富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(10)

2012年07月16日 08時27分29秒 | 昔話
10 吹上周辺のその昔(6)
昭和30年頃の吹上の一景である。今から50~60年前の様子。
前を横切るのは鎌倉古道であり、写真の前の部分を
市道伝法・原田線が開設された。此の辺より遮るものなく
大富士が見られ、将に大富士の裾野であり、
富士に抱かれている幸を感ずることが出来る。
米寿とて既に父母の齢を超えての日々感慨が深い写真である。
鎌倉古道に沿って木製の高圧線柱二本が並んでいた。
古道は右へ「かまば」を経て飯森神社に通じている。
馬力道の広さである。今は左は道は無く路地となっている。



市道伝法原田線に依り、鎌倉古道に接していた十王子神社は二分され、
北の本殿部分と南の大銀杏と記念碑等の部分と分かれた。







北には本殿、南の曽我小路より移設された曽我社、善得寺の
用水の末を受けての水タンク
(後に記して見たいが、南の立小路・向小路・西小路
・曽我小路ー武家屋敷部分と私見するへの給水用)、社叢がある。


南には大銀杏、道路開設の記念碑、庚申塔等が在る。
庚申塔は市の俗称に依っているが、わが家にはこの地
への給水の完成記念の碑であり、先祖の名が在るとの伝承が在る。
この碑には三つの大きな意味が在る。

一つは古さであり、正保4年(1647)はこの地の最古の物と考えられる。
一つは横尾郷の記である。横尾郷は下方十二郷の一つであり、
善得寺の領とされているが、記として残されているのはこれ以外は吹上の上柳家の碑のみである。

一つは刻まれている数の氏名である。この時代は姓、名を記すのは武士だけと思はれる。
梅雪時代に甲斐より移住の郷士が帰農と考えると理解できる。
姓名を列記して見るが何れも此の地に在る名であり子孫が現住していると思はれる。
蓮池左左衛門はわが家の先祖の関係である。





 ○田七左衛門、永橋弥○○門、蓮池佐左衛門、
  安部理左衛門、三井三郎右衛門、池田芳衛門、
  飯塚次右衛門、小林勘右衛門、久保田○○○、
  仁藤仁兵衛、仁藤九郎衛、佐野○○○、
  仁藤仁左衛門、
   (記は「駿河48号」杉沢氏の横尾郷の記による)
庚申塔は社前にバラバラに在ったが、散逸を恐れ耐震を考え、
地元の了解を得てこの地に復元した。