眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

踊ることの幸せ   

2017-08-14 12:48:30 | 自分のこと

最近、WOWOWのドキュメンタリーで、映画『リトル・ダンサー』の舞台化ミュージカル『ビリー・エリオット』(日本版)の、主役ビリー志望の少年たちを見た。


映画の『リトル・ダンサー』を初めて観たときのことは、今も忘れられない。廃鉱間近の炭鉱町に住む少年ビリーが、父親の意向に背いてでも(ボクシングではなく)バレエを習おうとする気持ちが、私にはよくわかった。

私も同じくらいの年齢の頃、バレエがどうしても習いたくて、母親にそっと頼んだことがある。自分から希望を口にすることなど、まずない子どもだったのに、忙しかった母親は、いかにも面倒なコトを言い出された・・・といった風情で、眉を顰めて「あんなもの・・・お金(と手間)がかかるだけ」。私は、それ以上何も言えなかった。

ビリーほどの行動力(もちろん才能も)がなかった自分は、その後バレエとは無縁のままだけれど、映画の中のビリーにはなんとかバレエを続けてほしい・・・そう思って、もうハラハラしながら観ていたのを思い出す。


WOWOWのドキュメンタリーでは、1300人以上の中から選出される(ことになる)5人の少年とその選考・トレーニングの過程が映し出されていた。


当然のことながら、5人には、それそれ別の物語(事情・個性・目的など)があった。

ヒップホップの好きな兄の背中を、ずっと追いかけてきた少年。
偶然始めたクラシック・バレエで賞を受けるほどになり、「バレエのない生活はあり得ない!」と断言するようになった少年。
父親の仕事の都合でアメリカで育ち、ストリート・ダンスの発表会では観客からの大拍手を経験した少年。
熊本出身で、選考会のため上京中に震災が起き、自分には何が出来るのかと真剣に悩む少年。

そしてもう一人。ビリーと同じ経緯を経て選考会に応募し、ダンス未経験という経歴にもかかわらず、キャストとして選出されることになった少年。


彼らが国内外の「クリエイティヴ・チーム」の大人たちとトレーニングを積む様子を観ていると、「子ども」の持つ成長の力の大きさに圧倒されると共に、プロジェクトを推進する大人たちの力量にも感心させられた。(既に世界の何カ国もにおいて、各国キャストによるローカル版が作られているとのこと)

そして・・・自分のごくささやかなダンス経験までが、さまざまなエピソードででもあるかのように、頭の中に浮かんできた。

(以下は、ごく個人的で些細な記憶の断片になる)


20代の終わり頃、2度目に精神科を退院した後、私は自分の抱えるモノは「医療」の対象ではないと、どこかで気づいたのかもしれない。はっきり自覚していたわけではなかったけれど、とにかく医療(薬も)と縁を切って、違う道を探そうという気持ちになった。

あるとき街中の表通りを歩いていたら、「ダンス・スクール」の文字が目に入った。
「これまでずっとやってみたかったんだから、一度くらい・・・」

 ふらふらと小さなビルの階段を上がり
「初心者ですけど構いませんか」
「大丈夫ですよ」

世の中の動きに疎い私は気づいてなかったけれど、世間ではジャズ・ダンスの大ブームが、そろそろ下火になろうとする頃だった。

私はそこで3年ほどダンスを習った。最初の半年ほどは、それまでに使った向精神薬その他の影響も残っていたのだろうか、体がボロボロの感じで、単なる基礎練習にもついていけず、息が切れて途中で何度も休む始末。他の生徒さんたちに笑われたり、珍しがられたりした(^^; 

それでも、私は嬉しかった。自分は本当に踊ることが好きだったのだと、初めて実感した。

中学・高校と、体育の時間だけでなく、体育祭・文化祭の出し物?として「創作ダンス」を作らされたけれど、私はそれが楽しいと思ったことはほとんど無かった。「強制される」ことと「創作する」ことは、当時の私にとっては両立しなかったのかもしれない。いつも感じていたのは「踊りたいのに(踊りたいように)踊らせてもらえない」という不満?のようなモノだったと思う。

その不満が、30歳目前で、お金を払って、やっと解消されたのだ。

ヨレヨレの私は、それでもほとんど毎日レッスンに通った。結婚はしていたけれど、仕事は出来ない、子どもを持つことなどあり得ない、ただ「どうしたらこの先自分は生きていけるのだろう」と途方に暮れていただけで、今思うとずいぶん気楽というか、ノンキな時代?だった気もする。

つい最近、高知名物の「よさこい祭り」が今年も終わった。

「よさこい節」をアレンジした音楽に独自の振り付けをして、鳴子を鳴らして表通りを踊り歩くお祭りで、私はそのダンス・スクールのグループの一人として参加した。

今から30年以上も前のこと。衣装も、振り付けも、全体の雰囲気も、今の華やかさとは違っていた。

それでも、スクールの先生のデザインした濃いピンクの法被に白の半パン。胸には晒しを巻いて、足元は地下足袋で、天気が良くなって日差しが強くなると、白のスニーカーに履き替えた。(地下足袋では足が熱くて火傷しそうになる)

通りで踊っていると、自然に自分が笑顔になるのがわかった。

嬉しくて嬉しくて仕方がないのだ。踊れる、踊っていられる、ただそれだけで、もう何も要らない。(それでも、呼び止められて審査員のような人から造花のリボンを首にかけてもらったときは、やっぱり嬉しかった)


一度出ると「病みつきになる」と聞いていたのは本当だった。けれど、私が出られたのはそのときだけ。その後は高知も離れ、「引越し」と「子どもの世話」以外、考える余裕がないような生活になってしまった。


それでも・・・60歳過ぎた今も、「踊る」ことへの憧れ、「踊れる」あの圧倒的な幸福感!は忘れられない。


ドキュメンタリーの少年たちを見ながら、彼らの若さが、ただもう眩しかった。

「もう一度人間に生まれるとしたら?」という問いには、「もう二度と御免。誰か欲しい人に譲る」と答えそうな気がしていたけれど、「踊る」人生なら(それが成功に結びつかなくても)一度くらいやってみてもいいかな・・・なんて、初めて思った自分に驚いている。









(日記ブログの方に、ドキュメンタリーの感想を書いています。似たような内容ですが、この記事の基になったので一応こちらにも貼っておきます)

http://blog.livedoor.jp/hayasinonene/archives/50488218.html 「少年たちが”リトル・ダンサー”になる瞬間」

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