★2006年 監督リズ・フリードランダー作品
こんな先生と中学高校生の頃に出会えた生徒たちは幸せだ。本作は実在のダンサー、ピエール・デュレイン(http://lesson.gyao.jp/thefilm/#who)の実話に基づいた物語。
ということもあり、社交ダンスで世界的な功績のある人物がどういうふうにしてスラム街の≪問題校≫と称される生徒たちと通じ合っていくのか、アントニオ・バンデラスのダンスも見たいと期待しながら観始めましたが、随所にラップが流れるのに緊張感のあるとても静かな映画、何故か観終えてから時間が経つにつれてそんなイメージが大きくなります。
★http://lesson.gyao.jp/
ここの(↑)サイトを開くやゴキゲンなラップがいきなり流れるので、そういう映画かと思ってしまいますが、音楽も演出も過剰なところが少しもなく、時折ユーモアでホッとさせられるくらいに張り詰めた時間が流れていく映画です。
秘められた情熱の熱さと深さその大きさ、そして持続する意志というものにいつしかしっかり魅了され、観終える頃にはアツい感動に揺すぶられていました。秘められた思いという点では、ピエールとそれぞれの生徒たちは同じだった思いますね。
(こんな張り紙、いやだなァ・・・)
(こちらの張り紙は、もっといや・・・)
いつの時代も高校生にとって学校の決まりというのは、自分たちにあーせいこーせいという嫌なもので、すなわち管理として作用するもの。いかに銃社会のアメリカの高校生でもそれはきっと同じ。規範に対して苛立つのは、大人だって同じ。
これ、フツーです。なぜって、人間は、放っておかれれば、どこまでだって怠慢になったり怠惰になる、そういう生き物だから、何もしなくても食べていいけるなら、何もしないかもしれない。管理はそこから逃れるためにあり、ルールは破るためにあるという言葉だってある。特に青春時代はそうだ。
(ちょっとでも違反していると、たちまち犯罪者扱い・・・このときの生徒の驚きと緊張感、不安と怒りがごっちゃになる気持ち、そして悔しさや憤り、分かりますね。その気持ちの背後には持って行き場のないまま溜まっているストレスだってある)
その管理からはみ出すと「問題児」にされてしまいます。世間とその構成員である大人の多くは、こうしたレッテルが大好きです。このブログを読んで下さっている中に高校生やティーンエイジャーがいたら、そのことは覚えておいて欲しいです。
世の中は、レッテルだらけということ。そして、レッテルを貼ったり張られたりという中で、さて、どうやって生きていけばいいのかということで、この映画は、そんなことに悩み考える高校生と大人にとってとても心に染みると思います。
(登校のたびにこんなチェックを警備員に受ける生徒や来校者・・・・)
映画に登場するNYスラム街の某高校、映画の中では≪問題高≫として登場するけれど、日本でいうなら、≪底辺高≫ということになるのでしょうか。この≪底辺高≫という呼称を高校の先生方の口から出てきたとき、実に驚き、最後は、「底辺どころか、あなたたち教師が最低なんだよっ」と呆れ果てた気持ちを抱かされたものですけれど、これもレッテル。
そんな風に教師が自分では努力もせず自嘲し出来の悪い生徒と学校を責めるというのはいかがなものかと、心ある大人は思うわけです。
(ある者はやり場のない鬱屈した思いを抱え、ある者は何も考えずに刹那的に時間をつぶす。それぞれに事情を抱えるた生徒たちですが、行き場がないから学校に仕方なく来ているが、教室には居場所はなく「落ちこぼれ」のためのスペースが与えられているだけ)
生徒の授業態度が悪く(尊敬できない教師の授業なのだから、行儀が悪くても仕方が無い)成績が悪く(勉強に関心が無いのだから成績が悪くて当たり前)警察の厄介になったりする(いつの世も目標や夢を持たない子供はそういうことになりやすい。ましてや大人が腐っているこんな世の中なのだから、いい大人に出会っていない子供が社会の規範から外れてしまうのも自然といえば自然ではないか)、と、こうした生徒たちがいる高校を称して≪問題校≫だの≪底辺高≫だのとレッテルを貼るだけの教師や大人たちと一線を画すピエール・デュレイン(=バンデラスが演じています)が、ある日車を傷つけている少年を目撃しその生徒が落としていった学校の通行証を見てその高校にやってきます。
ここの学生課の待合室でのシーンがとても面白い。
女性が出て行くたび、傍の椅子に座っているピエール・デュレインがドアを開けるのですが、それを見た生徒が「信じられね~」という顔をしつつも、程なくその真似をし始める。
教育は≪垂範≫というでしょう?
垂範と感化・・・まさにそうした場面がユーモラスに描かれていて、映画冒頭からの緊張感がここでホッとほぐれたというか、一休止できた場面でした。
(生徒指導に日々身を粉にして頑張っている校長ですが・・・)
校長室にやってきたピエールいわく、「ダンスを通して生徒たちの更生指導に協力させてもらいたい」。
苦情だとばかり思っていた校長は、目を剥いて驚きます。この一所懸命な女性校長もなかなか・・・・・な人物です。生徒たちの現状を知っているだけに安易な慈善や建前でしかない生徒のためにといった申し入れなどハナから信じない現実家。どうぜ長続きはしないと断定しつつも、教室の授業に出ないで無為の日々を送っている落ちこぼれの生徒たちのクラスを受け持たせます。
つまり、チャンスをくれたわけです。
仲間由紀江のごくせんのような先生でもなければ、無論、金八先生でもないピエール・デュレイン(=アントニオ・バンデラス)!
彼は人間としてのマナーを体現し、彼が教えることのできる唯一のこと、ダンスを生徒たちに教えていきたいと思いますが、ダンスと言えばヒップホップという生徒たち。社交ダンスなんて冗談じゃないといったノリで。これは当然といえば当然。
なぜって、彼らは社交ダンスに興味もなければ、そもそもそんなものはリアルで見たこともないし知らないのだから。物理や化学や数学、歴史や地理や倫理社会も同じことでしょう。彼らの状態は、生徒としては「知らないものを知っていく」以前の、いわばゼロ段階。
そんな生徒たちの中に車を壊していた少年を見つけるピエール先生ですが、彼は何も言わない。
そんなピエールに疑義の念を抱き静観する少年・・・説教も小言もいい先生ぶる偽善もなし。
気になりながらも会話一つなく教室での様子、校外での様子が淡々と、けれど、緊張感を持った映像とアングルで綴られていくわけですが、この鋭い眼を向ける彼を始めとして、教室と称されるそこにいる生徒たちは一筋縄ではいきそうにない少年少女ばかり。
大人や教師の嫌なところを小さい頃からいやと言うほど見て育ってきている彼らは、家に帰れば呑んだくれて暴力を振るう父親や昼間から酒びたりでだらしない格好でソファで寝ている母親という按配で、家庭にも居場所がなかったり、働く母親に代わって家事育児で勉強どことではない生徒もいる・・・・・
家庭環境がどうでっても、呑んだくれて育児放棄して教育にも無関心という親を毎日見ていて心が傷つかない子供はいない。こうした鬱屈した思いのティーンエイジャーたちとピエールはどう向き合い心を通じさせていけるのか。
ピエールは戸惑いながらも普通に接触を図っていきます。つまり、初めて知り合った生徒たちゆえ、礼節を持って相手と向き合うという普通のことを当たり前に行っていきますが、何を語ってもチラッと目を向ける者はいい方で、ほとんどが無関心。何を言っても誰も聞かないし、皆それぞれ好き勝手なことをして時間を過ごすというポーズを崩さない。それでもピエールは礼節をもって生徒たちに語りかけ礼節を失うことなく接していきます。時にはユーモアさえ持って生徒たちに一生懸命耳を傾けてもらえるように願います。
でも、ダメ・・・
本作は、前半の多くがそうした生徒たちの様子や教室と称されるスペースでの様子が淡々と描写され流れていくので、何か起こりそうなのに何も起こらないというあまりに静かな映画でもあります。ラップががんがん流されるシーンが多かったはずなのに。
バンデラス特有のアクションだとか情熱あふれる弁舌を振るうシーンもない。けれど、カメラは少しづつ少しづつ変化を見せる生徒たちの眼差した態度を、これまた見逃さずに淡々と映し出していきます。そこがこの映画の凄いところかもしれません。
けれど、映画は動き出します。起承転結の「転」ですね。生徒たちにピエールにとって転機となる場面。薄汚れて汚い教室でピエールはダンススクールからパートナーを連れてきて、そこでいきなり音楽を流しダンスを踊り始めます。それも情熱的なタンゴ・・・・・それがいきなり始まるのです。
ここが、本作で唯一のバンデラスのダンシングシーンなので、驚きです。最初は「何始めたんだァ」といった反応だった生徒たちですが、
そのパフォーマンスの凄さに、いつしか圧倒されていきます。
無理もありません。実話なので、実際にピエールのダンスを間近に見ることができた生徒たちの驚きと衝撃も、この映画のようだったことでしょう。実在のピエール・デュレイン氏は、ソーシャルダンスの世界一と言われるイギリスのダンス大会、「ブラックプール」(映画『Shall we dance?』ですっかりお馴染みになったあの大会です)で4年連続優勝した経験がある方で、その後は名門ジュリアード音楽院で教鞭を執られ、数多くの社交ダンス教室を経営していらっしゃる、そういう超一流の人物。
本物を見るということが、いかに凄いことか!
高校生ならなおさらです。
バンデラスも本領発揮で、素敵でした。
圧倒され言葉を失って呆然としつつも、
思わず本音の言葉を先生であるピエールに向けてくる生徒たち。
これが初めての両者の向き合いかもしれませんね・・・
(感動は、どんな人間でも教えを請う立場に向ける・・・・だからこそ、高校生時代にこそ自分を忘れるほど感動するものと出会ってほしい)
この少女の表情もなかなか見ごたえがあり、実にいろいろ異なるシーンで心の機微を表情で見せてくれています。
十代の少女のあらゆる表情が、彼女を通して見ることができるのではないでしょうか。切なくなるほど素敵でした。
紆余曲折を経て教室ではやっと、ダンスのレッスンが始められるようになったものの、それでも映画では劇的なことは何も起こりません。そういう映画なのです。
ラップしか踊ったことにない彼らが、曲がりなりにも社交ダンスのステップの基本を覚えるべくトライしていきます。
けれど、いきなり上手に踊れる人間はいません。
思うように踊れず、短気を起す生徒も出てくるし、
こんなステップは退屈だと途中でやめようとする生徒たちも出てくる。そこがとてもリアル・・・
高校生くらいになると、反発や反抗も半端ではない。
自分たちで始めたことながら、
感動は、次に繋がる何かがないと残念ながら長続きもしない。
何かに疑問や不信感を持った途端、
いつだって元の木阿弥に戻ってしまう。
彼らは何に納得できないものを感じているのか・・・・
時に、途中でラップに踊りを変えながらも、生徒たちは段々とピエールの言うステップの基本を身に着け始め、この辺りから映画は段々とピエールが情熱的になっていくと同時に、生徒たちの取り組む姿勢も真剣な様相を帯びていくのですが、対立もまた生まれる。それは、それだけ熱心になってきたからこそなのですが、いつものようにレッスンしようとしたピエールに、
生徒たちはなぜラップのステップで踊ってはいけないのか。
そして思いがけない感想を口にします。
ラップのリズムとソーシャルダンスのステップって、
基本のリズムは同じなんだという彼らの何気ない台詞・・・・・
ここでピエールは、教えるということは学ぶということでもあるということに気づくのですね。
こうして生徒たちの自在な感性を尊重しながら、
ピエールは、ソーシャルダンスの基本を踏まえながら、
音楽に載せて新たなダンスに挑戦していきます。
が、生徒と向き合うとき、人間としてきっちり対応しなければいけない局面では、真剣そのものです。バンデラスの眼力がものをいうときで、そこはさすがにバンデラスの魅力でした。
さて、このアントニオ・バンデラス演じるピエールと生徒たちの関係は、この後どう展開されていくのか。
後編で見ていきたいと思います。
★本作の感想は、映画の内容に重点を置きたいと思いましたので、あえてキャストの名前はバンデラス以外不問にし、役名も不問にしました。