ごく個人的な「ひとこと感想」その30。
アウシュヴィッツの強制収容所の話・・・と聞いていたので、観にいく元気が湧かなくてグズグズしていたら、先に観にいった家族曰く、「観て元気が出るような映画じゃないから(無理に行くことないけど)・・・でも、とにかく”音”がすごい。あれは映画館じゃないと体験できないかも」。
急逝された自主上映関係の知人が、次に上映したいと言っておられた作品でもあるし・・・と、結局上映最終日に観にいった。「音」を「体験」するというのがどういう意味だったのかは、冒頭から即わかった。
感想を書きたいのかどうかさえ自分でもわからないまま、放置・・・。それでも「ゾンダーコマンド」のことは、(名前は知らなかったけれど)その存在は、自分でもなんとなく察知していたと思う。(そういう人手が必要だっただろうと) それでも・・・
映画は自分の知らないことを見聞きさせてくれるし、知識も増やしてくれる。時として「体験」させてくれることもある。それでも・・・こういう生々しい「体験」は・・・なんと言ったらいいのかわからない。
こういう体験を民族として共有する人たちと、自分のような人間の間では、「常識」など全く違うだろうし、立場の違いで互いに相手を追い詰めるようなことになったら、そのとき本当に意思疎通が出来るのだろうか・・・そんな疑問まで湧いてきた。
ここまで「人間」を単なるモノ(つまり消耗品)として扱うシステムを考え出すのも人間だし、その中で「処理」されるのも、処理しながら「壊れて」いくのも、やはり人間だ。
私は以前、パレスチナの子どもたちを支援する運動の近くにいた頃、イスラエル(という国)はなぜ、過去に自分たちが苦しんだのと同じことを、パレスチナの人たちに対して出来るんだろう・・・と不可解に感じたことがある。
それがこの『サウルの息子』を観た後では、「相手と自分とでは、見えている風景がまったく違うだろう」と、ごく自然に思える?ようになってしまった。相手の考えを理解できなくても当然・・・というこの感覚に、私は正直困惑する。現実的にはある程度必要なものなのかもしれないけれど、オソロシク見当違いなところへ繋がってしまいそうな予感も、どこかでするのかもしれない。
映画自体についていうなら・・・私は主人公サウルは、「息子」を見つけたわけじゃないと思った。ただ、人間を究極の「モノ扱い」する環境に必死で順応してきた結果、彼の中の何かが壊れ、その正反対の方向に針がふれるような行動(「正式に埋葬してやりたい」)に出たのかなあ・・・と。名前など一切ない亡骸だの「灰」だのでなく、名前(つまり個人)を取り戻した状態で、手厚く葬ってやりたいと。
映画評論家の方の解釈も読んだけれど、私は理解はするものの、そういう「理解」が自分の内部には染み込んでいかなくて、ただ表面を流れていくだけなのを感じた。
映画としては、サウルの目線で映される映像は、その視野の狭さその他「上手く撮ってるなあ」と思う自分もいるのだけれど、そんなことに感心しても仕方ないと思う自分もいて、要するに私には「消化」出来ない作品だったんだな・・・というのが、正直な感想かも。(多くの実話が土台になっているという、その過去の「事実」の方に、私はやはり引き摺られ打ちのめされるのだと思う)
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