富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(60)

2013年06月29日 08時13分47秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(60)外伝 善徳寺考 霊場巡り(5)

昭和58年3月11日
清水えの所用に、清水方面の霊場巡りを加えて妹を霊場巡りに誘った。

瑞雲寺
 駿豆横道33霊場第24番。
 場所 静岡市興津清見寺町
 本尊 如意輪観音
 宗派 臨済宗
 由緒 清見寺の西隣、駿河湾を見下ろす景勝地に建つ。
    寺伝によると、延歴23年(804)伝教大師が東遊の際、
    此の地に錫を留め、37日間一刀三礼して観音を彫刻した
    と言ふ。室町初期、足利尊氏が参籠して戦勝祈願し、願が
    果たされたので瑞雲院として堂宇を再建した。天正11年
    (1583)清見寺和尚により中興され、瑞雲院と改名し、
    願腰山と号した。明治期の巡礼絵馬が多く残る。
    寺内には名水「性海庵の湧水 」がある。

 三度目の順拝である今日は、順拝と共に首記されている清見寺和尚
 について更に御教示願えればの願いもあった。
 清見寺和尚とは、善得寺の9世である東谷和尚であり、その所縁を
 述べて見たい。
 永禄11年(1568)、武田信玄の第1次の駿河侵攻が在り、清 
 見寺は戦禍を受けたが、この折東谷和尚は住職をしていた。寺を焼
 かれて、東谷和尚は信玄の招きにより、高遠の建福寺に住持し中興
 した。永禄12年(1569)信玄の駿河第2次侵攻が在り、善
 得寺が灰燼に帰した。東谷和尚の詳細は別記したいが、建福寺15
 年の後、善得寺跡の荒廃を嘆き、再興を期して善得寺の跡地に立っ
 た。天正11年(1583)の事である。
 この年に、瑞雲寺を中興した事になる。外に兼住の寺もあったとの
 事であるが尚調べたい。天正18年(1590)、善得寺再興を願
 い檀家を加え、資材を集め続けたが、秀吉の小田原征伐に遭い資材
 を徴発されてしまった。善得寺再興の望みを失った東谷和尚は失意
 の内に、瑞雲寺に住持し、文禄3年(1594)遷化された。






 鉄舟寺
 駿豆横道33霊場第25番
 場所 静岡市清水村松
 本尊 千手観音
 宗派 臨済宗
 由緒 もと久能寺(天台宗)といい、久能山東照宮の地に在った。
    推古天皇の時久能忠仁に依って開創され、行基菩薩の中興と
    伝えられている。本尊は「安部7観音」の一つ。駿河を代表
    する名刹であり、鎌倉時代には300余の堂塔が林立し、盛
    力を誇っていた。しかし、戦国時代に武田信玄・徳川家康が
    此処に城を築いたため、寺現在地に移る。江戸時代には駿府
    浅間神社の社僧を勤め、観音霊場として栄えたが、明治の廃
    仏毀釈に依り廃寺となる。しかし、山岡鉄舟の尽力により明
    治43年に再興され、鉄舟寺と改められた。
    観音堂は、急坂を登った丘陵に建ち、清水港・三保を一望に
    見下ろす。
    旧幕臣で明治以降に静岡県権大参事も務めた山岡鉄舟が、臨
    斉寺から今川貞山を招いて復興した。その為鉄舟の書跡の遺
    品も多い。
    国宝として法華経(久能寺経)19巻がある。

    市指定文化財として「薄墨の笛」がある。これは源義経が牛
    若丸と呼ばれて居た頃から愛用していたとされる龍笛。義経
    より鉄舟寺の前身である久能寺に寄進された。通常公開され
    ていないが、平成の補修の後、義経供養や笛保全の為鉄舟寺
    等で演奏会が開催される。  

三度目の順拝の折は寺が休業との事で入れず、残念だった。観音堂を
遙拝し由緒を拝見寺域を歩した。寺域に菩提樹が在り、北条寺では花
盛りで芳香を放っていたが、此処では既に実になっていた。菩提樹の
花は茶葉と同じに使え、我が家では茶葉と同じに使い、芳香・色・味
を楽しんだ。
鉄舟は、次郎長の名の残る大淵の開墾や天照教に関係が在り、我が家に
残る為書きの書や6双の雄渾の書の屏風を大事にしている。鉄舟が千葉
道場の復興を念じて、海舟等と共に趣意書・奉加帳を此の地の名士に配
り、基金を集め、其の折に海舟・鉄舟・泥舟の書が残されたようである。
我が家の曽祖父が其の世話役をしたらしく、名文の趣意書・奉加帳の写
しが残されていた為、富士市の中央図書館に寄贈した。





平沢寺
 駿豆横道33霊場第26番
 場所 静岡市平沢
 本尊 千手観音
 宗派 真言宗
 由緒 天正10年に書かれた縁起に依ると、奈良時代和銅年間(70
8~715)行基菩薩が白馬に乗って見え、5尺余の地蔵菩薩像
(本尊)を刻み、堂宇を建てたのが始まりと言ふ。次いで養老2
年(718)、後の聖武天皇の病気平癒の祈願の為、再度駿河
を訪れ、直径2,4mの大クスを伐り、7体の観音像を刻み祈
願した所平癒したと言ふ。1体を平沢寺に安置し、残りを安部
郡の6寺に1体づつ安置した。これが「安部7観音」の霊場と
言われている。残念ながら鎌倉時代に焼失し、現在の像は後年
の作。今川氏・武田氏・徳川氏が厚く庇護したが、明治以後無
住の時代が長く続いた。観音堂は急な石段を登った上に建つ。
駿河一国の巡礼絵馬が多く残されている。

50年前に母と順拝の折には、広い空き地に続く丘の上に在ったお堂を
配した覚えが在る。其の折に節分には必ず落語家の「柳や小さん」が
来て豆撒きをすると聞いた。新聞に剣道着姿の「小さん」師匠の豆撒き
の写真が在った。今はどうなっているのか聞き得なかった。
三度目の順拝の日は、観音堂の前の高い石段の下で御堂を拝した時に、
ホトトギスを聞き深山の趣に昼飯を楽しんだ。







庭に李が実り、槿が賑やかさを増してきた。














































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