(以下の記事は映画の結末に触れています。未見の方はどうぞご注意下さい。)
観ている間も観た後も、アタマの中が広々となって、そこに主人公(ミスター・ノーバディ)の12通り!もの人生が、モザイクになって敷き詰められていくような気分を味わった。この映画をどう解釈するか、テーマをどう捉えるかは、観た人によってさまざまだろうな・・・とも思った。
私自身はとにかく、非常にオリジナル(「唯一無二」とでもいうような)な映画だと思う。極小(一人のちっぽけな人間)の中に存在する極大(世界がまるまる一つ)を、これほど苦味の無い視線で、しかも美しく描いてくれたら、最大級の褒め言葉を使いたくなる。
物語自体は、ふと『エターナル・サンシャイン』を思い出させる。が、スケールの大きさを感じさせる作りが違っている。(映像はちょっとだけ『落下の王国』を。でも作り手の個性が全く違うのがわかる(笑)。)
冒頭の部分を少し書くと・・・
舞台は2092年の近未来。医学の進歩により人類は不老不死を謳歌するようになっている。
しかし「細胞の永久再生化」術を施していないため、「老衰によって死ぬ(死ねる)」最後の人間となったある老人は、自分の名前も歳も覚えていない。
医師から118歳と教えられた時、彼は強く反発する。「私は34歳だ。」
外では人々が、老人の最期を見届けようと興味シンシン、マスコミはそれを全国に生中継している。
そんな中、若い新聞記者が古ぼけた録音機を携えて、老人の居室を訪れる。そして老人にそっと尋ねる。
「人間が不死になる前の世界は、一体どんな風だったのか教えて下さい。」
ポツリポツリと答えるうちに、老人は自分の人生を少しずつ思い出す。両親の離婚、好きだった少女アンナとの幾たびもの別れ。2度の結婚、妻や子ども達との関係、選んだ職業、そして別れた親たちとのその後・・・。
しかし、老人の語るエピソードは一つ一つがバラバラで矛盾が多く、何が本当にあったことで何が老人の記憶の幻なのか、記者は聞けば聞くほど判らなくなっていく。
実はこの映画は、全編この老人(主人公ニモ・ノーバディ)の「記憶」(の断片)で出来ている。118歳まで長生きした一人の無名の男性が、死を目前に過去を振り返ったとき、彼はそこに何を見るか・・・。
生きていると、人は誰しも「選択」を迫られる時がある。しかしその「選択」が非常に困難な時、「選ばない限り、その間はどちらも失うことがない」・・・と思ったとしても、無理は無いかもしれない。まして、選ぶ本人がまだ幼い子どもだった場合には。
映画の終盤、ニモは両親の離婚に際して、駅で列車に乗る母親と残る父親のどちらについていくか、決断を迫られる。9歳?の子どもには、それはほとんど不可能なことだ。両親はそれぞれ、それなりに別れる理由を理解・納得していたとしても、子どもにとっては「片方が突然居なくなる」こと自体、理解の範疇を超えている(と、今の私は思う)。
選びようのないことを選ばなければならない・・・「どちらも選びたくない」のは、本当に当然のことなのだと思う。
この物語の発端はその瞬間に生まれたものだと、私は映画の終り近くなって漸く気づき、ショックを受けた。それは、私にとってのこの映画の全体像が決まる瞬間でもあったと思う。
この物語は、もしかしたら大人になったニモが「あのときこうしていたら・・・」と、キーボードを叩きながら創作したものなのかもしれない。ニモには交通事故や水に溺れかける経験が実際にあったのかもしれない。そういった「死」(行き止まり)を間近にする何らかの体験があったからこそ、こういうさまざまな記憶が、118歳の彼の中に残ったのかもしれないとも考える。
しかし、この映画が描こうとしているのはそういう「何が実際に起こったこと(客観的な事実)なのか」を見極めることではなくて、「何が自分の人生の記憶として残るか」、要するに「人生はその人自身の“記憶”によって形作られるものなのだ」ということなんじゃないか・・・と私は思いながら観ていた。
それで言うなら、ニモの人生は結局「アンナを愛していた」ということ、「アンナと出会い、彼女と人生を共にしたかった」という所に行き着くのかもしれない・・・と。
映画の冒頭、医師に年齢を告げられて、「そんな筈はない! 私は34(35?)歳だ。」と言ったニモの言葉も、幾度もすれ違いをした揚句、桟橋で漸くアンナに逢うことの出来たニモの年齢だったのかもしれない。そもそも、頭と顔に一面奇怪な入れ墨を施した「医師」は、ニモ本人としか思えなかったりもする。
ラスト(だったと思うけれど、既に私の記憶が曖昧)で、どんどん昔へと記憶を遡ったニモは、子ども時代の自分に戻って、やはりまだ子どものアンナと水縁の桟橋に腰掛ける場面に行き着く。
その時聞こえる子どもらしい高い笑い声。あれがもしかしたら、「死」を目前にしたニモの納得なのかもしれないと私は感じた。映画のラストはニモの臨終を思わせたけれど、それはほとんど至福の瞬間として捉えられていた・・・と私は思う。
実を言うと、「選択」と「記憶」というのは私自身のこれまでの人生でもキーワードのような言葉だったので、この『ミスター・ノーバディ』という映画は本当にさまざまなことを思い出させるものがあった。
この映画が他の作品と違うのは、背景にあるのが人が「不死」を手に入れた世界であることだったと思う。私は先に「人生は本人の作り上げた“記憶”によって成り立つ」といった意味のことを書いたけれど、そういう「記憶」というのは、「人はいずれ必ず死ぬ」ということが大前提になって、初めて存在しうるような種類のものだという気がするからだ。
かつて、「分岐点に立った時どちらを選ぼうと、長い目で見れば、61点と62点くらいの差しかないのかもしれないよ。」と言った知人がいた。
この映画でも、何を「選択」しようと、人生はその人自身が作っていくものである以上、自分自身、自分の本心を見間違ったままで終わることはない。どんな成り行きになろうとも、それは自分の人生としてかけがえのないものになる・・・と言われているような気がした。
最後に映像についてちょっとだけ。
何しろ12通りの人生がパラレル・ワールド風に展開されていくので、登場人物やその時代時代の見分けがつかないとエライことになりそうだけれど、作り手はとても親切で、観客が混乱しないような工夫を色々してくれているのを感じる。
編集の仕方もきっと緻密で的確なのだろうけれど、判りやすくて助けになったのは色彩。たとえばニモを取り巻く3人の女性は、子どもの頃からずっと同じ色で象徴される仕組みになっている。(「色」に注意していると、どの女生とのエピソードなのかがすぐ判る。)
とにかく、ただ観ているだけでもうっとりするほど美しいシーンに幾度も出会う。私は古くからの小さな映画館で観たのだけれど、映像と音楽だけでも観る値打ちがあった思った。テレビ画面ではなく、スクリーンで観られた幸福をつくづく感じた。
「辻褄の合ったストーリーが好き」「何が言いたいのかはっきり判る映画がいい」という人には向かないかもしれないけれど、アート系とかマニア向けとかいった一言では済まされない、美しさと普遍性と、「もの思う時間」を与えてくれた映画だった。
このブログでこんなに沢山コメントがあるなんて
今見ても信じられない風景です(笑)。
実はさっき、2011高知オフシアタ-・ベストテンの候補を考えていたんですが
面白かった記憶があるのに、内容を全然思い出せない映画があったりして(『瞳の奥の秘密』とか)
今回は妙に難航してます。
やっぱり、自分でちょっとでも感想書いて
人と話もしないとダメだな~って、改めて思いました。
「談義」のきっかけを下さって、本当にありがとうございました。
先の拙サイトの更新で、こちらの頁を
例の直リンクに拝借したので、
報告とお礼に参上しました。
充実した談義の花が咲いておりますし、
リクエストして綴っていただいてよかったです。
どうもありがとうございました。
ダイアン・キートン、ヤマさんもそういうイメージなんだ。(わーい)
TAOさんのコメントもいいですね~。ミア・ファローと並べてみて、すごーくよくわかりました。(ミア・ファローも好きなんですけど、それとは別(笑)。)
ヤマさん、載せて下さってどうもありがとう!
(あ、でもTAOさんは遣手婆ァじゃなくて女衒の方が似合うな~とか。男前でカッコイイじゃないですか←外野の騒音)
定義、褒めてくださり、ありがとね。
あんときの的中率にはホントに驚いたのですが、
女衒なんて言いましたっけ?
「遣手婆ぁ」じゃなかった?(笑)
>ムーマさん、
『大日本帝国』もご覧くださったんですね(礼)。
ゼータクなキャスティングだったでしょ~。
作品にも骨がありましたよねー。
ダイアン・キートンの魅力についての弁、
僕もそのような感じを抱いてますね。
女優名撰談義のときにTAOさんは、
「元カレのウディ・アレンとの夫婦役が最高に楽しくチャーミングで、この人はきっと私生活でも屈託のないいい女なんだろうなあと思えました。ミア・ファーローとウディ・アレンの共演なんて、未来永劫ありえないでしょうからねえ(笑)。」との
コメントを寄せてくださってました。
屈託のなさって“ざっくばらんで知的”なればこそ
って感じがありますよねー。
>私が一番好きなのは「魂の光」を描く映画なんだと思います。
TAOさんの言葉で、私もそうかもしれない・・・って、ふと思いました。
私は、「観ている間は自分の現実が消えてしまう」から、映画が子どもの頃からずっと好きなんだと思ってました。
でも、ある時期から「生きてく希望」を感じさせてくれる作品が自分は好きなんだなってはっきり意識するようになって・・・。
今回のTAOさんの言葉で、「生きてく希望」って、人の「魂」の「光」の部分に見つかるものなんだ・・・って、改めて思いました。
あまりに当たり前のこと書いてて、自分でもオカシイです。
でも、これはこれで、私にとっては発見でした。
こんなにたくさんのコメント頂いたのも初めてだし、レスで喋り散らしたのも初めて(笑)。
『ミスター・ノーバディ』は文字通り「記憶(と記録)に残る」映画になりました~(感謝)。
ヤマさんから、掲示板での『真珠の耳飾りの少女』談義の時・・・と聞いて、そういえばそんな話が・・・と少し思い出してきました(多分ホント)。
あの時にも「凄いなあ!」って思った記憶があります。リストの長さ!と、自分の知らなさに(笑)。
でも、TAOさんの予想の方は覚えてないとこみると、圧倒されてしまってちゃんと読んでないのかも。惜しいことしました(残念)。
でも、あの殿堂入りした絢爛豪華な掲示板、こういう話が出る度、今も目に浮かぶようです。
ところで片方のケイコさん。
あたご劇場で『大日本帝国』観て、私、あの関根恵子もとても印象的でした。
ヤマさんが作品を褒めてらして、お茶屋さんも良かったと書いてらしたので、タイトル苦手だったけど観に行ったんです。
観て良かった!(ネコかぶり?タイトルに騙されたらイケナイって反省しました。)
あ、ダイアン・キートンについて。
『ミスター・グッドバーを探して』を観たとき、
私この女優さん、実はすごーくシャイな人なんじゃないかって、ふと思ったんですよね。
どうしてそう思ったのかはもう覚えてないんですが、その後も彼女の出演作観る度、(「シャイ」とは到底思えないような役柄の時でも)そういう感じは消えなくて・・・。
この人がラブ、色恋に絡む時、なぜか私の眼にはとても初々しいというかリアル?に見えるんですが、それは「躊躇ってる自分」が居る人が演じてるからなのかなあ・・・なんて、思ったりもします。
タイプとしては「色っぽい」女優さんじゃあないと思うんですが、生身の(ごく普通の)女性を見ている気がして、年齢とは関係ないその初々しさが色っぽい。
そういうことも含めて、ざっくばらんで知的(に見える)この人が好きなんだと思います(わー長くなった~(笑)。
ヤマさんのこの定義、いいですねえ。
「その巡り合わせによる成果と傷が、意識・無意識を含めた光と影として魂になっていく」というのもいいなあ。
そして、ムーマさん、よけいなことなんかじゃなくて、とてもうれしいことを言ってくださってありがとうございます。
>『ミスター・ノーバディ』も人生のままならなさを描いているように見えて,実は「魂の光」を描いた映画だった気がしています。
ええ、私が感じたのは、まさにそれ!
私が一番好きなのは「魂の光」を描く映画なんだと思います。
>(「間借り人の日誌」のどこかに載っているんですか。)
2004年時点のものを掲示板には書き込んであって、『真珠の耳飾りの少女』談義の編集再録からは飛べるようにしてあったんですが、今は掲示板自体が閉鎖になっているから、辿れませんね(とほ)。
あのときには、TAOさんが予想を書き込んでくれて、その的中率の高さに度肝を抜かれた覚えがあります(笑)。もう完璧に見透かされてましたよ。
ムーマさんのWケイコの選出、嬉しいです(笑)。
ダイアン・キートンは、どのあたりが気に入ってるんですか?
>全編通じてニモは選択できなかったからこそ、あのような記憶を宿しているのに、なぜ皆、彼の語る記憶の物語のバリエーションを有り得た“選択の帰結”として受取りたがるのか
・・・凄いなあ。
私こういう時、ヤマさん(の感覚と思考)に畏敬の念を覚えます(本当)。
自分の感じていることを、こういう風に言語化して取り出せたらなあ・・・って、よく思うんですよね(ヒトリゴト)。
>僕流に言えば、「人生は選択によって形作られるのではなく、選択を迫られることとの格闘によって過ごしていくもの」であり、その格闘による成果と傷が、意識・無意識を含めた光と影として魂になっていくのだろうと思っています。
>と書きましたが、“格闘”は改めて“巡り合わせ”にします。
>思えば“格闘”と言えるほどの主体性を発揮していないとこがミソなんだから、“格闘”と言っちゃうと僕流ではなくなります(笑)。
少なくとも、ヒトの人生については「そう簡単には選べない」からこそ「選択」が問題になり、「分岐点」なんて言葉があるんですものね。
「巡り合わせ」のままならなさから生まれるモノが、人の「魂」の中に降り積もる・・・。
それでも人生のラストでは、確執のあった相手との「和解」が訪れ、それは自分自身(魂)との和解でもある・・・。
私は昔、ビデオで『トト・ザ・ヒーロー』を観たと思うんですが、全然内容を覚えていません。
でも、ラストの「和解」(違ってたらゴメンナサイ)に涙が出たのは覚えています。
(こうなると余計に)「もう一度観たい映画」ですね、本当に。
ところで「女優名撰」。こちらも「凄いなあ」の一言(笑)。(「間借り人の日誌」のどこかに載っているんですか。)
私もすごーく印象に残ってる女優さん(その作品の中での)が何人もいて、ちょっと嬉しかったりして(笑)。
>『バス停留所』のマリリン・モンロー
>『ミスター・グッドバーを探して』『恋愛適齢期』のダイアン・キートン
>『マリアの恋人』のナスターシャ・キンスキー
>『ロミオとジュリエット』のオリビア・ハッセー
>『美しき諍い女』のエマニュエル・ベアール
>『トーク・トゥ・ハー』のレオノール・ワトリング(名前は知らなかった~)
>『ラブレター』の高橋恵子
>『道頓堀川』『大阪ハムレット』の松坂慶子
>『遠雷』の石田えり
>『天城越え』の田中裕子
>『川の底からこんにちは』の満島ひかり~
好みが熟女でもロボットでも(笑)魅力的な女優さんっていますね~。
淀川さんじゃないけど「映画ってほんとにいいですねぇ。」(あは)
お手数かけました。どうもありがとうございました(ぺこり)。
TAOさんもそんな経験がおありなんですね。
(そう、あの「叫び」の絵はとてもリアルだと私も思います。)
>。どうも私は魂の光の面だけを見たがって影のことを忘れがちだってことに気づきました。
余計なコト書いてしまうんですが、(私自身も含めて)多くの方がTAOさんの鑑賞記事に魅せられるのは、そのことと無関係じゃないかも・・・。
『ミスター・ノーバディ』も人生のままならなさを描いているように見えて,実は「魂の光」を描いた映画だった気がしています。
あの映画の明るさは、そういうことだったんじゃないかと。
「壺中天」って言葉も、この映画で聞くととても素敵ですね~。
実は私も観ている間は、「言葉」から遠い場所に居ました。
(ほんと、「何も考えたくなくなる」映像だったんですよね~。)
なんだか、言葉以外のさまざまな何かに囲まれて、その中をゆらゆら泳いでいるような感じがしてました。
そう、金魚鉢の中の赤い金魚になったみたいに。
音楽も綺麗なのになぜか無音の感じがして、その静けさの中でじっと見ている感じ・・・。
お茶屋さんの「ガラス瓶の中の世界」(言い得て妙ですね)っていう言葉から、そんなこと思い出しました。
私から見てスケールの大きな作品っていう印象が強く残ったのは、もしかしたら単純に、冒頭の近未来風景のせいだったのかも(笑)。
「不死」という要素を映画に持ち込むのに、具体的な(近未来の)「現実」を使った・・・良く練られた脚本だったんだなあって、改めて感じてます。
>選択を迫られることとの格闘によって過ごしていくもの」であり、
>その格闘による成果と傷が、意識・無意識を含めた光と影として
>魂になっていくのだろうと思っています。
と書きましたが、“格闘”は改めて“巡り合わせ”にします。
思えば“格闘”と言えるほどの主体性を発揮していないとこがミソなんだから、“格闘”と言っちゃうと僕流ではなくなります(笑)。
僕流に言えば、「人生は選択によって形作られるのではなく、選択を迫られることとの格闘によって過ごしていくもの」であり、その格闘による成果と傷が、意識・無意識を含めた光と影として魂になっていくのだろうと思っています。
『トト・ザ・ヒーロー』もそういう映画だった気がします。(再見してみたいなぁ)
さて、僕の女優名撰ですが、現時点では、以下のとおりですよん。
【外国映画】
『バス停留所』のマリリン・モンロー
『ミスター・グッドバーを探して』『恋愛適齢期』のダイアン・キートン
『マネキン2』のクリスティ・スワンソン
『アイ・ウォント・ユー』『ハムナプトラ』のレイチェル・ワイズ
『マイティ・ジョー』『サイダーハウス・ルール』のシャーリーズ・セロン
『間奏曲』のイングリッド・バーグマン
『マリリンとアインシュタイン』『ボンデージ』のテレサ・ラッセル
『マリア・ブラウンの結婚』のハンナ・シグラ
『殺しのドレス』のナンシー・アレン
『あんなに愛しあったのに』のステファニア・サンドレッリ
『髪結いの亭主』のアンナ・ガリエナ
『ラスト・コンサート』のパメラ・ヴィロレージ
『仮面の情事』のグレタ・スカッキ
『ノーマ・ジーンとマリリン』のアシュレイ・ジャッド
『アタメ』のヴィクトリア・アブリル
『マリアの恋人』のナスターシャ・キンスキー
『ロミオとジュリエット』のオリビア・ハッセー
『ファイアー・ライト』のソフィー・マルソー
『ヴィゴ』のロマーヌ・ボーランジェ
『美しき諍い女』のエマニュエル・ベアール
『ジャングル・フィーバー』のアナベラ・シオン
『ふたりのベロニカ』のイレーヌ・ジャコブ
『ラジュー出世する』のジュヒー・チャウラー
『春の日は過ぎゆく』のイ・ヨンエ
『暗い日曜日』のエリカ・マロジャーン
『イン・アメリカ/三つの小さな願いごと』のサマンサ・モートン
『女性上位時代』のカトリーヌ・スパーク
『エデンより彼方に』のジュリアン・ムーア
『トーク・トゥ・ハー』のレオノール・ワトリング
『ドッグヴィル』のニコール・キッドマン
『コールド・マウンテン』のナタリー・ポートマン
『ションヤンの酒家』のタオ・ホン[陶紅]
『チョコレート』のハル・ベリー
『ターミナル』のキャサリン・セダ・ジョーンズ
『ライフ・イズ・ミラクル』のナターシャ・ソラック
『愛されるために、ここにいる』のアンヌ・コンシニ
『善き人のためのソナタ』のマルティナ・ゲデック
『オーケストラ!』のメラニー・ロラン
『終着駅 トルストイ最後の旅』のケリー・コンドン
【日本映画】
『ラブレター』の高橋恵子
『メッセンジャー』の飯島直子
『想い出のかたすみに』の壇ふみ
『墨東奇譚』の墨田ユキ
『祭りの準備』の桂木梨江
『忠臣蔵外伝 四谷怪談』の高岡早紀
『道頓堀川』『卓球温泉』『大阪ハムレット』の松坂慶子
『風林火山』の佐久間良子
『遠雷』の石田えり
『豪姫』『たそがれ清兵衛』の宮沢りえ
『とべない沈黙』『美しさと哀しみと』の加賀まりこ
『天城越え』の田中裕子
『コキーユ 貝殻』『魂萌え!』の風吹ジュン
『下妻物語』の深田恭子
『ジョゼと虎と魚たち』の池脇千鶴
『ある朝スウプは』の並木愛枝
『手紙』『シュガー&スパイス 風味絶佳』の沢尻エリカ
『川の底からこんにちは』の満島ひかり
『花芯の刺青 熟れた壷』の谷ナオミ
『天使のはらわた・赤い淫画』の泉じゅん
そうでしたか・・・。そんな経験をしたら、魂だなんて言葉をおいそれと口にするのは憚られますね。
じつは私も自分のではないですが、15年ほど前に「それ」をたしかに感じたことがあるのです。部屋中に黒い渦が広がっていて、ムンクの「叫び」の絵は、リアルな描写だったんだなと思いました。
魂と向き合うということは常に破滅のリスクもあるんですよね。どうも私は魂の光の面だけを見たがって影のことを忘れがちだってことに気づきました。
お茶屋さんの「ガラス瓶の中の世界を覗いているみたい」って言われてみればなるほどです!
そういう小宇宙っぽさもたしかにありましたよね。
”壺中天”ってこんな感じなのかも。
TAOさんもおっしゃっていましたが、スケールの大きい映画だったのね。私は、それを全く感じなかったので、(ガラス瓶の中の世界を覗いているみたいな感じがしたの)なんだか不思議な感じです。静かで美しくて、何も考えたくなくなるの~(笑)。
ムーマさんが言葉にしてくれたよかったよ(謝謝)。
>精神とか心というのは自分で意識できるけれど、
>自分でも意識できない自分の核のようなもの。
>心とからだをつないでいるもの。
>そういう実態のない、でも大切な何かをきっと
>「魂」と言うのだと
あまりに的確な定義(と私は思いました)なので、もう一度引用させていただきました。
そう、私も正にそういう意味で「魂」と「不死」がキーワードだったんだな・・・って思ったんです。
「この主人公のアンナへの想いは魂に由来するもの」って、私も感じたんだと想います。
あ、(言わずもがなのコトですが)読む方としては、TAOさんの文章の中で乱用と感じたことはないですよ。
私が「魂」という言葉をほとんど使わないのは、「自分でも意識できない自分の核のようなもの」のダークな部分(というか巨大な黒いエネルギーの迫力!)を実感した経験があって、素直に「自分自身の核」とイコールで結べない?からかもしれないな・・・って、今初めて気がつきました。
なるほど・・・この映画はずいぶん深い所まで観た人を連れて行く作品だったんだなあって、改めて感じます。
コメント書いて下さって本当に良かった!!
精神とか心というのは自分で意識できるけれど、
自分でも意識できない自分の核のようなもの。
心とからだをつないでいるもの。
そういう実態のない、でも大切な何かをきっと「魂」と言うのだと勝手に思っていて、便利な言葉なのでつい乱用してしまいます。
そして、この主人公のアンナへの想いは魂に由来するものだと思うんですよねえ。
15歳のアンナ・・・やっぱり!(笑)。
「年増」じゃなくても、ああいう魅力を持った女の子いますね、確かに(うんうん)。
『敬愛なるベートーベン』観てなくて残念です。でも、ダイアンはどちらにしても闊達すぎて、「熟した果実」風味から遠いから・・・。
ヤマさんの女優名撰、どんな女優さんが入っているのかな~。(『善き人のためのソナタ』の女優さんくらいしか知らない。)
私自身は「人間以外」が好きなくらいなので、実を言うと「15歳のアンナ」より『ウォーリー』のイーブの方が好みかも~(笑)。
ダイアンは、『敬愛なるベートーヴェン』のときの写譜師かなぁ、あれもアンナだったようですが。でも、例の僕の「女優名撰」入りはしてないですね、彼女(笑)。
お二方がリクエストして下さったお蔭で、なんとか書けました~(本当)。
こちらこそありがとうございました。
ところで、名高き色好みのヤマさん(笑)はどの女性がお好みでしたか?
(私は色の好みを別にすれば、ダイアン・クルーガー(アンナ)は、これまで観た彼女の中で一番魅力的に見えました。)
更年期さんの(文章からの)切り取り方がいいんですよぉ・・・と言いつつ、もう一度読んでみて、こんな宣伝文句がどこかにあったような気がしてきました。(もしかして、無意識に盗作?)。
この頃では自分の記憶がアテにならなくなってて、一度目にしたことを(さっさと忘れてしまって、でも脳はどこかで覚えていて)まるで自分が考えついたかのように書いてるんじゃないかって・・・考え始めると怖くなります(笑うに笑えない)。
でも、映画自体はほんとに良かったですよ~。
シドロモドロの記事が宣伝に一役買えた・・・なんて思うと、なんだかすごーく嬉しいです。
「こちらこそ、どうもありがとう。」デス。
私は本文中では「自分自身、自分の本心」なんて苦し紛れに書きましたが、一言「魂」っていえば良かったんだ・・・って、やっと気がつきました。
普段は「魂」って高尚すぎて、私はよう使いこなせない言葉の1つなんですが、この映画の場合はぴったりかも。
「選択」と「記憶」もキーワードだと思いましたが、それとは別に「不死」と「魂」もそうでしたね。
あ、『ミッション:8ミニッツ』は早々に観ました。(珍しい~(笑))
言われてみると、この『ミスター・ノーバディ』のテーマと響き合ってる・・・ほんとにそんな気がしますね。
『月に囚われた男』はDVDで観たんですが、ダンカン・ジョーンズ監督の姿勢とセンスが好きです。
ありがとうございました。
>ニモの人生は結局「アンナを愛していた」という…所に行き着くのかもしれない・・・
として、ニモではなく、ムーマさんの
女性の好みではなく色の好みからすると、
どの女性がお好みでしたか?
いつもムーマさんの文章力には感心しきりなんですが、この一節は映画の宣伝文句より惹きつけられます。
またまた見てみたい映画の一つになりました。
ところで「ミッション:8ミニッツ」もこの映画のテーマと響き合っている気がしました!
誰もが愉しめる娯楽作なんですけど、”美しさと普遍性と、「もの思う時間」”を与えてくれる映画でしたよ。