富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(71)

2013年09月13日 19時03分22秒 | 昔話
富士市今今泉の昔話(71) 年間ブログの整理(3)

昔話(17)12・8.24 外伝 善得寺城(3)其の形
善得寺城の物と言はれた円郭式山城の図は興国寺城の物であり、善得寺城の形
の再検討を重ねる時次の幾つかを発見推定を進めた。
 等高線図に本国寺前よりY理髪店までの窪地の連続を発見、これを大空堀
 を埋め立てた名残と考え、推定の基本とした。
 現在残る虎口と考えられる石垣は、新しい為昔の物とは言えないが、其の
 形より東に城を見た時に大手門の場所として推定に加えた。
 福応寺の西の切り込みと吉原公園の切り込みを結ぶ空壕の推定。
 上和田の此の地を囲む東・南の野面積の石垣。又六所家部分の大石垣。
 家康が善得寺城を廃した時、虎口より瀬古御殿えに造った曲折の道図。是
 は駿国雑誌に所載されて居るが、源本は東泉院資料に在り、善得寺城の位
 置と家康の瀬古御殿の位置を示している。
以上により善得寺城を梯郭式平城と推定した。推定図を示す。方々のご意見
を得たい。



昔話(18)12・8・29 外伝 善得寺城 雑記(1)
善得寺城の考え方。
下方12郷とは。
城名残と考えられる東部の野面積みの石垣群。



昔話(19)12・9・7 外伝 善得寺城 雑記(2)
城名残と考える中央部の状況。
愛鷹神社付近が本丸と考える。
南部の野面積みの石垣。横矢の構造とも見える。
南部の平坦地は馬場か。



昔話(20)12・9・13 外伝 善得寺城 雑記(3)
西部の考え。
西部に残る野面積みの大石垣は由緒が感じられる。
今に残る虎口の石垣は由緒である。



昔話(21)12・9・22 今泉小学校の思い出(1)
今泉小学校の経過。
寺小屋に始まり、原泉舎に纏まりやがて郷蔵の跡地の「水の上」の場所に小
学校が開設され、茨原の新設まで続いた。皇太子誕生の旗行列、2・26事
件の日の積雪等を経ての懐かしい思い出の場所である。既に無い多くの先生
方の有り難い思い出が在る。



昔話(22)12・9・29 今泉小学校の思い出(2)
「水の上」の今泉小学校の思い出。
郷蔵の跡地は弐段に分かれ、其処に古い校舎が2棟。太い丸太で支えられた
校舎が懐かしい。
今の市道沿いの崖下に滔々と水が湧いており、運動の合間に石段を駆け下り
て争って飲んだ物だった。
校舎に付属の運動場わ狭く、運動の時間には山の運動場(今の2中の場所に
在った)迄駆け足で往復した。
東の崖上に椋の大木が並び、蔭を造り、風を湧かせ、4季の風情を為し親し
んだ。「文集椋の木」は自分の人生を造ったと感ずる。



秋深い秋の草草、花を競うようである。「つりがねにんじん」「うど」。














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