富士市今泉の昔話(70)年間ブログの整理(2)
昔話(10)12・7・16 吹上周辺のその昔(6)
吹上の北側は畑続きで、再掲の写真の様に富士山まで何もなく、将に富士山
の大裾野の感であった。
市道伝法原田線の開通により大きく変化し、家が急速に建てられてきた。十
王子神社も二分され、此の地区最古の横尾郷の記の庚申塔も南側に復元
した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/f5/acfb0e4dd62e2a8f6eec9d1bf60ee093.jpg)
昔話(11)12・7・20 吹上周辺のその昔(7)
市道開設による変化の多き物に第二中学校の開設が在る。今まで山の運動場
としてきた地を中心に、開校が出来、妹の入学より母がPTAの婦人部とし
て活躍し、バザー等の古い写真が懐かしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/59/b33fffc2c00cdafc1e292a457a1ef2ab.jpg)
昔話(12)12・7・29 吹上周辺のその昔(8)
義元が善得寺の為に設けた水利が此の地の400年の生活を支えてきたが、今
に残る幾つかの遺跡を列記して見る。此の遺跡が活用され、顕彰される事を
願っている。
中島よりの水路の途中の戸泉の滝(子供の頃戸泉と呼んでいたが、正式には樋
詰と言うのかもしれない)。滝行の地である。滝は2段であり、これは上段の
滝であり、此の前部の真岩を割って水路を通してある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/17/8d061475a7a8f2632526b02782cdb9ce.jpg)
昔話(13)12・08・02 善得寺(考)其の場所(5)
善得寺の草創は、「香語」に記されているだけであり、須津の「小県」とのみ
である。此の地名は現在は無く、全国探したが、長野の上田市の南に在る地名
だけである。此の地に、富士山の名の山が在り、富士山村の名の村が在り、現
地を尋ね、市役所を尋ねたが今まで関係は得ていない。
開基の上杉憲顯も不明点多く、墓は国清寺に在る。
場所は慶昌院付近と私見する。
昔話(14)12・8・6 善得寺(考)其の場所(6)
「香語」の如く、「小県」より「瀬子の西」の地に叢寺を構え、「福王」と号
された。是は上杉の勢力が富士川まで拡大された事であり、横尾郷といふ豊冨
の地を与えた事は橋頭堡を構えた事と思はれる。福王を善得と改め2世を迎え
ているが、場所は現在の寺市場の地に遷されている。
「福王寺」の場所は今まで「福応寺」の場所と考えられていたが、私見として
八軒村の辺と考え、「福応寺」は善得寺城築城後其の鬼門鎮護として開創され
たではないだろうか。
昔話(15)12・8・9 善得寺城(1)其の場所
今川範政は此の地を領地した時、その拠点として善得寺城を築城した。応永
24年(1417)である。「和田川を濠とし、荻の原の地に」とのみ伝えら
れ、形・位置は不明であったが、近年「円郭式山城」の善得寺城の絵図が発見
され、確定されたかに見えた。
他地の歴史家等より、絵図は興国寺城の物との異論が出ている。
昔話(16)12・8・14善得寺城(2)其の形
発見された絵図には幾つかの寸法が在り、是より縮尺が推定できる。此の縮尺
よりの図を、郷土誌の当地の先達鈴木氏も描き、図の愛鷹山の方向を地図の愛
鷹山の方向に合わせて見たが、現地には合致せず断念された。
私見にも同じ図を作成し、愛鷹を富士山の方向として配して見たが合致の点な
く、円郭式は善得寺城には不適と結論した。
現地に会う城の図を更に考えたい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/37/8fdf0e49f6b9b6ebd79daeb73d57ff91.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/97/0227884922e1871894d754aa29969e9d.jpg)
野山の草草も秋を深めている。センニンソウ・サワヒヨドリ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/15/1f90fe9a97d1eb74100d1b16b017dfba.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/1b/9cf3a43c47cbedc014b8bd9957eee4c1.jpg)
昔話(10)12・7・16 吹上周辺のその昔(6)
吹上の北側は畑続きで、再掲の写真の様に富士山まで何もなく、将に富士山
の大裾野の感であった。
市道伝法原田線の開通により大きく変化し、家が急速に建てられてきた。十
王子神社も二分され、此の地区最古の横尾郷の記の庚申塔も南側に復元
した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/f5/acfb0e4dd62e2a8f6eec9d1bf60ee093.jpg)
昔話(11)12・7・20 吹上周辺のその昔(7)
市道開設による変化の多き物に第二中学校の開設が在る。今まで山の運動場
としてきた地を中心に、開校が出来、妹の入学より母がPTAの婦人部とし
て活躍し、バザー等の古い写真が懐かしい。
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昔話(12)12・7・29 吹上周辺のその昔(8)
義元が善得寺の為に設けた水利が此の地の400年の生活を支えてきたが、今
に残る幾つかの遺跡を列記して見る。此の遺跡が活用され、顕彰される事を
願っている。
中島よりの水路の途中の戸泉の滝(子供の頃戸泉と呼んでいたが、正式には樋
詰と言うのかもしれない)。滝行の地である。滝は2段であり、これは上段の
滝であり、此の前部の真岩を割って水路を通してある。
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昔話(13)12・08・02 善得寺(考)其の場所(5)
善得寺の草創は、「香語」に記されているだけであり、須津の「小県」とのみ
である。此の地名は現在は無く、全国探したが、長野の上田市の南に在る地名
だけである。此の地に、富士山の名の山が在り、富士山村の名の村が在り、現
地を尋ね、市役所を尋ねたが今まで関係は得ていない。
開基の上杉憲顯も不明点多く、墓は国清寺に在る。
場所は慶昌院付近と私見する。
昔話(14)12・8・6 善得寺(考)其の場所(6)
「香語」の如く、「小県」より「瀬子の西」の地に叢寺を構え、「福王」と号
された。是は上杉の勢力が富士川まで拡大された事であり、横尾郷といふ豊冨
の地を与えた事は橋頭堡を構えた事と思はれる。福王を善得と改め2世を迎え
ているが、場所は現在の寺市場の地に遷されている。
「福王寺」の場所は今まで「福応寺」の場所と考えられていたが、私見として
八軒村の辺と考え、「福応寺」は善得寺城築城後其の鬼門鎮護として開創され
たではないだろうか。
昔話(15)12・8・9 善得寺城(1)其の場所
今川範政は此の地を領地した時、その拠点として善得寺城を築城した。応永
24年(1417)である。「和田川を濠とし、荻の原の地に」とのみ伝えら
れ、形・位置は不明であったが、近年「円郭式山城」の善得寺城の絵図が発見
され、確定されたかに見えた。
他地の歴史家等より、絵図は興国寺城の物との異論が出ている。
昔話(16)12・8・14善得寺城(2)其の形
発見された絵図には幾つかの寸法が在り、是より縮尺が推定できる。此の縮尺
よりの図を、郷土誌の当地の先達鈴木氏も描き、図の愛鷹山の方向を地図の愛
鷹山の方向に合わせて見たが、現地には合致せず断念された。
私見にも同じ図を作成し、愛鷹を富士山の方向として配して見たが合致の点な
く、円郭式は善得寺城には不適と結論した。
現地に会う城の図を更に考えたい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/37/8fdf0e49f6b9b6ebd79daeb73d57ff91.jpg)
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野山の草草も秋を深めている。センニンソウ・サワヒヨドリ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/15/1f90fe9a97d1eb74100d1b16b017dfba.jpg)
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