富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(65)

2013年08月02日 20時48分06秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(65)外伝 善得寺考 霊場巡り(10)

駿豆横道33霊場巡り(10)

昭和59年3月27日
静岡の周辺の札所巡りである。建穂・足久保・服織・慈悲尾等の地名に
迷いつつ、驚きつつの50年前の母との順拝だった。カーナビの無い
昔田舎道を迷いつつの何時間だった。
妹との順拝には蓮華の咲く道を辿った覚えが在る。

法明寺
 駿豆横道霊場第31番
 場所 静岡市足久保奥組
 本尊 千手観音
 宗派 曹洞宗
 由緒 桓武天皇の重病を平癒する為、行基に命じて、足久保の楠の
    老樹を切りだして、7体の観世音菩薩を刻ませたと伝えられ
    ています。
    これを「駿河7観音」といい、法明寺・徳願寺・建穂寺・増
    善寺・霊山寺・久能寺・平沢寺に安置し祈願した所、天皇の
    病気が治ったと言い伝えられています。
    法明寺では、6年に一度お祭りが開催されます。
    大楠は高さ約50m直径約8mと伝えられている。
    伝承では養老7年(723)行基菩薩の開創と言われる。
    古くは天台宗と伝えられ一時廃絶していたが、江戸初期増善
    寺の住職に依って中興された。
    観音堂前参道と山門前の参道に杉檜の大木が並び、古寺の風
    格を為している。

思い出を辿りつつの三回目の順拝の日は、本堂前に「のうぜんかずら」
の花が盛りで、法明寺の名入りの古い大きな鬼瓦が飾られていた。







増善寺
 駿豆横道霊場第32番
 場所 静岡市慈悲尾
 本尊 千手観音
 宗派 曹洞宗
 由緒 寺の歴史は古く、白鳳21年(682)法相宗祖道昭法師の
草創で慈悲寺(保檀院)と称した。
    「安部(駿河)7観音」の霊場の一つである。
    室町時代、文明12年(1480)曹洞宗の寺として再興さ
れ、今川氏親が大伽藍を建立して、今川家の官寺とした。
    寺名は氏親の法名「増善寺殿喬山紹禧大禅定門」より取って
いる。
    徳川家康が幼少期人質として駿府にいた時、増善寺をよく
訪れ、後に可睡斉(袋井市)を建立する等膳和尚と親交を
持った。本堂は寛文11年(1671)の建立である。
(以下はフリー百科事典より)
    大永6年(1526)今川氏親が亡くなると、此の寺で戦
国大名史上、他に例のない近在の僧侶7000名に依る大
葬儀が営まれた。寺には苔むした氏親の墓と共に、460
年前に造られた等身大の木像が安置されている。
    寺の裏山に南北朝期の安部城址が在る。此の地で幼少を過
ごした氏親にとって、安部城を控えた自然の要害の地「慈
悲尾」に今川家の菩提寺と自らの安息の地を求めたと考え
られる。

本堂入り口に、よく達磨の形を為した大きな達磨石が置かれていた。







建穂寺(廃寺)
 駿豆横道霊場第29番
 場所 静岡市建穂
 本尊 千手観音
 宗派 真言宗
 由緒 白鳳年間(7世紀中頃)道昭法師が草創し、養老年間
(717~723)行基が中興したと言ふ。
    平安末期、建穂寺は久能寺と共に駿河の2大寺院であった。
足利~徳川の保護を受け、21の塔頭が在った。然し明治
初年廃寺となり、跡地には建穂神社が残るのみである。
観音像(「安部7観音」の一つ)や仁王像など建穂寺の多
くの仏像は西方の林冨寺(廃寺)跡の観音堂に移され、建穂
町内の人々によって守られている。又堂内には巡礼絵馬が多
く残されている。

観音堂は地元の方々が守ってくださっており、お願いすれば鍵を開け
拝観させて下さるとの事で、当番の方に電話でお願いした。
畑仕事中との事で自転車で汗を拭き拭き駆けつけて下さり、丁寧に堂
内を説明下さり、又資料をお見せ戴き、恐縮した。
堂内には、本尊の千手観音を始め市の有形文化財に指定の、木造不動
明王立像(平安時代と鎌倉時代の2体)・木造伝阿弥陀如来坐像・木
造伝大日如来坐像・木造阿弥陀如来坐像等多くの仏像が所狭しと安置
されている。圧巻である。
建穂寺の仁王様に関する「建穂寺異聞」と「建て穂寺の仏像」を入手。
帰宅後更に勉強する事が出来た。









庭に洋種の「さびた」が咲いた。兄の戦死の北海道には「さびた」の
花が良く目につく。
兄たちを祀って戴いている地蔵尊(北海道)の近くに「ほざきしも
つけ」と共に多く見られた思いが在る。