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富士市今泉の昔話(157)根方街道(6)

2015年05月16日 19時24分29秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(157)根方街道(6)

駿河大納言の時代に清岩寺坂が通じ、今泉往還は坂下の新しい道で根方街道となり、宇東川地区の住宅地が形成されたと思はれる。この形が幕末まで続いている。大納言により整備された清岩寺坂・坂本坂・寺市場坂の石畳は明治まで残っていた伝承がある。清岩寺坂の石畳は撤去後一部は寺の参道の飛石として残されていたが、寺の整備の間に散逸されたようであり、残念である。



明治の時代に地図のように下和田の田の中に「佐野新道」が出来た。現在の下和田の道の南で、子供のころ遊んだ道であるが今は細い裏道として残るばかりである。此処から「泉町」「富士見町」に通じ、「田宿」で旧根方街道に合している。この時点で今泉往還を出発点とした根方街道が吉原を出発点と変えている。
「佐野新道」の名の由来は解らない。裾野の「佐野」迄の愛鷹山裾の道と考えると根方街道の意味が出てくるが、よく解らない。
佐野新道は合流後、坂本・御殿を通り清岩寺坂を下る大納言時の道を使っている。

現在の下和田の変則交差点で、左に北進の十里木街道、正面が現在の下和田街、次の細道が佐野新道の名残の細道、右端が根方に通ずる新道である。



新道の名残の細道。電柱の処を左折が細道。直進が下和田街を横断して善得寺城の天守と推定する愛鷹神社に通ずる。



子供のころ遊んだ田の中の細道。



新道は合流後富士フィルム跡地(前は北辰製紙跡)に当たって北進。次の写真の様に田宿川を渡り直進して坂本に達し根方街道となっている。直進路の途中の金子曲がりで大正時代に新道が加わった。直進の道は田宿川の土手伝いに沖田まで続いていた。土手伝いに子供の頃魚釣りや蝗取りに遊んだ記憶が楽しい。子供の頃の田宿川は工場の排水で褐色に濁り悪臭の川であったが、今に見る清水は土地の方々の努力による物である。松原川で蛍の乱舞していた思い出がある。





「大山蓮華」が咲き始めた。山中で出会うと純白・芳香に感激する。



オウチの花が咲いた。此の時にいつも思い出す。今村波津先生の絶唱「ほのぼのと命ありけり花樗」が忘れられない。







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