TVタレントのキャラには、いわゆる「おかま」系キャラがいるが、
近年「真性」であるというより、演技としてキャラ立ちの方法として、
流行してるようだ。
というのも「性」が、社会的従属性のもので、「役割」にすぎない
ということが、一般的に浸透しているからだろう。
自然としての「性」において、「♂♀」でしかないものが、
社会において、「格付け」され、いわゆる階級闘争ピラミッドに
組み込まれるという理不尽さを、「おかまキャラ」は「笑い」に転化させ、
「性の制度化」を空洞化させようとする。
しかし、その試みは一瞬の出来事に過ぎず、やはり厳として性は「制度」化を
強めているようだ。
「役割」概念で通用していた時代では、「市民」モデルの理性的役割分担を
「する」(担う)ことで、性はジェンダーでありえたが、他民族的国家性、
価値の多様化というより雑居性により、性は「男と女」を飛び越え、
それ以前の性を「囲い込む」という「幼児化」という「病」を発症し、
性商品としての陳列カタログの豊富さを消費するようになった。
そこでは、「役割」という個人的努力では、担いきれない「性」の消費行動が
あらわれる。
それは「社会制度」の特に出世争いのような「階級競争」、
ポジション、地位の争いに「性」が組み込まれているということなのである。
近代において、この「制度」を空洞化させていた仕組みが、
いくつか機能していたが、ここ十年程度で、それは機能を停止し、
性は支配される商品のシンボルとして位置づいている。
女性の社会進出という美名に眩まされ、その実態が低賃金労働として
「囲い込まれ」ているにすぎなく、女性の地位下落に即応するように
幼児は「性商品」として「囲い込まれる」のである。
性の制度は近代より、体系化を強めてはいたが、弱者には「特権」を
与えることで、「弱肉強食」という「滅び」の哲学から、社会そのものを
守ってきた。
その女性の「特権」が労働者として平等な競争化にさらされたとき、
当然「剥奪」され、出世争いに勝ち残れる「女性」は圧倒的に少なくなる。
(近代において女性の特権とは、資本家に逃走=闘争を仕掛ける
遊び空間であったとおもわれる。)
最近の「おかまキャラ」が面白いのは、この「囲い込まれる」労働制度に
逃走を仕掛けるからである。
しかし、その実態は労働システムの再生産プログラムにそっているため、
一過性のキャラクターであって、また次の新キャラが求められるのである。
要は貧富の格差による弊害や、資本家と労働者という対立が、
支配被支配に構造化(グレードアップ)されず、資本家と労働者との対等性を
保障する「制度」が機能していればよいわけである。
その一躍を「性のキャラ」(オカマ系キャラ)が硬度化した制度を
ゆるやかな制度へと転進させるきっかけとなるのかもしれない・・・かなw