眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

私の中のディートリッヒ ・・・・・ 『情婦』

2011-11-05 16:55:25 | 映画・本

(以下の記事は、映画の内容に一部触れています。未見の方はどうぞご注意下さい。)


昨日はちょっと無理をして、「午前十時の映画祭」で最終日の『情婦』(1957 ビリー・ワイルダー監督)を観てきた。

実は一昨日、県立美術館で始まった「フレデリック・ワイズマンのすべて」という企画でドキュメンタリー映画の『ボクシング・ジム』を観て、ラッキーにもワイズマン監督本人の講演も聞くことが出来た。

講演は、高齢の監督さんの淡々とした?話し方で聞く内容が、私にはとても面白かった。「こんなやり方でドキュメンタリー映画撮る人が、本当にいるんだ・・・」と、目を瞠る思いがした。

新作という『ボクシング・ジム』の「ナレーションも音楽もない」映像も私の体質に合っていて、元々は「そろそろエネルギーも落ちる季節だし、観に行かずに済んじゃうかな・・・」などと思っていたのが、「取りあえずは、出来る限り観よう!」に変わった。

ところが美術館からの帰り道、路面電車に揺られていると、突然、「あの長いドキュメンタリー(来年までかかって、土日に全部であと15本!)観るのなら、正反対の映画も観なくっちゃ。」(笑)。昔テレビで観た『情婦』、やっぱり観に行こうかな・・・なんて気持ちが、どこからともなく湧いてきたのだ。(ただでさえ今シネコンのフリーパスのせいで、映画観るのに追われてる?というのに。)

でも、私はある時期から意識してこういう思いつきを大事にするようにしているので、その翌日、ほんとに『情婦』を観に行った。(相変わらずの長~い前置き)


深夜のテレビで『情婦』を初めて見た頃、私はまだ高校生だったと思う。

マレーネ・ディートリッヒという女優さんを見たのはその時が初めてで、以来ディートリッヒというと、あのクリスチーネ役を演じた彼女(今調べたら56歳!)が浮かぶようになってしまった。後に『モロッコ』(1930)を観たときはヒロインの線の細さ?に驚き、若い頃(といっても28歳?)はこんなに繊細な感じのする人だったのかと、逆に新鮮に感じたのも覚えている。

今回映画を観た後で、ディートリッヒのことを少し調べてみて、『情婦』での役柄は彼女の実人生と重なる部分が幾つもあるのを知った。早くに父親を失っての生活苦、離婚できない夫の存在、年下のパートナーとの交際、戦中戦後を通じて「2つの陣営のどちらからも批判されそう」な立場に立たされた経験・・・。

そういったことすべてが、『情婦』のクリスチーネの中に生きていたんだろうな・・・と、改めて私は思った。

『情婦』の原題は「検察側の証人」という意味の英語で、いわゆる「情婦」といったニュアンスはない。アガサ・クリスティの短編小説から作られた戯曲を映画化した作品で、ミステリー映画というジャンルの中では傑作中の傑作という声もある。

法廷劇という物語としての面白さに加えて、緻密な脚本、テンポの良い展開、演出の巧みさにキャストの名演が加わって、高校生の私も、当時のマレーネと同年齢になった今の私も、観て「面白い!」と思う気持ちは変わらなかった。

古いモノクロ画面で、1952年のロンドンを舞台に、尊大といってもいいような毒舌家の老弁護士や鬱陶しいくらい世話焼きの看護婦、温厚な紳士の裁判官にいかにもチャランポランな一見詐欺師風の若い殺人容疑者・・・いかにも第2次大戦後の古臭い?雰囲気なのに、観ていてそうとは感じない。

けれど、私にとってはこの映画は、要するにマレーネ・ディートリッヒという女優さんを観るための映画だったんだ・・・と、今回改めて思った。

他のキャストたちのやりとりも、苦味のある、でも時として温かくもある英国風のユーモアがちりばめられて、見ていて味があり楽しい。けれど、私の眼にはそれ以上にディートリッヒが鮮やかに映ってしまうのだ。

ラストでは二重の“どんでん返し”が待っている。その時見せる「愚かさ」も含めて、ディートリッヒ演じるクリスチーネの人間像は、今も私を魅了する。ディートリッヒの生身の人間とは思えないような(作り物っぽい?)容姿も、クリスチーネというこの役柄には相応しく映る。計算され尽くしたようなその仕草や振る舞い方も。

彼女が人々を欺いたその見事さは(クリスチーネは一応女優の役ではあるけれど)どんな女の中にも潜んでいるもの・・・と私自身は思っている。本当に必要となれば、このくらいのことをする覚悟を、女は内に秘めている生きもの・・・という気がする。

しかし、ラストのような愚かしさも同時に潜んでいるのだと。恋というのはそういうものなのだと。

老弁護士自身、クリスチーネに出会った最初から、既に彼女に籠絡されてしまっているように私には見えた。弁護士役の俳優さんが、はっきり意識してそう演じているように見えたのだ。

「目を離すことが出来ない」ような女と敵味方になって戦ってみたけれど、結局最後まで相手を出し抜くことは出来ず、ラストでまたチラッとうしろを振り返る風情を見せた彼女のために「弁護の準備にかかるぞ!」と叫ぶエンディングに、つい微笑んでしまった。弁護士の仕事に対する熱意と誠実さを感じるシーンだけれど、それだけでもない、ある種の可愛らしさ?を感じたのだ。


前日美術館で観たワイズマン監督のドキュメンタリーは、(ナレーションも説明も音楽もないせいもあって)一見、観客はただカメラの前で起きることをじっと見ているだけ・・・というような作りに見える映画だった。『情婦』は反対に、あらゆる技巧、「化粧」を施して、ゼロから幻の現実を作り上げたような作品だった。でも・・・どちらも私の好みに合っていた。

映画ってほんとにいいなあ・・・って、こういう時つくづく思う。

金沢に強行軍で帰ったことが逆の刺激になって、ごく僅かながらいつもよりハイ?になってる今の自分を、それでももうしばらく楽しんでいたい。せめてあと1週間。ワイズマン特集の最初の土日が終わるまで、注意深くヒコーキを操縦して行かなくちゃ。

動くこと、話すこと、書くことがこんなに自由に出来る自分は本当に久しぶりだけれど、人は普通これくらい元気なものなのか・・・という、新鮮な驚きが今もある(笑)。

 

 

 

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2 コメント

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Unknown (更年期)
2011-11-07 11:05:02
実は、娘の着物着付けの写真に「デートリッヒ風」とつけようと思っていたのです。
ムーマさんのデートリッヒ愛を読んで
いや~、止めて良かった(^ム^)と、真剣に思います
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いやいや、なんの (ムーマ)
2011-11-07 13:06:19
更年期さ~ん、

「デートリッヒ風」ってつけてよかったんじゃあないでしょーか(本気)。
今お嬢さんたちの写真見てきましたが、ほんとそんな感じの着付けでしたね~。

この映画(『情婦』)のマレーネはそういうイメージからいうとむしろ例外というか、なにせ56歳!で、大戦後の貧しい生活での話なので、お嬢さんたちとは正反対の雰囲気でしたけど(笑)。
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