富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(9)

2012年07月13日 08時04分07秒 | 昔話

9 吹上周辺のその昔(5)
記を続ける前に、昭和30年頃の寸景を見て戴きたい。

吹上の北は麦・陸稲(おかぼ)・野菜の生産の続く
畑地帯で、写真の様な「みよう」(藁塚)が点在していた。




この頃に、の人々が集って戦死者の墓参をした。其の一景である。



此の地は吹上依り西へ字寺市場・上の山(現在一之宮)と続いているが、
市道伝法原田線の開設により大きく変化した。
北側に吉原第二中学の開設、十王子神社の分断、慈照寺の墓地の移転等の
変化と住宅地化が進んだ。

慈照寺の墓はI家の手配により忠霊碑の北の小松の墓地へ整理された。
慈照寺の資料は少ないが、此の地を通る鎌倉古道に慈照寺坂(この坂で
事を起こした八兵衛の名より八兵衛坂の伝承もある)の名が在り、開基
として「広大院臨川慈照居士」(I家の元祖で武田の武将飯富兵部の末)
が在る。(田宿I家資料)

慈照寺に関して勉強した。慈照寺の名は全国に数あり、有名は京都の
銀閣寺(慈照寺)がある。長野・山梨にもあり共に武田との所縁
が在るのは興味深い。
山梨は竜王町に在り、曹洞宗の別格地で有冨山「慈照寺」と言い、武田の二十四将
の一人諸角豊後守が開基であり、永禄四年川中島で戦死し其の古碑を祀ってある。
三枝守友の菩提寺だったこともあるが、今は菩提寺は別寺になっている。

長野は川中島で戦死した諸角豊後守の供養の為信玄が慈照寺を建立
豊後守を開基とした。慈照寺殿肯従五位豊州太守賢昌清大禅定門
神祇として墓がある。川中島に在る。
慈照寺は廃寺となり、いまはないがI家で建てた記念碑が写真の
場所に設置されている。




市道伝法・原田線の呼坂の地で、此処に慈照寺の墓地が在った。手呼の
呼坂の地かもしれない。
左の高みに慈照寺の碑が在る。