富士市今泉の昔話(73) 年間ブログの整理(5)
昔話(30) 外伝 善得寺城 歴史
今川範政は、禅秀の乱平定の功により、義持より下方12郷を与えられ、
守護大名より変身した。此の地を領地するために、荻野原の地(現在の富
士市上和田)に和田川を要害として、応永14年(1417)善得寺城を
築城した。
善得寺城は、以降今川の支城として早雲の領地ともなり、河東大乱として
今川・武田・北條の間の争奪が繰り返された。
天文8年(1539)、義元は北条より河東を回復し、善得寺城を整備し
た。兵農分離を進め、武家屋敷を設け、武家屋敷を含んだ「惣構」を構築
し、東よりの北条えの防備を強化したと私見する。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/1c/131058e2aa32fd69667d37c2780942a9.jpg)
天文9年(1540)には瀬古の地に善得寺を再興した。
義元亡きあと、今川の弱体に乗じての信玄の駿河侵攻が続き、河東一帯は
武田領になったが、天正5年(1577)の甲相和睦により北条領となり、
善得寺城は北条12塁の一つとされた。
天正14年(1590)の秀吉の北条征伐の折、家康の占拠となり、廃城
とされた。
廃城後、家康の瀬古御殿に通ずる今泉往還が造られたのが「駿国雑誌」の
図である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/43/658742f864104a08b29aeef98abd3370.jpg)
昔話(31)今泉小学校の思い出(4)
小学校時代に「チビ」と呼ばれた思い出の「私のからだ」の記録が出てき
た。思い出の幾つかを書いてみた。
1年生の記録である。身長104cm、体重15,8kg。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/80/e953c706a9fc5d9eacfebc10890f98c6.jpg)
昔話(32)外伝 善得寺考 関係諸寺(1)清岩寺
清岩寺は善徳寺の跡地と推定される地に、開創された浄土宗の寺院である。
善徳寺の東北に当たり、開山堂の在った場所と考えられ、400年を経たと
言はれる大栢、護国廟と考えられる稲荷社・諏訪八幡社、六地蔵、地蔵大士
碑等禅宗の痕跡が残されている。清岩寺の3世の住職が善徳寺と兼務が在っ
たか、善徳寺の過去帳に名が記されている等善得寺とは関係が在ったと
考えられる。
駿河大納言の家臣の住居の一部が庫裏・山門に移設され、その冠木門の基礎
の1個が石垣に組み込まれている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/54/0ea0cacbe41a9aa9128532a31b55d9c7.jpg)
昔話(33)外伝 善得寺考 関係諸寺(2)永明寺
永明寺は曹洞宗の寺院であり、「富士乱水の庭」が名高い。寺内に善徳寺の
過去帳に本尊寄付と記されている「大安牧仙庵主」の墓がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/69/48e81c9e9ac44a47ac220828bf491bb5.jpg)
昔話(34)外伝 善得寺考 関係諸寺(3)法雲寺
臨済宗法雲寺は、明治に廃寺となった善徳寺を吸収し、善得寺の開山の位牌
や過去帳・図面等が残されている。
天文年間には、院外塔頭だったかもしれない。
法雲寺は文和2年(1353)建長寺僧用堂西堂和尚により開創され、変遷
を経ている間に白隠和尚との交流も残されている。
山門付近に湧水を集めての清冽の小川が流れ、季節には三島梅花藻の花が美
しい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/d4/2b01085f072b203c4134d001a2668a3d.jpg)
昔話(35)外伝 善得寺考 関係諸寺(4)福応寺
小県(ちいさがた)に開創の天寧庵は、領主上杉憲顯により「瀬子」の西に
移転整備され、福王寺と号し、横尾郷を寺産とされた。
上杉の勢力の富士川までの拡大と私見する。
「瀬子」の西と言ふ場所は「富士市水の上」の場所と考えられるが、現在の
福応寺の場所で無く此の東の八軒村の辺と考える。
福王の名は建長寺の法系による事を示している。
現在の福応寺の場所は、善得寺城が築城されるとき鬼門封じの為、善得寺の
院外塔頭として福応寺が置かれ、善得寺と盛衰を重ねたと思はれる。
徳川の代となり、正徳2年(1712)本寺清見寺の芝岸和尚の入山により
中興された。
開祖大勲策禅師の位牌が残されている。
お茶の寺として名が在る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/57/c39f1d0c5496711e0710f7f1a4e3ebd3.jpg)
昔話(36)外伝 善得寺考 関係諸寺(5)城端 善徳寺
善得寺の調査にインターネツトで全国の同じ名の寺を調べた。平成10年に
全国に善得寺・善徳寺が94寺在ったが不思議の事に臨済宗は2寺のみだっ
た。是は経典に「善福徳」の語が在り、善福寺と関係を考えたが不明である。
この中に浄土真宗は32寺と最も多く、最大に「城端の善徳寺」があり、述
べて見る。
善徳寺は浄土真宗大谷派の古刹で、蓮如上人が吉崎御坊より加賀を巡錫の折
の一坊の開創を始めとし、城端の城主荒木氏の招聘により城の一部を重ねて
善徳寺が開山された。由緒別院として隆盛し、蓮如上人・親鸞上人の御真筆
を始め、古文書9300点等多くの寺宝を備えている。
坊に泊させて戴き、御住職より由緒等を勉強したが、善徳寺の名は教義の中
の「善本・徳本」より発しているとの事有り難かった。
山門・本堂等の大伽藍はすべて豪華な彫刻が施され、豪華絢爛である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/99/17ee7e8489e3e706ac7c6ee53131c9e9.jpg)
寺は花の名所としても知られ、曳山祭り・虫干し法会・花まつり等に町を挙
げての賑わいと成っている。
庭の一隅を葛に占領されてしまった。花は美しく、香・食の楽しみもある
が、占領された感が深い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/ce/9a2cbed4b4d21bcd7496bb492dcf64e3.jpg)
昔話(30) 外伝 善得寺城 歴史
今川範政は、禅秀の乱平定の功により、義持より下方12郷を与えられ、
守護大名より変身した。此の地を領地するために、荻野原の地(現在の富
士市上和田)に和田川を要害として、応永14年(1417)善得寺城を
築城した。
善得寺城は、以降今川の支城として早雲の領地ともなり、河東大乱として
今川・武田・北條の間の争奪が繰り返された。
天文8年(1539)、義元は北条より河東を回復し、善得寺城を整備し
た。兵農分離を進め、武家屋敷を設け、武家屋敷を含んだ「惣構」を構築
し、東よりの北条えの防備を強化したと私見する。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/1c/131058e2aa32fd69667d37c2780942a9.jpg)
天文9年(1540)には瀬古の地に善得寺を再興した。
義元亡きあと、今川の弱体に乗じての信玄の駿河侵攻が続き、河東一帯は
武田領になったが、天正5年(1577)の甲相和睦により北条領となり、
善得寺城は北条12塁の一つとされた。
天正14年(1590)の秀吉の北条征伐の折、家康の占拠となり、廃城
とされた。
廃城後、家康の瀬古御殿に通ずる今泉往還が造られたのが「駿国雑誌」の
図である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/43/658742f864104a08b29aeef98abd3370.jpg)
昔話(31)今泉小学校の思い出(4)
小学校時代に「チビ」と呼ばれた思い出の「私のからだ」の記録が出てき
た。思い出の幾つかを書いてみた。
1年生の記録である。身長104cm、体重15,8kg。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/80/e953c706a9fc5d9eacfebc10890f98c6.jpg)
昔話(32)外伝 善得寺考 関係諸寺(1)清岩寺
清岩寺は善徳寺の跡地と推定される地に、開創された浄土宗の寺院である。
善徳寺の東北に当たり、開山堂の在った場所と考えられ、400年を経たと
言はれる大栢、護国廟と考えられる稲荷社・諏訪八幡社、六地蔵、地蔵大士
碑等禅宗の痕跡が残されている。清岩寺の3世の住職が善徳寺と兼務が在っ
たか、善徳寺の過去帳に名が記されている等善得寺とは関係が在ったと
考えられる。
駿河大納言の家臣の住居の一部が庫裏・山門に移設され、その冠木門の基礎
の1個が石垣に組み込まれている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/54/0ea0cacbe41a9aa9128532a31b55d9c7.jpg)
昔話(33)外伝 善得寺考 関係諸寺(2)永明寺
永明寺は曹洞宗の寺院であり、「富士乱水の庭」が名高い。寺内に善徳寺の
過去帳に本尊寄付と記されている「大安牧仙庵主」の墓がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/69/48e81c9e9ac44a47ac220828bf491bb5.jpg)
昔話(34)外伝 善得寺考 関係諸寺(3)法雲寺
臨済宗法雲寺は、明治に廃寺となった善徳寺を吸収し、善得寺の開山の位牌
や過去帳・図面等が残されている。
天文年間には、院外塔頭だったかもしれない。
法雲寺は文和2年(1353)建長寺僧用堂西堂和尚により開創され、変遷
を経ている間に白隠和尚との交流も残されている。
山門付近に湧水を集めての清冽の小川が流れ、季節には三島梅花藻の花が美
しい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/d4/2b01085f072b203c4134d001a2668a3d.jpg)
昔話(35)外伝 善得寺考 関係諸寺(4)福応寺
小県(ちいさがた)に開創の天寧庵は、領主上杉憲顯により「瀬子」の西に
移転整備され、福王寺と号し、横尾郷を寺産とされた。
上杉の勢力の富士川までの拡大と私見する。
「瀬子」の西と言ふ場所は「富士市水の上」の場所と考えられるが、現在の
福応寺の場所で無く此の東の八軒村の辺と考える。
福王の名は建長寺の法系による事を示している。
現在の福応寺の場所は、善得寺城が築城されるとき鬼門封じの為、善得寺の
院外塔頭として福応寺が置かれ、善得寺と盛衰を重ねたと思はれる。
徳川の代となり、正徳2年(1712)本寺清見寺の芝岸和尚の入山により
中興された。
開祖大勲策禅師の位牌が残されている。
お茶の寺として名が在る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/57/c39f1d0c5496711e0710f7f1a4e3ebd3.jpg)
昔話(36)外伝 善得寺考 関係諸寺(5)城端 善徳寺
善得寺の調査にインターネツトで全国の同じ名の寺を調べた。平成10年に
全国に善得寺・善徳寺が94寺在ったが不思議の事に臨済宗は2寺のみだっ
た。是は経典に「善福徳」の語が在り、善福寺と関係を考えたが不明である。
この中に浄土真宗は32寺と最も多く、最大に「城端の善徳寺」があり、述
べて見る。
善徳寺は浄土真宗大谷派の古刹で、蓮如上人が吉崎御坊より加賀を巡錫の折
の一坊の開創を始めとし、城端の城主荒木氏の招聘により城の一部を重ねて
善徳寺が開山された。由緒別院として隆盛し、蓮如上人・親鸞上人の御真筆
を始め、古文書9300点等多くの寺宝を備えている。
坊に泊させて戴き、御住職より由緒等を勉強したが、善徳寺の名は教義の中
の「善本・徳本」より発しているとの事有り難かった。
山門・本堂等の大伽藍はすべて豪華な彫刻が施され、豪華絢爛である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/99/17ee7e8489e3e706ac7c6ee53131c9e9.jpg)
寺は花の名所としても知られ、曳山祭り・虫干し法会・花まつり等に町を挙
げての賑わいと成っている。
庭の一隅を葛に占領されてしまった。花は美しく、香・食の楽しみもある
が、占領された感が深い。
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