富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(70)

2013年09月07日 16時16分01秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(70)年間ブログの整理(2)

昔話(10)12・7・16 吹上周辺のその昔(6)

吹上の北側は畑続きで、再掲の写真の様に富士山まで何もなく、将に富士山
の大裾野の感であった。
市道伝法原田線の開通により大きく変化し、家が急速に建てられてきた。十
王子神社も二分され、此の地区最古の横尾郷の記の庚申塔も南側に復元
した。



昔話(11)12・7・20 吹上周辺のその昔(7)
市道開設による変化の多き物に第二中学校の開設が在る。今まで山の運動場
としてきた地を中心に、開校が出来、妹の入学より母がPTAの婦人部とし
て活躍し、バザー等の古い写真が懐かしい。



昔話(12)12・7・29 吹上周辺のその昔(8)

義元が善得寺の為に設けた水利が此の地の400年の生活を支えてきたが、今
に残る幾つかの遺跡を列記して見る。此の遺跡が活用され、顕彰される事を
願っている。

中島よりの水路の途中の戸泉の滝(子供の頃戸泉と呼んでいたが、正式には樋
詰と言うのかもしれない)。滝行の地である。滝は2段であり、これは上段の
滝であり、此の前部の真岩を割って水路を通してある。



昔話(13)12・08・02 善得寺(考)其の場所(5)
善得寺の草創は、「香語」に記されているだけであり、須津の「小県」とのみ
である。此の地名は現在は無く、全国探したが、長野の上田市の南に在る地名
だけである。此の地に、富士山の名の山が在り、富士山村の名の村が在り、現
地を尋ね、市役所を尋ねたが今まで関係は得ていない。
開基の上杉憲顯も不明点多く、墓は国清寺に在る。
場所は慶昌院付近と私見する。

昔話(14)12・8・6 善得寺(考)其の場所(6)
「香語」の如く、「小県」より「瀬子の西」の地に叢寺を構え、「福王」と号
された。是は上杉の勢力が富士川まで拡大された事であり、横尾郷といふ豊冨
の地を与えた事は橋頭堡を構えた事と思はれる。福王を善得と改め2世を迎え
ているが、場所は現在の寺市場の地に遷されている。
「福王寺」の場所は今まで「福応寺」の場所と考えられていたが、私見として
八軒村の辺と考え、「福応寺」は善得寺城築城後其の鬼門鎮護として開創され
たではないだろうか。

昔話(15)12・8・9 善得寺城(1)其の場所
今川範政は此の地を領地した時、その拠点として善得寺城を築城した。応永
24年(1417)である。「和田川を濠とし、荻の原の地に」とのみ伝えら
れ、形・位置は不明であったが、近年「円郭式山城」の善得寺城の絵図が発見
され、確定されたかに見えた。
他地の歴史家等より、絵図は興国寺城の物との異論が出ている。


昔話(16)12・8・14善得寺城(2)其の形
発見された絵図には幾つかの寸法が在り、是より縮尺が推定できる。此の縮尺
よりの図を、郷土誌の当地の先達鈴木氏も描き、図の愛鷹山の方向を地図の愛
鷹山の方向に合わせて見たが、現地には合致せず断念された。
私見にも同じ図を作成し、愛鷹を富士山の方向として配して見たが合致の点な
く、円郭式は善得寺城には不適と結論した。
現地に会う城の図を更に考えたい。





野山の草草も秋を深めている。センニンソウ・サワヒヨドリ