと思っています。

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