世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

2013-01-19 07:15:37 | 月の世の物語・後の歌

スティーヴン・ディラック博士は、書斎の窓のカーテンをあげ、外の空を見ました。灰色の雲が重くどんよりと立ち込めて、遠くに見える高層ビルのてっぺんが雲に触りそうなほどです。
「雨がきそうだな」博士はつぶやくように言うと、カーテンを閉め、明るい書斎を見回すと、戸棚に飾ってある小さな金色の光るメダルに目をとめました。それは、博士がこの世にて行ったすぐれた業績を評価するために与えられた、まぶしい勲章でした。見ようによれば、キリストの頭部を飾る薔薇の形をした光輪のようにも見えるその勲章を、博士は、しばし誇らしげに見つめました。

スティーヴン・ディラック博士は今年で八十四歳。豊かに実りを得た人生を今、ゆっくりと振り返ろうとしていました。
彼は若き頃から医学の道を志し、思い心臓病患者を救うために、新たな治療法や手術の方法の研究に一生を捧げました。彼の考えた新たな治療法によって、多くの心臓病患者が救われました。彼は、この道の権威として崇められ、新たな伝説として、医学の歴史に輝かしい名を遺したのです。

スティーヴン・ディラック、心臓病の救世主。

「よい人生だったな。ほんとうに、よいことができた。たくさんの人が喜んでくれた。わたしは、満足だ。素晴らしい人生だった」
ディラック博士は、ゆっくりとため息をつきながら、言いました。

そのときでした。外の方で、どろどろと雷鳴が響き、書斎の窓をびりびりとゆらしました。

ドン!と空が割れるような音がしました。

雷が、すぐ近くに落ちたようでした。その音は、ディラック博士の心臓をも揺らしました。博士は全身から力が抜け、床に吸い込まれるように、自分の体が力なく倒れていくのを感じました。博士は床に倒れ、またその床を通り過ぎても倒れ、いつしか、青い奈落の中を、まっさかさまに落ちていたのです。

なんなのだ! これは!

博士は声をあげました。周りを見回しても、青い色一色しか見えません。下を見ても底のようなものは見えず、博士はどんどん落ちていきます。何がどうなっているのかわからぬまま、誰かが博士の耳元で叫びました、「この愚か者め!」

ふたたび、どこからか、雷鳴が響きました。それとほぼ同時に、体全体が何かにどんとぶつかって、博士は苦痛にうめきました。するとすぐ近くから聞き覚えのある声が聞こえました。

「おっと。よし、計算通りだ」

博士は、しばしの間くるくると目を回していました。すると聞き覚えのある声が言いました。

「だいじょうぶですか。あまりこんな乱暴な魔法は使いたくないんですが、今、竪琴がつかえないもので」

めまいがおさまってくると、博士はそるおそる顔をあげて、声のする方を見ました。ああ、と、博士はほっとした息をつきました。
「あなた、でしたか。どうなるかと思った」
気がつくと博士は、人一人をすくい上げられそうな、大きな虫取り網の中に、すっぽりとはまりこんでいたのです。虫取り網の太い柄の端は、竪琴弾きの手に握られていて、その竪琴弾きは、竪琴に乗って、青い中空をふわふわと浮かんでいるのでした。

「あ、あなたが、わたしを助けて下さったんですね」ディラック博士がいう言葉を、聞いているのかいないのか、竪琴弾きは少し困ったような顔をして細いため息を吐き、言いました。
「今回はいろいろと頭をしぼりましたよ。罪びとにもいろんな人がいるもので、そのたびにいろいろと工夫をするのですが。ほんとはこんなことに竪琴を使いたくないんです。魔法が細やかに使えなくなりますから」

博士は、網の中から顔をあげて、青一色の周りを見回しながら、言いました。
「わたしは、死んだのですね」
「ええ、そうです。十五分ほど前かな。突然の心臓発作で。遺体はもうすぐ家族の人が見つけるはずです」
「ここはどこです? 月の世ですか? でもそれはおかしい。わたしは人々のために尽くす、よい人生を送ってきました」
「まったくもう、お忘れですか」

そういうと竪琴弾きは呪文を唱え、手元に書類を呼び出すと、右手をくるりと回して、博士を指さしました。とたんに、博士の、立派な白い髭をした風格のある聖者のような姿は消え、そこに、無精ひげと髪をだらしなく伸ばした、骨と皮ばかりの貧相な男の姿が現れました。男は背が低く、顔も奇妙に歪んでおり、衣服も、元の立派なスーツから、あちこちが破れて汚れたくたくたのみすぼらしい衣服に変わっていました。

「思い出しましたか? それがあなたの本当の姿です」
「わ、わたし…は…」
「いいですか? 最初の予定では、あなたは普通のサラリーマンとして生きるはずでした。ある小さな会社の経理係として。そして、人生の後半の二十年を、妻の介護にあてて、罪の浄化をするはずでした。あなたは前の前の人生で、妻を見捨てて殺していましたから」
「そ、そんな…、あ、あれはみな、夢だったと、言うのですか? わたしは、心臓手術に関して、画期的な方法をあみだした。すばらしい勲章をもらった。欲も少なく、人々に尊敬され、すばらしい人だと称賛を浴びた。わたしは、すばらしい人間だったのです。あれが、すべて、夢だったと…」
「ドクター・スティーヴン・ディラック」
竪琴弾きが、深いため息とともに言いました。

「あなたは生まれる前、怪と契約しましたね。本当に、あれほど言ったのに。あなたは、妻に尽くす人生など嫌だった。もっと輝かしい栄光の人生が欲しいと言った。全く、怪はよい仕事をしてくれました。あなたのために。いいですか。あなたがあみだした画期的な方法。それはあなたのものではありません。怪が、他人の頭から盗んできて、あなたに与えたのです。そして、あなたの方が、先に世間に発表してしまったため、あなたのものになってしまったのです。本当は、本当にそれをあみだした人が、あなたの人生を歩くはずでした。その人が、数々の人を助け、勲章をもらえるはずでした。しかし、あなたに盗まれてしまったため、その人は、医学研究の道をあきらめ、他の道に進みました。あなたは、こうして、他人から栄光の人生を盗んだのです」

博士は、呆然と聞いていました。今、まさに、まざまざと思い出したからです。自分の本当の姿は、これだと。あの、恰幅のよい、聖者を思わせる白髭の紳士は、すべて、怪が作り出してくれた、偽物の自分だと。

「…ああ、たしかに、あれは夢だった。ほしいものすべてを手に入れた。だが、すべて、うそ、だった…、ほんとうの、わたしは…」
竪琴弾きは、悲しげに笑いつつも、厳しく言いました。
「これからも、あなたの名は医学の歴史に輝かしく残ります。あなたの業績によって、助かる命も増える。あなたはすばらしいことをした。けれども、残念ながら、それはあなたの功として、計算されません。その一部は、もともとそれをあみだした人の元に流れてゆき、大部分は、神が預かります。そしてあなたには、重く、他人の人生を盗んだという罪が残る」

「浄化をせねば、ならないのですね。何をするのですか」
博士は、網の枠をつかみながら、ぼんやりと言いました。すると竪琴弾きは、言いました。
「こんなやり方は、好きではないのですが。許してください。竪琴が弾けないので、少し乱暴になります」

とたんに、虫取り網が、がくんと揺れたかと思うと、博士はまた青い中空に放り出され、まっさかさまに落ちていきました。悲鳴を叫びながら、何十分と落ちていったかと思うと、博士はいつの間にか、大きな舞台の上にいました。見ると、目の前に大きなグランドピアノがあります。博士はもとの立派な白髭の紳士の姿に戻り、ピアノの前に座っていました。黒い素敵なスーツを着て、胸には輝く薔薇の勲章がありました。観客席を見ると、そこには何千という観客がいて、あこがれと期待に満ちたまなざしで博士を見ています。

ピアノを弾くのか?と博士が思っていると、耳元に竪琴弾きの声が聞こえてきました。
「鍵盤をよく見てください。数字が書いてあるでしょう」
博士は、ピアノの鍵盤を見てみました。すると竪琴弾きの言うとおり、白い鍵盤に、0から9までの数字が書いてありました。黒鍵には、星や月や太陽や花などの形をした、妙な記号が書かれていました。
「それは一種の計算機です。使い方は、ピアノ自体が教えてくれるので、すぐにわかります。では次に、目の前の楽譜を見てください」
博士は楽譜を見ました。するとそこには、二行の数字の列がありました。
「その数字は、上が円周の長さ、下が直径の長さです。あなたはこの舞台で、観客の視線を浴びながら、円周率の計算をせねばなりません。観客は奇跡を望んでいます。あなたが、円周率を割り切るという、奇跡をなすことを、望んでいます」
「馬鹿な! 円周率など、割り切れるわけがない!!」
「それはどうか。とにかくやらねばなりません。あなたはとても有能な人。頭のよい人。すばらしい医学博士。できぬはずはないと、観客は思っています。さあ、始めてください」

博士は、震えながら、1の数字を押しました。ポンと、ピアノが鳴りました。とたんに、観客席から感動の声があがりました。
「ブラヴォ!」
博士は、その声に支配されているかのように、ピアノを弾き、計算を始めました。

π=3.14159265…

「ブラーヴォ! ブラーヴォ!」

358979…

「ブラヴォ! ビューティフル!」

32384626433…

「素晴らしい!奇跡の人だ!救世主とは彼のことだ!」

観客の声に、博士は叫びました。「やめてくれ!やめてくれ!こんなことできるわけがない!! 永遠に、永遠に、割り切れるわけがない!!」

「そうです。永遠に計算し続けなければなりません。あなたにはそれができると、みな信じているのですから」竪琴弾きのささやきが、耳にはいのぼってきました。博士は呆然としながらも、ピアノをひきつつ、計算をし続けました。ピアノの奏でる音楽はまるでめちゃくちゃで、聞いているとまるで脳みそをかき回されるようなめまいを感じました。それでも彼は計算し続けねばなりません。指が、まるで自分のものではないかのように動き、ピアノの鍵盤を次々とたたいてゆくのです。

832795028841971693……

「…だめです! むりだ!! こんなこと、できるわけがない!! やめてくれえ!!」

博士は、もうたまらず、ピアノの鍵盤を、ばんと叩きました。するといっぺんに幕が降りて、博士はいつの間にか真っ暗な闇の中に立っていました。何も見えませんでしたが、博士は自分が、元の貧相な自分の本当の姿に戻っているのを、感じました。

「やれやれ、もう音をあげましたか」竪琴弾きの声がどこからか聞こえてきました。

「いいですか? あなたはすばらしい人なんです。地球世界では、あなたの名前は、ずいぶんと長く残ります。あなたは人格の高い人として尊敬され続ける。多くの学生があなたにあこがれ、あなたに続こうと、医学の道を目指します。だが」
「…そうです。みんな、うそです。わたしは、いやおれは、立派な人格者なんかじゃない。すべては、芝居なんです。嘘の芝居なんです。みんな、怪にやってもらったんです…。ほんとうのおれは、ほんとうのおれは、とんでもない、馬鹿なんだ…」
「それを認めますか?」
「…はい」

博士だった男は、うつむきながら、ぼそりとつぶやくように、答えました。すると、前方から、かすかな光が見えてきました。

「なんですか?」と、博士だった貧相な男が尋ねると、竪琴弾きの声が闇の奥から答えました。「とにかく、その光に向かって、進んでください。ほんとに、こんなやり方は、好きではないんですが」

博士だった男は、竪琴弾きの声に導かれ、ゆっくりと、その光に向かって進みました。近づいてみると、それは、暗闇にきりこまれた小さな扉でした。扉は、病院などによくある白い扉に似ていました。その扉には、縦に長い長方形のすりガラスの窓があって、光はその窓から漏れていたのです。

「その扉を開けてください」竪琴弾きの声が聞こえました。博士だった男は、おそるおそる取っ手に手をかけ、扉を開けました。とたんに、たまらぬ悪臭が流れてきて、男は歪んだ顔を一層歪めました。光に目が慣れてくると、扉の向こうには、信じられぬ景色が広がっていました。

そこは、十九世紀くらいの古い町のように見えました。白い漆喰の壁の家が、なだらかな斜面の上にたくさん並んでいます。ずいぶんと大きな町のようでしたが、人影は見えず、ただ、家の壁も道もそこらじゅうが糞尿で汚れており、蠅が群がりたかっていました。腐った牛肉の塊も、あちこちに落ちていて、それには白いウジが無数にわいていました。

男が鼻をつまみながら呆然としていると、また竪琴弾きの声が聞こえました。

「あなたは、これから、この町を、ひとりで掃除しなくてはなりません。なぜならあなたが地球上でやったことは、こういうことに等しいからです。あなたは、腐った一つの町を、きれいに清めたのです。ですから、できぬはずはありません」
「そんな、そんなことを、やらなくちゃ、いけないんですか?」
「もちろん、そうです。もうあなたは、それだけの称賛を受けてしまったのですから。勲章もね。言っておかねばならないことは、この町ではもう、あなたの正体はばれています。一歩だけ、町に入ってみなさい」

男は言うとおり、町に一歩足を踏み入れてみました。とたんに、鞭のような風が彼の頬を打ち、つぶてのような声が彼の耳を刺しました。
「この恥知らず! よくもあんな嘘がつけたものだ!」
「なんてことでしょう。あの人、あんな人だったの?」
「だまされた。すごいやつだと思っていたのに!」
「馬鹿な奴。とんでもないものを盗んだ!」
「盗っ人め! けち臭い盗っ人め!」

男は周りを見回して声の主を探しました。しかし人影はありませんでした。ただ、風だけが何度も彼の体を打ち、見えない人間たちの罵りをぶつけるのです。

「盗っ人め! 馬鹿が盗んだ! おそれおおいものを、馬鹿が盗んだ!」

男は震え上がりました。凍りついたように、そこから一歩も動けなくなりました。竪琴弾きの声が、冷たく言いました。

「このように、あなたには、二通りの選択が与えられています。永遠のπの計算、そして、糞尿の町の清掃。つまりは永遠の栄光と、永遠に似てはいるがいずれは終わりの来る、恥辱の労働。どちらに、行きますか?」

男は、糞尿にまみれた町を呆然と見ながら、黙りこみました。上を見あげるとそこにはフレスコ画のような明るい青が広がっていましたが、月は見えません。ただ遠い空の果てから、雷鳴が聞こえ、かすかに雲が光りました。竪琴弾きが、もう一度、言いました。

「どちらに、進みますか?」




   (月の世の物語・後の歌)




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