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ある日カッパ姉ちゃんとカメラおじさんの家に一匹の子犬がやってきた。
日々のうつろいの発見と冒険を胸に生きていこう!

Cardごのみ152~バタフライ&フルーツ・パラダイス

2011年05月08日 | 食玩小物
今日は春らしく色鮮やかなカード2枚です。
上は昆虫をいっぱい、
下は果物のステッカーをたくさん使って仕上げました☆
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懐かしい人への旅3

2011年05月08日 | 投稿連載
懐かしい人への旅 作者大隅 充
     3
 黒澤明監督の名作「生きる」という映画をいま
見返して、この死期を悟った市役所の役人がどう
生きたかという地味な内容であるにもかかわらず、
映画の中身は、ミュージカル映画としての貌をも
っているということを発見することができる。
 末期の胃がんを知った志村喬が小説家の伊藤雄
之助とパーッと生の享楽を味おうとキャバレーや
ストリップ劇場を渡り歩く。そして役所を辞めた
若い女とカフェや映画館をめぐる。ここで流れる
音楽。ジルバからジャズ、アメリカンポップ、大
正歌謡、クラシック・・何でもありでそれぞれが
その主人公の心のアリ様に刺激を与えて休むこと
がない。
ぐいぐいと物語の核心へ引きずり込まれる。
 この大事なシークェンスでキャバレーのピアノ
弾きがブーちゃんこと市村俊幸だ。そして後半の
葬式の場面で役所の同僚が左ト全、藤原鎌足。私
は、大好きなこの映画のこの三人の俳優がムーラ
ンルージュ新宿座の出身だったと知ったのは、最
近のことだった。他にも「用心棒」の岡引の沢村
い紀雄や「酔いどれ天使」の千石規子などもムー
ラン出身で黒澤映画の常連である。調べると黒澤
明は、戦前のムーランに助監督時代から通ってい
たという。「野良犬」では、戦後のムーランの楽
屋まで行き、淡路惠子に決まる以前にムーランの
踊り子を使いたかったという。
 また黒澤と同じくムーランに通った映画監督が
川島雄三で「幕末太陽傳」では、ラストで市村俊
幸が出てくる。この映画も私の生涯ベストテンに
入る映画である。
 実は、この「幕末太陽傳」の美術監督をしたの
が中村公彦さんであった。日活時代の川島雄三や
今村昌平、浦山桐郎のほとんどの作品を手がけて
「ロケマッチ」の名手といわれた日本映画美術屈
指のデザイナーだった。その中村公彦さんの美術
監督になるきっかけが戦後ムーランルージュ新宿
座だった。晩年特にそのムーラン時代の青春を講
演や著述で語っていた中村さんに会えるという機
会にめぐり遭った。中村公彦さんの弟子に当た
る元にっかつ撮影所所長の土屋伊豆夫氏や画家の
三輪敏雄氏から先生に一度「ムーラン」のことを
聞いたらという提案に単なるムーランって何んだ
ったのだろうという好奇心で中村先生とアポイン
トをとることになった。
 平成22年(2010)6月16日。中村公彦
さんは、94才になっていた。
 西武線の新井薬師駅から歩いて10分の哲学堂
公園の入り口の高層住宅に中村先生は、数年前に
奥さんを亡くされて独り暮らしをしていた。
 記録用に撮影をすることの許可を得て三輪さん
の案内で先生の家の呼び鈴を何回押しても誰もで
ない。一日待っても応答もなく行方がわからない。
三輪さんの話だと二日前に電話連絡したときは元
気で今日ムーランのことを聞きに来る私たちのこ
とを楽しみにしていたという。結局数日経っても
行方がわからず週何回か入っているヘルパー会社
や区役所に連絡しても個人情報なので教えられな
いの一点張り。先生の娘さんの公美さんはドイツ
にいて、これまた連絡がとれない。
 すっかり弱りかけた五日後中村先生が救急車で
病院に運ばれ入院をしていたということがわかっ
た。それはやっと連絡のとれたドイツの娘さんか
ら三輪さんへ連絡が入り、父は危篤だということ
だった。
 「ムーランルージュ」どころか先生の話も聞け
ないハメになってしまった。「ムーランルージュ
新宿座」を記録映画として残すか、劇映画として
創作するための下調査をするにしてもその肝心の
生き証人の中村公彦さんが危篤になっていきなり
大きな岩礁にぶつかり座礁してしまった。
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