この映画を観てから1ヶ月、私は感想を書こうと思いながら、なぜか書き始められずにいた。理由は?というと、結局、同じスサンネ・ビア監督の作品で以前観た『アフター・ウェディング』でも感じた、あの「私にはウェットすぎる」という、曰く言い難い違和感のせい・・・ということになるらしい。
こういう違和感について何か言っておられる方を私は知らないし、ごくごく個人的なものなのだろうと自分でも思う。おまけに、この感覚(「感触」と言った方が近いかもしれない)は、作品の内容とも出来の良し悪しとも関係ないような気がして、余計に説明し辛く感じる。
映画自体について言うなら、私にとっては『アフター・ウェディング』よりも、先に作られたこの『ある愛の風景』の方が、ずっと印象に残る作品だった。『アフター・ウェディング』ではどこかに感じられた「異郷の映画」という感触が全く無く、終始まさに「自分と地続き」の作品だと感じながら観ていたと思う。
そして、主催者の方が掲示板に書いておられた「スサンネ・ビア(監督)が本領を発揮した、凶暴にして繊細な作品。映画史に名をとどめるべき傑作だと思います。」という言葉と同じことを、私も観終わった時に感じた。
それなのに・・・なぜか手放しで「いい映画を観た幸福感」を満喫できないのが、自分でも残念でならない。
仕方がないので、「私にはウェットすぎる」という、曰く言い難い違和感・・・というのを、改めて自分なりに考えてみた。
物語は、(『アフター・ウェディング』でもそうだったけれど)「幸福な家族」の「穏やかな日常」に、突然、「家族(夫、父親)の死」という要素が現れることで、人々の生活が一変する(せざるを得ない)・・・というところから始まる。
映画は、残された家族がこの不幸な出来事にどう向き合い、その後の各人の人生を繋いでいくかを、とても丁寧に描いている。登場人物それぞれの、その時その時の感情が、大人は勿論、幼い娘たちに至るまで丹念に取り上げられているので、本当に繊細な作品が目の前で織り上がっていくのを見ている気がする。
しかも、この映画は「光」がとても美しい。黄金のシャワー越しにその場の光景を見ているとでもいうような、独特の色彩が本当に綺麗なのだ。(観た後で、映画に詳しい方たちが、自然光で撮っているのではないか・・・といった話をされていた。技術的には当然、その方が難しいのだとも。)
また、この映画の脚本は凝っていて、たとえば残された家族の様子と、実は死なずに捕虜になっている夫の様子とは、交互に映される。家族の喪失の苦しみと戦地での死の恐怖が対比されることで一層、「生と死」の息詰まるような側面が浮き彫りになるように感じられる。しかも、この家族にとっての最大の問題は、奇跡的に夫が救出されて帰宅した後に起こってくるのだ・・・。
今、こうして書きながらも、自分の文章のモタモタぶりにため息が出る。
取りあえず、私はこの映画がどれほど魅力的かを説明しようとしているのだろう。観ている間、自分がどれほど心を揺すぶられたかを。
けれど、私が(自分のために)もっと書いておきたいのは、その間ともすれば自分が、ある種、鳥肌の立つような?居心地の悪さも感じていたことなのだ。その「曰く言い難い違和感」、「鳥肌の立つような?居心地の悪さ」というのを、もう少し説明してみると・・・・・
私は映画を観ている間、なんとなく誰かが傍に立っているような気がした。その「誰か」というのは、おそらくこの映画を作った人(つまりビア監督)なのだろうとも感じた。
その人は私と同じく、スクリーンの方を向いている。(だから表情は見えない。)それほど強い違和感でもないので、私はその人の存在はすぐに忘れて、物語に没頭する。
ところが、しばらくするとその人が、それまでよりもっと私に近い所に来ているのに気づく。私はちょっと驚くけれど、すぐまた映画の方に戻ってしまう。
そんなことを何度か繰り返しているうちに、私は突然、人の手が私の頬にそっと触れるのに気づいてゾッとする。それは、物語の重要な場面に限って起こる。
驚いた私が振り返っても、彼女(と、その頃には感じるようになっている)は、そんなに近い所にはいない。何事も無かったかのように、彼女は彼女で、ただスクリーンを見ているだけだ・・・。
文字に直すとちょっとバカバカしいホラー?にしか聞こえないこんな感覚・感触を、私はこの監督の作品以外では感じた記憶が無い。普通、好みに合わない作品を観ている際の違和感だの居心地の悪さだのといったものは、もう少し輪郭がはっきりした「具体的」な感覚で、そもそも「好みに合わない」ことが自覚出来る。
この監督の作品については、私は「好みに合わない」とは到底言えない。しかし、かといって「好みに合う」とも、なぜか言い切れないのだ。
映画を観た後、家でパンフレットを開くと、最初に監督の言葉が載っていた。その中に、以下のような部分があった。
「ストーリーは、思いもよらない事件が起きた時に沸きあがる感情を描いています。私にとって映画とは、感情を描くもの、そして気持ちを表現するものなのです。」
そう・・・この人の作品では、人間の「感情」が本当に丁寧に扱われているのを、私も感じる。監督の描こうとするものがそれなら、当然のことだろう。
けれど、私が感じる違和感も、その「丁寧さ」から来ているような気がしてならない。
私は1ヶ月もかかって、それも、この映画のことを考え始めるとなぜか頭がボーっとしてくるのを繰り返した揚句、取りあえずの結論にたどり着いた。
「私は人の『感情』が、本当は苦手なのかもしれない。」
人の顔を見ているのも、人の話を聞いているのも好きで、映画では「ほとんど人の顔ばかり見ているような気がする」くらいなので、実は「感情」をあまり丁寧に描かれると、スクリーンとの心理的な距離を少し大きく取りたくなるのだとは、自分でも気づいていなかった。
普段は無意識のうちに自分で調節している・・・ということもあったのだろう。ところがこの監督の作品では、状況設定が(ほとんどメロドラマとでも言いたくなるほど)劇的で、しかも描写は繊細なため「スクリーンから遠ざかる」ことが難しく、私としては「近すぎる」距離で最後まで観てしまうのだと思う。ほとんど・・・作り手の掌が、私の頬に届くくらい。
『アフター・ウェディング』が「記憶の中で観るのに向いた映画」だったのは当然だったのだ。記憶の中で再現されるのは、私に適当な距離感で映る映像なのだから。
私はこの『ある愛の風景』(原題は「兄弟」の意味)という映画について、本当はもっと違う感想が書きたかった。例えば・・・・・
その後『告発のとき』を観て、生還した夫があれほど苦しむのは、彼が倫理的でセルフコントロールに長けた、大人として一応完成した人格の持ち主だったからなのではないかというのに、初めて気づいたこと。
最後に夫に会いに行った際、妻が強い調子で夫に聞き質すのを見て、私でも同じことを言うだろうと、即座に思ったこと。(荒れ狂った夫が、怒りに任せて口走った言葉「お前のためにやったことなのに、家に帰ってみればこの有様か!」を、聞いた記憶がもしも妻に残っていれば尚更。)あの場面での微笑のカケラも無いような妻の表情は、私にとってはそれまでのとても感じの良い彼女の笑顔よりも、ずっとリアルで胸に迫るものを持っていたこと。
或いは、あれほど妻をわざわざセクシーに描く?必要は無いのかもしれないのに・・・といった小さな不満。(あまりにシャワーの場面が多く、少しウルサク感じる。演じた女優さんが同性の眼にもとても魅力的な人なので、そういう過剰は逆効果になる気がした。)
けれど、そんなさまざまな感想がどこかへ霞んでしまうほど、あの「違和感」は、私個人にとっては特別なものだったのだと、こうして書いてみて改めて思う。
自分が人間の生の感情を苦手にしていることは、勿論ある程度自覚しているつもりだった。けれど、まさかここまで!苦手だったとは・・・。
判ったからといって、今更何かいいことがあるとも思えないような発見?ではあるけれど、それでも「私だけのモノ」なので大事にしてやりたい。シドロモドロなんとかここまで書くことが出来て、なんだか本当にほっとした。
これでやっと、安心して同じ主催の『ジェリーフィッシュ』が観に行ける。(また1ヶ月、ぼんやり抱えて暮らしそうな予感を持って。)
こういう違和感について何か言っておられる方を私は知らないし、ごくごく個人的なものなのだろうと自分でも思う。おまけに、この感覚(「感触」と言った方が近いかもしれない)は、作品の内容とも出来の良し悪しとも関係ないような気がして、余計に説明し辛く感じる。
映画自体について言うなら、私にとっては『アフター・ウェディング』よりも、先に作られたこの『ある愛の風景』の方が、ずっと印象に残る作品だった。『アフター・ウェディング』ではどこかに感じられた「異郷の映画」という感触が全く無く、終始まさに「自分と地続き」の作品だと感じながら観ていたと思う。
そして、主催者の方が掲示板に書いておられた「スサンネ・ビア(監督)が本領を発揮した、凶暴にして繊細な作品。映画史に名をとどめるべき傑作だと思います。」という言葉と同じことを、私も観終わった時に感じた。
それなのに・・・なぜか手放しで「いい映画を観た幸福感」を満喫できないのが、自分でも残念でならない。
仕方がないので、「私にはウェットすぎる」という、曰く言い難い違和感・・・というのを、改めて自分なりに考えてみた。
物語は、(『アフター・ウェディング』でもそうだったけれど)「幸福な家族」の「穏やかな日常」に、突然、「家族(夫、父親)の死」という要素が現れることで、人々の生活が一変する(せざるを得ない)・・・というところから始まる。
映画は、残された家族がこの不幸な出来事にどう向き合い、その後の各人の人生を繋いでいくかを、とても丁寧に描いている。登場人物それぞれの、その時その時の感情が、大人は勿論、幼い娘たちに至るまで丹念に取り上げられているので、本当に繊細な作品が目の前で織り上がっていくのを見ている気がする。
しかも、この映画は「光」がとても美しい。黄金のシャワー越しにその場の光景を見ているとでもいうような、独特の色彩が本当に綺麗なのだ。(観た後で、映画に詳しい方たちが、自然光で撮っているのではないか・・・といった話をされていた。技術的には当然、その方が難しいのだとも。)
また、この映画の脚本は凝っていて、たとえば残された家族の様子と、実は死なずに捕虜になっている夫の様子とは、交互に映される。家族の喪失の苦しみと戦地での死の恐怖が対比されることで一層、「生と死」の息詰まるような側面が浮き彫りになるように感じられる。しかも、この家族にとっての最大の問題は、奇跡的に夫が救出されて帰宅した後に起こってくるのだ・・・。
今、こうして書きながらも、自分の文章のモタモタぶりにため息が出る。
取りあえず、私はこの映画がどれほど魅力的かを説明しようとしているのだろう。観ている間、自分がどれほど心を揺すぶられたかを。
けれど、私が(自分のために)もっと書いておきたいのは、その間ともすれば自分が、ある種、鳥肌の立つような?居心地の悪さも感じていたことなのだ。その「曰く言い難い違和感」、「鳥肌の立つような?居心地の悪さ」というのを、もう少し説明してみると・・・・・
私は映画を観ている間、なんとなく誰かが傍に立っているような気がした。その「誰か」というのは、おそらくこの映画を作った人(つまりビア監督)なのだろうとも感じた。
その人は私と同じく、スクリーンの方を向いている。(だから表情は見えない。)それほど強い違和感でもないので、私はその人の存在はすぐに忘れて、物語に没頭する。
ところが、しばらくするとその人が、それまでよりもっと私に近い所に来ているのに気づく。私はちょっと驚くけれど、すぐまた映画の方に戻ってしまう。
そんなことを何度か繰り返しているうちに、私は突然、人の手が私の頬にそっと触れるのに気づいてゾッとする。それは、物語の重要な場面に限って起こる。
驚いた私が振り返っても、彼女(と、その頃には感じるようになっている)は、そんなに近い所にはいない。何事も無かったかのように、彼女は彼女で、ただスクリーンを見ているだけだ・・・。
文字に直すとちょっとバカバカしいホラー?にしか聞こえないこんな感覚・感触を、私はこの監督の作品以外では感じた記憶が無い。普通、好みに合わない作品を観ている際の違和感だの居心地の悪さだのといったものは、もう少し輪郭がはっきりした「具体的」な感覚で、そもそも「好みに合わない」ことが自覚出来る。
この監督の作品については、私は「好みに合わない」とは到底言えない。しかし、かといって「好みに合う」とも、なぜか言い切れないのだ。
映画を観た後、家でパンフレットを開くと、最初に監督の言葉が載っていた。その中に、以下のような部分があった。
「ストーリーは、思いもよらない事件が起きた時に沸きあがる感情を描いています。私にとって映画とは、感情を描くもの、そして気持ちを表現するものなのです。」
そう・・・この人の作品では、人間の「感情」が本当に丁寧に扱われているのを、私も感じる。監督の描こうとするものがそれなら、当然のことだろう。
けれど、私が感じる違和感も、その「丁寧さ」から来ているような気がしてならない。
私は1ヶ月もかかって、それも、この映画のことを考え始めるとなぜか頭がボーっとしてくるのを繰り返した揚句、取りあえずの結論にたどり着いた。
「私は人の『感情』が、本当は苦手なのかもしれない。」
人の顔を見ているのも、人の話を聞いているのも好きで、映画では「ほとんど人の顔ばかり見ているような気がする」くらいなので、実は「感情」をあまり丁寧に描かれると、スクリーンとの心理的な距離を少し大きく取りたくなるのだとは、自分でも気づいていなかった。
普段は無意識のうちに自分で調節している・・・ということもあったのだろう。ところがこの監督の作品では、状況設定が(ほとんどメロドラマとでも言いたくなるほど)劇的で、しかも描写は繊細なため「スクリーンから遠ざかる」ことが難しく、私としては「近すぎる」距離で最後まで観てしまうのだと思う。ほとんど・・・作り手の掌が、私の頬に届くくらい。
『アフター・ウェディング』が「記憶の中で観るのに向いた映画」だったのは当然だったのだ。記憶の中で再現されるのは、私に適当な距離感で映る映像なのだから。
私はこの『ある愛の風景』(原題は「兄弟」の意味)という映画について、本当はもっと違う感想が書きたかった。例えば・・・・・
その後『告発のとき』を観て、生還した夫があれほど苦しむのは、彼が倫理的でセルフコントロールに長けた、大人として一応完成した人格の持ち主だったからなのではないかというのに、初めて気づいたこと。
最後に夫に会いに行った際、妻が強い調子で夫に聞き質すのを見て、私でも同じことを言うだろうと、即座に思ったこと。(荒れ狂った夫が、怒りに任せて口走った言葉「お前のためにやったことなのに、家に帰ってみればこの有様か!」を、聞いた記憶がもしも妻に残っていれば尚更。)あの場面での微笑のカケラも無いような妻の表情は、私にとってはそれまでのとても感じの良い彼女の笑顔よりも、ずっとリアルで胸に迫るものを持っていたこと。
或いは、あれほど妻をわざわざセクシーに描く?必要は無いのかもしれないのに・・・といった小さな不満。(あまりにシャワーの場面が多く、少しウルサク感じる。演じた女優さんが同性の眼にもとても魅力的な人なので、そういう過剰は逆効果になる気がした。)
けれど、そんなさまざまな感想がどこかへ霞んでしまうほど、あの「違和感」は、私個人にとっては特別なものだったのだと、こうして書いてみて改めて思う。
自分が人間の生の感情を苦手にしていることは、勿論ある程度自覚しているつもりだった。けれど、まさかここまで!苦手だったとは・・・。
判ったからといって、今更何かいいことがあるとも思えないような発見?ではあるけれど、それでも「私だけのモノ」なので大事にしてやりたい。シドロモドロなんとかここまで書くことが出来て、なんだか本当にほっとした。
これでやっと、安心して同じ主催の『ジェリーフィッシュ』が観に行ける。(また1ヶ月、ぼんやり抱えて暮らしそうな予感を持って。)
『ジェリー・フィッシュ』は明日だもん(^_^)。
私もビア作品は好きじゃないもので(「傑作=好き」とは限りませんもんね)、ムーマさんのその理由を興味深く読ませていただきました。
この作品に惹かれるからこそ、「違和感」の元を探りたくなったのですね。
ビア監督が「映画とは、感情を描くもの、そして気持ちを表現するもの」言っているというのもありがたい情報でした(謝々)。
ここまで考えさせられる事を、好きというのではないだろうけれど、その作業をやっているムーマさんと、
それが苦手というより大嫌いな私と、
何故か意気投合する事が多いよね。
「4分間のピアニスト」は、機会があれば、観てみたいと思いました。
でも、この監督さんの作品は、きっと観ないと思います。
ムーマさんの感想は、私にとって、観ても大丈夫か、観たらダメージを受けそうかを判断するのに、と~~~っても参考になっています。v(^o^)v
あんまり書きにくい(自分で自分の思うことが把握できない)ので、とりあえず書けただけで満足してます。元々、自分でも何考えてるのかよくワカラナイ奴なんですが、今回はそれにしても酷かった(笑)。
ソンナモノを読んで下さって、ほんとに恐縮です。書き込んで下さって、どうもありがとう。
でも、お茶屋さんもビア作品が好きじゃないと聞いて、ちょっと安心?したりして(笑)。確かに、「傑作=好きとは限らない」ものなんですね。
>映画を見て、
>ここまで考えさせられる事を、好きというのではないだろうけれど、
>その作業をやっているムーマさんと、
>それが苦手というより大嫌いな私と、
>何故か意気投合する事が多いよね。
そういえば、たしかにそこはKuuさんと私が大きく違うところかも。で、お察しの通り、私もそれが好きでやってるのかどうかは、ハナハダアヤシイ(笑)。
それなのに、なぜかそういう作業をやってしまう。(結局このブログは、そういう作業の場所だった・・・らしいし。始めた時は、何も考えてなかったんだけど。)困ったもんです。
でも、「観ても大丈夫か、観たらダメージを受けそうかを判断する」のにでも、お役に立ってるなら嬉しいです(笑)。その辺りの感覚は、似たところがありそうですもんね。
いつも書き込んで下さって、どうもありがとう。
監督はともかく『4分間のピアニスト』はオススメです。ピアノ演奏がいいの。