どこまで往生際が悪いのか。
京都教区主教や常置委員の往生際の悪さには眼を余るものがあるとお思いになりませんか?裁判記録が何人もの方々によって閲覧され、その内容が明らかになっているというのに、ある司祭さんに対する罵詈雑言を<2チャンネル>という掲示板に書き込んでいる輩がいます。<2チャンネル>という掲示板へ行って、左上にある検索に「聖公会」と入力してみて下さい。所々に変な絵を書き込んでいるのがいますが、それは無視して、そこにどういうことが書かれているかお読み下さいませんか。そして、誰がこうしたことを書かせているかということもお考え下さい。<2チャンネル>へはグーグルで検索すればすぐにアクセスできます。
京都教区の司祭の準強制わいせつに関する京都教区の対応を見ても、あるいはK司祭と名指しされている方に対する誹謗中傷も、出所は同じような気がしています。社会問題をキリスト教神学の中の社会倫理の視点から考えることが出来ないので、ただ社会的な発言を鵜呑みにして、それを鸚鵡返しに繰り返している司祭たちの愚かな発言が、実は日本聖公会の中で大手を振って歩いているのです。それだけではありません。人権に関する発言をしていながら、京都教区で起きた現職司祭の準強制わいせつに関しては沈黙しているという、実に見事な思想的混乱を繰り返しているのです。
友人に電話して、そのあたりのことを尋ねようと思ったのですが、今夜はもう寝てしまったようです。「3年間の教育で、神学的に独り立ち出来るはずもない。神学院を某大学の大学院の研究科の一つにするということも言われているみたいだが、神学の基礎的な知識を習得するには少なくとも3年はかかる。それなしに、大学院へ他の学部を出た人が入っても、大学院としては内容的に難しくなるだろう。そして、博士課程前期は2年しかないから、その2年間に何冊本が読めるだろう。そえを考えると、内容的には何も判らずに、「修士課程修了」という箔を付けたいだけのかもしれないが、そんなことをしたら、大学が困るだろう。大学院の学位は、文科省がかなり厳しくチェックしているらしいから。」と先日話していました。
自分の神学をも相対化して考えられるようにならなければ、卒業しても神学は出来ないのではないでしょうか。三位一体論だけでなく、神論・キリスト論・聖霊論をきちんと学んでいなければ、「神様のイメージ」とか「イエス様のイメージ」とか「聖霊のイメージ」という言葉が平然と使われてしまいます。キリスト教会が2000年近くに渡って、それなりの伝播と自己形成を繰り返してくることが出来たのは、そうした神学的営為が為されてきたからではないでしょうか。本は並べておくだけではインテリアでしかありません。教会が何かをするとき、その根底に神学がなければ、それを「教会の宣教の業」とは言えません。ただ、「伝道」と「宣教」の意味の相異をご存知ない司祭さんも多いと聞いています。
京都教区主教や常置委員の往生際の悪さには眼を余るものがあるとお思いになりませんか?裁判記録が何人もの方々によって閲覧され、その内容が明らかになっているというのに、ある司祭さんに対する罵詈雑言を<2チャンネル>という掲示板に書き込んでいる輩がいます。<2チャンネル>という掲示板へ行って、左上にある検索に「聖公会」と入力してみて下さい。所々に変な絵を書き込んでいるのがいますが、それは無視して、そこにどういうことが書かれているかお読み下さいませんか。そして、誰がこうしたことを書かせているかということもお考え下さい。<2チャンネル>へはグーグルで検索すればすぐにアクセスできます。
京都教区の司祭の準強制わいせつに関する京都教区の対応を見ても、あるいはK司祭と名指しされている方に対する誹謗中傷も、出所は同じような気がしています。社会問題をキリスト教神学の中の社会倫理の視点から考えることが出来ないので、ただ社会的な発言を鵜呑みにして、それを鸚鵡返しに繰り返している司祭たちの愚かな発言が、実は日本聖公会の中で大手を振って歩いているのです。それだけではありません。人権に関する発言をしていながら、京都教区で起きた現職司祭の準強制わいせつに関しては沈黙しているという、実に見事な思想的混乱を繰り返しているのです。
友人に電話して、そのあたりのことを尋ねようと思ったのですが、今夜はもう寝てしまったようです。「3年間の教育で、神学的に独り立ち出来るはずもない。神学院を某大学の大学院の研究科の一つにするということも言われているみたいだが、神学の基礎的な知識を習得するには少なくとも3年はかかる。それなしに、大学院へ他の学部を出た人が入っても、大学院としては内容的に難しくなるだろう。そして、博士課程前期は2年しかないから、その2年間に何冊本が読めるだろう。そえを考えると、内容的には何も判らずに、「修士課程修了」という箔を付けたいだけのかもしれないが、そんなことをしたら、大学が困るだろう。大学院の学位は、文科省がかなり厳しくチェックしているらしいから。」と先日話していました。
自分の神学をも相対化して考えられるようにならなければ、卒業しても神学は出来ないのではないでしょうか。三位一体論だけでなく、神論・キリスト論・聖霊論をきちんと学んでいなければ、「神様のイメージ」とか「イエス様のイメージ」とか「聖霊のイメージ」という言葉が平然と使われてしまいます。キリスト教会が2000年近くに渡って、それなりの伝播と自己形成を繰り返してくることが出来たのは、そうした神学的営為が為されてきたからではないでしょうか。本は並べておくだけではインテリアでしかありません。教会が何かをするとき、その根底に神学がなければ、それを「教会の宣教の業」とは言えません。ただ、「伝道」と「宣教」の意味の相異をご存知ない司祭さんも多いと聞いています。
ご指摘、またご説明を心から感謝申し上げます。
こうした無責任か文言に踊らされてしまった自分自身を恥ずかしく思っています。そもそも、神学部を卒業していない方が、大学院の神学研究科に入学できるということはあり得ないのですよね。私も、それは気になっていました。文科省は文部省時代からこのことに関しても厳しかったことを思い出しました。
ただ、文科省の方針の中には理不尽なこともあるように思えて仕方がありませんが、これに関しては問題が別なので、何かの時に記したいと思っています。
ご指導を心から感謝します。
ありがとうございました。