長くなってしまった「ひとこと感想」その8。
ワイズマン監督の第1作(1967)で、裁判所により上映禁止処分を受け、長年にわたる裁判闘争の結果91年に漸く上映可能となった・・・などという説明がチラシにあった。
精神障碍のある犯罪者のための州立刑務所マサチューセッツ矯正院での「日常」を、本当に「そのまま」スクリーンに映し出しているように見えて、この監督はこういうやり方でドキュメンタリーを作る人なんだな・・・ということが、見ているだけではっきりと判った。
ただ、個人的にはこの作品も「かつてよく見聞きした」?風景の連続・・・と、私は感じた。(「私の知らないアメリカ」ではなくて。)
精神障碍者という判定が為された人が、家庭で、社会で、医療の場で、どういう扱いを受けてきたか・・・それは(少なくとも日本国内については)そのまま私自身の問題でもあったから。この映画に見られる、患者たちのあまりに非人間的な扱われ方も、刑務所だから、犯罪者だから、というより、精神病の患者だから、「狂って」いるんだから、といった理由からのように、少なくとも私には見えた。
タイトルの「チチカット・フォーリーズ」というのは施設近辺の土地の呼び名(ネイティブ・アメリカンによる) に因んで付けられた、所内の「演芸会」の名前だという。
映画はその「ショー」?で始まり、最後もう一度ショーの場面に戻って幕が下りる。
この監督の作品としては、編集の仕方が露骨?な感じで一瞬戸惑ったけれど、このドキュメンタリーで「既視感」とは違うものを私が感じたとしたら、確かにその(悪夢のような)「チチカット・フォーリー」でだったとも思う。
「演芸会」という「娯楽の場」(誰のための?)の雰囲気のチグハグを通り越した異様さ。舞台の上で「ショー」を演じる患者たちの曰く言い難い瞳と表情・・・。それらはスタッフ側の人たちとは種類、質、もしかしたら次元?の違うもののように私には見えたのだ。
独房に閉じ込められた人が、全裸になって足を踏み鳴らすのも、大声で「政治的陰謀」について(自らノイズ音も挟みながら)怒鳴り続けるのも、自分の置かれている現状に対する怒りや「告発」なのだとしたら、あの「演芸会」での彼らの大人しさ、虚ろさは、処方されているであろう大量の薬のせいなのだろうか。それとも「日常」である以上、結局こうなってしまうしかないのか・・・。
『霊長類』のお猿さんたちも、この映画の「囚人」たちも、私には同じことを訴えているように見えてしまう・・・そのことだけは自覚したけれど。
こういう事柄については、今でも「ひとこと」で済ませられない自分が私の中にいることに、ちょっと驚いている。(それにしても支離滅裂やな~。)
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