(以下の記事は映画の結末に触れています。未見の方はどうぞご注意下さい。)
観ている間も観た後も、アタマの中が広々となって、そこに主人公(ミスター・ノーバディ)の12通り!もの人生が、モザイクになって敷き詰められていくような気分を味わった。この映画をどう解釈するか、テーマをどう捉えるかは、観た人によってさまざまだろうな・・・とも思った。
私自身はとにかく、非常にオリジナル(「唯一無二」とでもいうような)な映画だと思う。極小(一人のちっぽけな人間)の中に存在する極大(世界がまるまる一つ)を、これほど苦味の無い視線で、しかも美しく描いてくれたら、最大級の褒め言葉を使いたくなる。
物語自体は、ふと『エターナル・サンシャイン』を思い出させる。が、スケールの大きさを感じさせる作りが違っている。(映像はちょっとだけ『落下の王国』を。でも作り手の個性が全く違うのがわかる(笑)。)
冒頭の部分を少し書くと・・・
舞台は2092年の近未来。医学の進歩により人類は不老不死を謳歌するようになっている。
しかし「細胞の永久再生化」術を施していないため、「老衰によって死ぬ(死ねる)」最後の人間となったある老人は、自分の名前も歳も覚えていない。
医師から118歳と教えられた時、彼は強く反発する。「私は34歳だ。」
外では人々が、老人の最期を見届けようと興味シンシン、マスコミはそれを全国に生中継している。
そんな中、若い新聞記者が古ぼけた録音機を携えて、老人の居室を訪れる。そして老人にそっと尋ねる。
「人間が不死になる前の世界は、一体どんな風だったのか教えて下さい。」
ポツリポツリと答えるうちに、老人は自分の人生を少しずつ思い出す。両親の離婚、好きだった少女アンナとの幾たびもの別れ。2度の結婚、妻や子ども達との関係、選んだ職業、そして別れた親たちとのその後・・・。
しかし、老人の語るエピソードは一つ一つがバラバラで矛盾が多く、何が本当にあったことで何が老人の記憶の幻なのか、記者は聞けば聞くほど判らなくなっていく。
実はこの映画は、全編この老人(主人公ニモ・ノーバディ)の「記憶」(の断片)で出来ている。118歳まで長生きした一人の無名の男性が、死を目前に過去を振り返ったとき、彼はそこに何を見るか・・・。
生きていると、人は誰しも「選択」を迫られる時がある。しかしその「選択」が非常に困難な時、「選ばない限り、その間はどちらも失うことがない」・・・と思ったとしても、無理は無いかもしれない。まして、選ぶ本人がまだ幼い子どもだった場合には。
映画の終盤、ニモは両親の離婚に際して、駅で列車に乗る母親と残る父親のどちらについていくか、決断を迫られる。9歳?の子どもには、それはほとんど不可能なことだ。両親はそれぞれ、それなりに別れる理由を理解・納得していたとしても、子どもにとっては「片方が突然居なくなる」こと自体、理解の範疇を超えている(と、今の私は思う)。
選びようのないことを選ばなければならない・・・「どちらも選びたくない」のは、本当に当然のことなのだと思う。
この物語の発端はその瞬間に生まれたものだと、私は映画の終り近くなって漸く気づき、ショックを受けた。それは、私にとってのこの映画の全体像が決まる瞬間でもあったと思う。
この物語は、もしかしたら大人になったニモが「あのときこうしていたら・・・」と、キーボードを叩きながら創作したものなのかもしれない。ニモには交通事故や水に溺れかける経験が実際にあったのかもしれない。そういった「死」(行き止まり)を間近にする何らかの体験があったからこそ、こういうさまざまな記憶が、118歳の彼の中に残ったのかもしれないとも考える。
しかし、この映画が描こうとしているのはそういう「何が実際に起こったこと(客観的な事実)なのか」を見極めることではなくて、「何が自分の人生の記憶として残るか」、要するに「人生はその人自身の“記憶”によって形作られるものなのだ」ということなんじゃないか・・・と私は思いながら観ていた。
それで言うなら、ニモの人生は結局「アンナを愛していた」ということ、「アンナと出会い、彼女と人生を共にしたかった」という所に行き着くのかもしれない・・・と。
映画の冒頭、医師に年齢を告げられて、「そんな筈はない! 私は34(35?)歳だ。」と言ったニモの言葉も、幾度もすれ違いをした揚句、桟橋で漸くアンナに逢うことの出来たニモの年齢だったのかもしれない。そもそも、頭と顔に一面奇怪な入れ墨を施した「医師」は、ニモ本人としか思えなかったりもする。
ラスト(だったと思うけれど、既に私の記憶が曖昧)で、どんどん昔へと記憶を遡ったニモは、子ども時代の自分に戻って、やはりまだ子どものアンナと水縁の桟橋に腰掛ける場面に行き着く。
その時聞こえる子どもらしい高い笑い声。あれがもしかしたら、「死」を目前にしたニモの納得なのかもしれないと私は感じた。映画のラストはニモの臨終を思わせたけれど、それはほとんど至福の瞬間として捉えられていた・・・と私は思う。
実を言うと、「選択」と「記憶」というのは私自身のこれまでの人生でもキーワードのような言葉だったので、この『ミスター・ノーバディ』という映画は本当にさまざまなことを思い出させるものがあった。
この映画が他の作品と違うのは、背景にあるのが人が「不死」を手に入れた世界であることだったと思う。私は先に「人生は本人の作り上げた“記憶”によって成り立つ」といった意味のことを書いたけれど、そういう「記憶」というのは、「人はいずれ必ず死ぬ」ということが大前提になって、初めて存在しうるような種類のものだという気がするからだ。
かつて、「分岐点に立った時どちらを選ぼうと、長い目で見れば、61点と62点くらいの差しかないのかもしれないよ。」と言った知人がいた。
この映画でも、何を「選択」しようと、人生はその人自身が作っていくものである以上、自分自身、自分の本心を見間違ったままで終わることはない。どんな成り行きになろうとも、それは自分の人生としてかけがえのないものになる・・・と言われているような気がした。
最後に映像についてちょっとだけ。
何しろ12通りの人生がパラレル・ワールド風に展開されていくので、登場人物やその時代時代の見分けがつかないとエライことになりそうだけれど、作り手はとても親切で、観客が混乱しないような工夫を色々してくれているのを感じる。
編集の仕方もきっと緻密で的確なのだろうけれど、判りやすくて助けになったのは色彩。たとえばニモを取り巻く3人の女性は、子どもの頃からずっと同じ色で象徴される仕組みになっている。(「色」に注意していると、どの女生とのエピソードなのかがすぐ判る。)
とにかく、ただ観ているだけでもうっとりするほど美しいシーンに幾度も出会う。私は古くからの小さな映画館で観たのだけれど、映像と音楽だけでも観る値打ちがあった思った。テレビ画面ではなく、スクリーンで観られた幸福をつくづく感じた。
「辻褄の合ったストーリーが好き」「何が言いたいのかはっきり判る映画がいい」という人には向かないかもしれないけれど、アート系とかマニア向けとかいった一言では済まされない、美しさと普遍性と、「もの思う時間」を与えてくれた映画だった。
ところで「ミッション:8ミニッツ」もこの映画のテーマと響き合っている気がしました!
誰もが愉しめる娯楽作なんですけど、”美しさと普遍性と、「もの思う時間」”を与えてくれる映画でしたよ。
いつもムーマさんの文章力には感心しきりなんですが、この一節は映画の宣伝文句より惹きつけられます。
またまた見てみたい映画の一つになりました。
ありがとうございました。
>ニモの人生は結局「アンナを愛していた」という…所に行き着くのかもしれない・・・
として、ニモではなく、ムーマさんの
女性の好みではなく色の好みからすると、
どの女性がお好みでしたか?
私は本文中では「自分自身、自分の本心」なんて苦し紛れに書きましたが、一言「魂」っていえば良かったんだ・・・って、やっと気がつきました。
普段は「魂」って高尚すぎて、私はよう使いこなせない言葉の1つなんですが、この映画の場合はぴったりかも。
「選択」と「記憶」もキーワードだと思いましたが、それとは別に「不死」と「魂」もそうでしたね。
あ、『ミッション:8ミニッツ』は早々に観ました。(珍しい~(笑))
言われてみると、この『ミスター・ノーバディ』のテーマと響き合ってる・・・ほんとにそんな気がしますね。
『月に囚われた男』はDVDで観たんですが、ダンカン・ジョーンズ監督の姿勢とセンスが好きです。
更年期さんの(文章からの)切り取り方がいいんですよぉ・・・と言いつつ、もう一度読んでみて、こんな宣伝文句がどこかにあったような気がしてきました。(もしかして、無意識に盗作?)。
この頃では自分の記憶がアテにならなくなってて、一度目にしたことを(さっさと忘れてしまって、でも脳はどこかで覚えていて)まるで自分が考えついたかのように書いてるんじゃないかって・・・考え始めると怖くなります(笑うに笑えない)。
でも、映画自体はほんとに良かったですよ~。
シドロモドロの記事が宣伝に一役買えた・・・なんて思うと、なんだかすごーく嬉しいです。
「こちらこそ、どうもありがとう。」デス。
お二方がリクエストして下さったお蔭で、なんとか書けました~(本当)。
こちらこそありがとうございました。
ところで、名高き色好みのヤマさん(笑)はどの女性がお好みでしたか?
(私は色の好みを別にすれば、ダイアン・クルーガー(アンナ)は、これまで観た彼女の中で一番魅力的に見えました。)
ダイアンは、『敬愛なるベートーヴェン』のときの写譜師かなぁ、あれもアンナだったようですが。でも、例の僕の「女優名撰」入りはしてないですね、彼女(笑)。
15歳のアンナ・・・やっぱり!(笑)。
「年増」じゃなくても、ああいう魅力を持った女の子いますね、確かに(うんうん)。
『敬愛なるベートーベン』観てなくて残念です。でも、ダイアンはどちらにしても闊達すぎて、「熟した果実」風味から遠いから・・・。
ヤマさんの女優名撰、どんな女優さんが入っているのかな~。(『善き人のためのソナタ』の女優さんくらいしか知らない。)
私自身は「人間以外」が好きなくらいなので、実を言うと「15歳のアンナ」より『ウォーリー』のイーブの方が好みかも~(笑)。
精神とか心というのは自分で意識できるけれど、
自分でも意識できない自分の核のようなもの。
心とからだをつないでいるもの。
そういう実態のない、でも大切な何かをきっと「魂」と言うのだと勝手に思っていて、便利な言葉なのでつい乱用してしまいます。
そして、この主人公のアンナへの想いは魂に由来するものだと思うんですよねえ。
>精神とか心というのは自分で意識できるけれど、
>自分でも意識できない自分の核のようなもの。
>心とからだをつないでいるもの。
>そういう実態のない、でも大切な何かをきっと
>「魂」と言うのだと
あまりに的確な定義(と私は思いました)なので、もう一度引用させていただきました。
そう、私も正にそういう意味で「魂」と「不死」がキーワードだったんだな・・・って思ったんです。
「この主人公のアンナへの想いは魂に由来するもの」って、私も感じたんだと想います。
あ、(言わずもがなのコトですが)読む方としては、TAOさんの文章の中で乱用と感じたことはないですよ。
私が「魂」という言葉をほとんど使わないのは、「自分でも意識できない自分の核のようなもの」のダークな部分(というか巨大な黒いエネルギーの迫力!)を実感した経験があって、素直に「自分自身の核」とイコールで結べない?からかもしれないな・・・って、今初めて気がつきました。
なるほど・・・この映画はずいぶん深い所まで観た人を連れて行く作品だったんだなあって、改めて感じます。
コメント書いて下さって本当に良かった!!