水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

アラビア石油、ペルシャ湾で海底油田試掘に成功。

1960年01月31日 | 1960年
アラビア太郎
秋田県平鹿郡大森町出身の山下太郎(1989~1967年)は札幌農学校(北大)卒業後、オブラートの製造特許で元手を得、穀物やサケ取引に手を広げた。さらに満鉄の社員住宅の建設によって莫大な利益をあげて、満鉄太郎といわれた。
満鉄(南満州鉄道株式会社)は鉄道を経営して石炭・大豆などの独占輸送で利益をあげる一方、撫順炭鉱・鞍安製鉄所なども経営するコンツェルンとして、日本の財閥・官僚・政商の大きな利権になっていた。日中の中国侵略は満鉄の権益拡大が一つの目的であった。
満鉄は戦後、日本の保守政界の最大の金脈・人脈になった。山下太郎はそれを利用し、インドネシアの石油開発のための日本石油株式会社を設立した(1956年)。
スエズ戦争後、中東では民族主義運動が盛んになった。サウジアラビア王族は、米メジャー系のアラムコが安く独占していた石油開発の利権を、日本の政商山下太郎に高く売る意図で、石油利権情報を流した。山下太郎は、国内の原油需要の増大を見通し、インドネシアの石油開発を放棄し、サウジ王族の誘いに乗った。アラビア太郎といわれた。



アラビア石油
1957年、山下太郎はペルシャ湾とその周辺の油田開発のため、サウジ王族と直接交渉して、ペルシャ湾の中立地帯における開発利権を得た。それまではメジャーと産油国の利益は50%ずつの折半であったが、山下太郎は取り分を44%に引き下げた。また、石油採掘利権の期限を44年間とし、毎日300万円をサウジアラビアとクウェートに支払うことにした。サウジ側には破格の好条件であった。
しかし、アラビア石油には大きな負担であった。山下太郎は、油田開発の費用負担と輸入原油の需要先確保のため、鉄鋼・電力の各社の出資金合計35億円でアラビア石油株式会社を設立した(1958年)。満鉄時代の人脈をフルに利用して、アラビア石油の役員には経団連会長の石坂泰三をはじめ財界首脳をかつぎだした。社長は山下太郎であった。
1960年1月31日、ペルシャ湾の海底油田第1号の試掘に成功し、カフジ油田と名づけられた。さらに海底油田の開発が進められた。1970年には日本の輸入総量の10%を、アラビア石油が占めるまでになった。


アラビア石油の採掘権失効
2000年2月28日、アラビア石油がサウジアラビアから得ていた石油採掘権益は、契約期限切れで失効した。延長の条件として、サウジアラビアは国内に全長1400kmの鉱山鉄道の建設を持ち出した。
アラビア石油は、鉄道建設資金2000億円とその後の運営資金を負担できないため、サウジの条件を拒否して、採掘権が失効させたのであった。山下太郎が契約時点で、サウジ王族の言いなりの条件で、採掘権を獲得したことが問題の発端であった。2000年の契約拒否にはアラビア石油に対し、メジャーから強い圧力があった。

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参議院緑風会解散、参議院同志会として再出発。

1960年01月30日 | 1960年
緑風会(りょくふうかい)
日本国憲法は第2次世界大戦後、1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行された。1947年4月20日の第1回参議院議院選挙では、当選した250名の中で、108名が特定政党に属さない無所属議員であった。
無所属議員が政治的意思を表明するための組織として、緑風会を結成した。旧貴族院勅撰議員の山本有三(作家、本名山本勇造)・田中耕太郎(法学者)・佐藤尚武(外交官)が中心になって無所属議員96名を集めた。当時、緑風会が参議院の最大政党であった。
緑風会では議員個人の自由な意思が尊重されて、多数を占めるために党利党略で動くことはなかった。会派の決定に投票行動を拘束されることもなかった。ゆるやかなクラブのような参院会派であった。山本有三の人道的理想主義的な態度を反映していた。
参議院議長の初代は松平恒雄、2代目は佐藤尚武、3代目は河合弥八、いずれも緑風会出身であった。緑風会の政治姿勢は常に是々非々であって、良識の府といわれた。文化財保護法は緑風会の議員提出法案であった。



緑風会から参議院同志会へ
緑風会には党派的特徴がない結果として、常に衆議院・参議院の与党を補完する役割を果たした。通常選挙(参院選挙)や議会多数派工作では、思想信条の似通った与党の草刈り場になり、緑風会の独自性は次第に消えた。緑風会から、他会派への所属替え議員が増えた。1956年の通常選挙では自民党が参議院第一党になった。衆議院は憲法上も参議院に優越し、しかもその参議院の少数会派緑風会は、政治的影響力が弱くなった。
1960年1月30日、緑風会は参議院同志会に改称した。無所属議員が減り続け、1965年にその参議院同志会が解散した時には、奥むめおと佐藤尚武の引退間際の2人だけであった。
その後の参議院は第2院として衆議院のチェックをする機能を失い、衆議院と同様、各議員は政党の決定に従って行動することが多くなった。良識の府といわれた参議院は党利党略で動くため、衆議院のカーボンコピーと批判されて、その存在意義を問われるようになった。


山本有三(1887~1974)
本名は山本有造、栃木県出身。苦学して東大独文科に入学した後、同級生の芥川龍之介らと文学活動を展開し、戦前は劇作家・小説家として活躍しながら、検閲に強く反対した。代表作としては『生命の冠』・『女の一生』・『真実一路』などがある。文芸家協会設立に政治的手腕を発揮した。
戦後は貴族院の勅選議員になり、続いて参議院議員として緑風会設立に尽力した。緑風会では、国政を政党として動かすのではなく、政治家個人の良識で動かそうとした。緑風会が参議院第一党である間は、参議院は衆議院のチェック機能を果たした。山本有三の影響が大きかった。1965年、文化勲章を受章した。


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日本の遠洋漁業に国際的規制が強化される。

1960年01月29日 | 1960年
遠洋押し出し
サンフランシスコ講和条約(1951年)による日本の主権回復、水産物の需要増加、漁獲技術の進歩により、日本の水産業は沿岸漁業から沖合へ、沖合漁業から遠洋漁業へと、積極的に遠くに出漁するようになった(遠洋押し出し政策)。
特に他の漁場から北洋底引漁業に転換する北転船が多かった。1960年、北洋母船式底引網船団は13船団が出漁し、カレイ・ニシン・オヒョウ(ヒラメ)など50万トンの水揚げがあった。
マグロ漁船(200~400トン)はインド洋・大西洋にまで出漁した。2千トン以上の大型トロール漁船は、アフリカ沿岸やニュージーランド沿岸で、タイやその他の底魚を漁獲した。
中国・韓国・ソ連・アメリカ・カナダなど沿岸各国は日本漁船の進出を規制するため、日本にとっては著しく不利な漁業条約を結んだ。日本国内には自国漁船を守るだけの軍事的実力がないために国辱的な漁業条約を押しつけられた。国内では再軍備を求める、右翼が支持を広げた。



北太平洋漁業条約(1953年)
日本・アメリカ・カナダの3国の漁業条約。西経175度以東の海域においてはサケ・マス・オヒョウ・ニシンの漁獲が禁止された。出漁国は日本だけなので、実質的には、西経175度以東における遠洋漁業の禁止であった。1962年の改定でもサケ・マスの漁獲は禁止されたが、他の魚種は資源に余裕のある範囲で規制が緩和された。


日ソ漁業条約(1956年)
東経175度以西のベーリング海とオホーツク海において、サケ・マス・カニの漁獲量を制限した漁業条約である。
日ソ漁業委員会において、日ソ両国に対し、資源維持のための適切な漁獲量を割り当てたが、日ソ漁業委員会は毎年紛糾して、割当量を定めることが難しかった。
例年、両国外務大臣の直接交渉によって政治的決着が図られた。ソ連は自国河川や領海内で産卵したサケ・マス・カニはソ連のもの(母川国主義)とする立場で、日本の漁獲可能な資源見積もり量を減らした。
日本の北洋遠洋漁業には漁獲割当量の削減が続いて採算がとれなかった。サケ・マス漁船は、北洋タラ漁や南洋マグロ漁への転換が相次いだ。


李承晩ライン
韓国の李承晩大統領は、1952年1月18日、日本漁船の操業規制海域を設定を宣言した。韓国沿岸からほぼ 200kmの海域では、日本漁船がアジ・フグの漁獲が禁止された。
日本漁船326隻が李承晩韓ラインを越えて、韓国の武装警備艇に拿捕された。日本国内には、李承晩韓ラインに日本の自衛隊と海上保安庁が出動し、日本漁船を守るべきであるとの主張もあったが、憲法の制約で外国軍との軍事衝突を起こす活動はできなかった。日韓国交正常化交渉の結果として、1965年に李承晩韓ラインは撤廃された。

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東京から新首都への遷都が、検討された。

1960年01月28日 | 1960年
遷都論
1960年前後は農村の人口過剰と首都圏の工業発展により、東京への人口集中が著しかった。東京から首都機能を移転して東京の人口過密を防ぐ計画はあった。地方農村に首都移転という巨大プロジェクトがスタートすれば、ゼネコン(土木事業会社)に大きな利益が転がり込み。その公共事業そのものが真の目的であった。
いくつもの首都移転計画は提案されたものの、どの計画も我田引水であった。土地の買い上げ経費や、他の候補地との調整の問題が解決できず、すぐに消えてしまった。

1959年-東京湾新東京造成論(加納久朗住宅公団総裁)/東京湾の一部を埋め立て、そこに官公庁や皇居などを移転する。  
1959年-ネオン東京プラン(産業計画会議)/東京湾の埋め立て地には皇居は移転せず、工場・住宅・官公庁を移転する。
1959年-横浜遷都論(都留重人一橋大教授)/農地・台地の広がっていた横浜(当時)に、首都を移転する。
1960年-中央道遷都論(日本生産性本部郷司浩平)/富士山麓までの中央道e沿線に国会・官公庁を移転する。
1960年-「富士の都」建設案(磯村英一東京都立大教授)/富士山麓に国会を移転する。
1960年-東京計画1960(丹下健三東大助教授)/東京湾に巨大な人工島を建設し、首都を移転する。
1960年-三河・浜名湖遷都論(伊藤郷平愛知学芸大教授)/首都を愛知三河・静岡浜名湖に移転する。



東京の改造
イギリスのニュータウン計画をモデルにした首都圏整備法がつくられ(1956年)、関東全域の広域的な都市計画によって、都市問題の解決が図られた。
東京駅を中心に、15km以内を都心地域、その外縁に幅10kmのグリーンベルト、25km以遠を周辺地域とした。
多摩ニュータウンや筑波研究学園都市は、周辺地域(25km以遠)に計画された都市である。しかし、グリーンベルトは乱開発が進んだため、第2次首都圏整備計画(1968年)では消滅した。


東京オリンピック
広域的な都市計画や東京の人口過密対策は、1964年の東京オリンピック開催準備のために後回しにされた。政府と東京都の公共事業は首都圏の整備ではなく、東京都心に限定された道路整備・首都高速道路建設、地下鉄・新幹線・モノレール建設などが進められた。
公共土木事業は、ゼネコンに大きな利益を与えた。東京オリンピックを錦の御旗にすることで、土地の買収や住宅の移転は簡単にできた。
それまで東京の交通網は動脈硬化といわれるほどの破綻ぶりであったが、オリンピックを口実にした都市再開発事業で、東京都心は近代的都市に生まれ変わった。
石原東京都知事は、東京の大改造のため、ロンドンの次、2016年のオリンピック誘致に、真剣に取り組んでいる。


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ソ連、米軍駐留すれば、歯舞・色丹を返還せず。

1960年01月27日 | 1960年
日ソ友好条約の意味
日本とソ連(ロシア)の北方領土問題の歴史的経過は、次のとおりである。
(1875)樺太・千島交換条約/日本は千島列島、ロシアは南樺太を領有。
(1904)日露戦争/朝鮮半島支配について、日英米と露仏独の対立。
(1905)ポーツマス条約/日露戦争に勝った日本は南樺太を日本領とした。
(1945)ヤルタ会談/ソ連は、参戦すれば南樺太・千島取得の秘密協定。
(1945)ポツダム宣言/日本領は、連合国指定の諸小島に限定された。 
(1951)サンフランシスコ講和条約/日本は千島・樺太放棄。北方領土は領有主張。
(1956)日ソ共同宣言/日ソ平和条約締結後、ソ連は歯舞・色丹返還を約束。
(1960)日米安全保障条約改定/日米の反共軍事同盟が強化された。

ソ連は、日本が日米安全保障条約を改定したことから、日ソ平和条約締結はあり得ないとみなした。ソ連のグロムイコ外務大臣は、在日米軍の撤退と日ソ平和条約の締結が、歯舞・色丹を返還する条件であることを、あえて表明した。
米ソ冷戦の中、日本がソ連との友好を選択すれば日ソ平和条約の締結が可能だが、米との友好を選択して日米安保条約を改定したのであり、日米政府にとってソ連の反発は予想の範囲内であった。
ソ連が日米安保条約改定を非難したことで、日本国内では安保改定阻止運動と共産主義運動との線引きが難しくなった。ソ連の思惑とは逆に、日本は日ソ友好条約締結のために共産主義国家になるよりも、資本主義国家として日米安全保障条約を締結する方が賢明な選択ある、との世論が強まった。


北方領土
ソ連は1951年のサンフランシスコ講和会議において、過去の日本の侵略主義を非難し、南樺太・千島列島・歯舞・色丹の領土回復を強く主張した。
吉田茂全権代表は講和条約受諾演説において、南樺太と千島列島は放棄するが、択捉・国後・歯舞・色丹の南千島(北方領土)は日本固有の領土であると主張し、ソ連の主張に反駁した。
ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印せず、南樺太と千島列島の帰属先が宙に浮いた。ソ連(現ロシア)は南樺太と千島列島を領土としているが、国際法上は認められてはいない。
1956年の日ソ共同宣言において、ソ連は、択捉・国後・歯舞・色丹の北方4島のうち、歯舞・色丹を、日ソ平和条約と引き換えに返還すると約束した。ソ連にとって歯舞・色丹と交換に日ソ平和条約が締結できれば、外交上はプラスであった。
しかし、1960年にグロムイコ外相が、日米安保がある限りは歯舞・色丹の返還はできないと表明した。以後、北方領土返還運動は日本国内では反共運動と結びついた。ロシア(旧ソ連)は歯舞・色丹の返還について、具体的返還交渉には応じていない。

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日本は先進工業国の仲間入り。

1960年01月26日 | 1960年
技術革新
1956年の経済白書は、日本の経済復興が終わったことを認めて「もはや戦後ではない」と指摘した。これから後は技術革新による急速な工業化が進んだ。1960年(池田内閣成立)から1973年(第1次石油危機)までが、高度経済成長期とされる。
日本の技術革新の特性として、
①日本にとっては技術革新だが、国際的には陳腐な技術である。
鉄鋼・自動車・火力発電などでは、海外の生産技術が先行していたが、日本の各企業は技術をそっくり真似た。海外の技術を真似ることが、日本の技術革新であった。
アメリカの大量生産技術と日本人の低賃金労働力を組合せて、鉄鋼・自動車を低価格で大量生産した。低価格品の製品を輸出し、世界市場を拡大した。
②世界で開発中の新しい技術は、国際提携の形で導入した。
日本企業は、石油化学・電子工学・原子力・医薬品などの最先端技術に追いつくことは困難であった。国際的な特許権が確立されていて、真似ることは不可能であった。そのため、外国企業と技術提携したのが石油化学・医薬品であった。電子工学は技術提携を進める一方で、周辺技術の開発をめざした。原子力や宇宙宇宙産業は、海外企業と提携しつつも国産技術のレベルアップを進めた。


日本政府の保護
資本主義は自由な経済活動が原則だが、日本企業は世界の技術水準に到達するまで、政府の手厚い保護と規制を受けた。日本政府は、1960年前後には外国為替管理法の運用を厳しくした。
日本企業が国際競争力をつけるまで、外国製品の輸入を規制した。日本企業の輸出代金回収のために、輸出代金を受け取るまで代金を一時立替える政府系輸出入銀行が設立された。 
大企業は都市銀行を中心とする財閥を形成した。戦後の一時期は解体された財閥が復活した。中小企業は大企業の系列下にあり、厳しい競争を避けることができた。日本はどの企業も経済競争をしなかった。
日本政府の計画にもとづいた技術開発と生産をしているだけで、十分な利益が保障された。国際的には、日本の企業活動が日本株式会社と批判された。


外部経済(外部不経済)
公害(環境汚染)は市場を通して発生した経済ではない。それで外部経済の典型とされる。
本来は企業が環境維持のために、経済的負担をしなければならないのだが、公害を放置すれば、その分、企業の利益は大きくなる。
企業が生産工程において生じる大気汚染・水質汚染を放置すると、企業の支出が減り、製品の利幅が大きくなって、国際競争力は強まった。
1960年前後、企業の負担すべき汚染対策費用を、被害住民が医療費の形で負担したり、自治体が環境浄化費として負担したりした。企業城下町では、住民が従業員とつながりが強くて何も言えず、公害病に苦しんだ。当然、企業業績は優秀であった。
水俣病、四日市喘息などは、高度経済成長期に被害が拡大しながら、公害が放置されて、被害者が拡大した例である。
このような、市場取引なしの経済活動が外部経済だが。マイナスの影響を考慮して、外部経済を特に外部不経済という場合がある。 

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三井三池炭鉱ロックアウト、労組は無期限ストで対抗。

1960年01月25日 | 1960年
ロックアウト
三井鉱山株式会社は三池炭鉱の赤字を人員削減で解消するため、1959年4月に希望退職者を募集したが、予定人数に達しなかった。会社側は1959年12月、三池炭鉱1万4千人の組合員のうち、労組活動家300人を含む1278名の指名解雇を通告した。
労働組合は1960年1月5日に解雇通告を一括返上し、労働組合による職場管理をめざす職場闘争を始めた。労働組合は、九州大学教授向坂逸郎の理論的指導を受けて労働者としての意識が高く、会社側の職場秩序回復の呼びかけに応じなかった。
三井鉱山側は事業所(炭鉱)を閉鎖し、労働組合員の立ち入りを禁止した。賃金の支払いも停止した。これがロックアウトであり、使用者側の正当な争議行為である。
三井鉱山は保守党とつながる三井財閥の中枢企業であり、三池炭鉱の争議が反安保運動と結びついて反政府運動に発展するのを力でおさえる責任があった。また、三井には、政府財界それに右翼勢力の全面的支援があった。         

無期限ストライキ
労働組合には、使用者としての三井鉱山が高い利潤を得ているから赤字経営に見えるのであり、経営を組合管理つまり人民管理に移行して利潤をなくせば首切りは不要、という考えが強かった。労働者はいつも安い賃金で働かされるので、全国の労働者のためにも、資本家とは常に戦い続ける必要があった。
三池炭鉱労働組合は全国の労働者と左翼陣営の支援を受けて、政府財界と右翼陣営の支援を受けた三井と戦わなくてはならなかった。
三井と労働組合の対立は「総資本と総労働の対決」といわれる大争議に発展した。この勝敗が日本の進路を左右いずれかに決定するほど重要であることを、労働組合執行部は十分に認識していた。
三池炭鉱労働組合が争議を継続するのには、しなければならないことが多過ぎた。三井が賃金を支払わないため、組合員と家族の生活費を工面しなくてはならなかった。全国からのカンパは、1960年12月の争議終了までに19億円に達したが、一人当たりでは10万円で、1年間の生活費としては余りに少なかった。無期限ストライキは、生活苦との戦いでもあった。
炭鉱労働組合の全国組織である日本炭鉱労働組合(炭労)が、三池争議の支援ストライキを指示しても、どの炭鉱労働組合も応じなかった。総労働といわれながらも三池炭鉱労働組合は孤立した。その一方、総資本は政府の呼びかけに応じて三井を支援した。組合の敵は政府であった。
労働組合員の中には、就労すれば賃金を支払うという三井側の誘いに乗り、争議から脱落する者が増えた。三井による組合潰しと第2組合の結成(1960年3月17日)であった。労働組合は、身内や隣人との戦いを続けるとともに、仕事に戻りたい自分との戦いでもあった。政治闘争・経済闘争を越えた困難な戦いであった。

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民主社会党結党、委員長に西尾末広氏。

1960年01月24日 | 1960年
日本社会党の分裂
1959年6月2日の参議院議院選挙で、社会党は野党左派統一戦線としての安保阻止国民会議を結成したが、自民党に負けてしまった。社会党右派で党顧問の西尾末広は、参院選前から安保段階的解消論としての安保条件付き賛成を主張し、安保改定阻止の社会党執行部(鈴木茂三郎委員長)と厳しく対立していた。
1959年9月の社会党再建大会では、高姿勢な西尾に批判が集中した。西尾の安保段階的解消論のため、社会党が参院選に負けたことになった。西尾は、社会党の選挙敗北の責任を押しつけられ、社会党を除名された。
社会党にとっては西尾を追放したことになるが、西尾にとっては社会党からの離党であった。西尾とともに33名が社会党を離党した。

民主社会党
1960年1月24日、西尾末広は新党の民主社会党を旗揚げした。結党宣言では革命を否定して、議会制民主主義を通して社会主義を実現することを明らかにした。
「多年にわたる保守党の腐敗政治と、社会党の容共化に不満を持ち、幻滅を感じた国民の、待望してやまなかった民主社会主義新党は、本日ここに結成をみた。新党は民主社会主義の理念にもとづき、資本主義を根本から改め、人間性を解放し、共産主義に反対し、倫理を基礎に、個人の自由と平等による社会を実現するものである。新党は、左右のイデオロギーにもとづいた独裁を排除し、今日わが国政治をゆがめている、多数横暴と少数暴力を是正し、議会制民主主義を守り、漸進的に社会主義を実現することを目標とするものである。」

民主社会主義
1951年に開催された「国際社会主義者会議におけるフランクフルト宣言」で、社会民主主義の理念は、共産主義的社会主義に対立し、理想主義的・倫理的ヒューマニズムにもとづいて資本主義を乗り越える思想とされた。労使の協調、議会制民主主義の尊重、自由主義を認める混合経済、福祉国家の建設などが具体的な目標であった。
しかし、階級論的立場で考えると、議会制民主主義は有産階級に自由・平等をもたらすが、無産階級には不自由・不平等を押しつけるだけである。
議会制民主主義は有産階級のための支配機構である。仮りに議会制民主主義によって労働者が権力を掌握しても、労働貴族としてかつての支配者同様、労働組合を支配し、社会主義を実現しようとはしない。従って、民主社会主義とは有産階級の反革命的考え方である、ということになる。

民主社会党の凋落 
1960年11月の総選挙で、民主社会党は自らを健全野党と読んだが、40議席から17議席に減少した。以後、元の勢力を回復できなかった。保守でも革新でもない性格上、具体的政策は曖昧であり、この弱点を選挙のたびに攻撃されたのであった。
財界は野党の左傾化を憂い、健全野党をつくるため、民主社会党を支援する労組を結成した。企業内では第2組合として、昇給・昇任を早めた。また、第1組合には労組経費の徴収代行の中止、大会参加への給与カット、転勤によるいやがらせなど、様々な差別をして、第1組合の勢力を衰退させた。
第2組合の全国組織として同盟ができた。同盟系の労組には会社・財界から潤沢な活動資金が流れて来たが、労組員一人一人は、同盟系労組が、自民党保守政治を補完する政治勢力として利用されているこを自覚していた。
第2組合員の多くは生活の方便として第2組合に属しているのであり、選挙の時は民社党に投票しなかった。民社党の勢力は衰えるばかりであった。1994年に解党消滅した。

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総評が、政治闘争から経済闘争に転換。

1960年01月23日 | 1960年
経済闘争
日本労働組合総評議会(総評)は1950年7月11日に結成された。社会党左派と日本共産党の指導による政治闘争が主体であった。破防法反対・反基地闘争・合理化反対・MSA反対など、次々と闘争目標が設定された。
1956年からは、傘下の労働組合が一斉賃上げを求める春闘方式を採用して経済闘争も取り入れたものの、勤評反対闘争・警職反対・安保改定阻止など、政治闘争が強化された。
日本共産党は1955年7月の第6回全国協議会で、それまでの徳田球一の指導する極左冒険主義を党として自己批判して、野坂・宮本による民主的革命運動に転換した。しかし、このような穏健路線への転換は、労働者・学生の支持基盤を失った。

社会党左派による総評支配
総評内部では、共産党の脱落によって相対的に社会党左派の力が強まった。1959年には安保改定阻止の統一戦線(安保改定阻止国民会議)の結成にこぎつけた。しかし、共産党による総評内組織の切り崩し、全学連の反体制運動化、政府・財界による労組分裂工作など、左右からの攻勢が激しくなった。総評は、安保改定阻止国民会議による政治闘争だけではなく、労組のナショナルセンターとして経済闘争も重視しなくてはならなかった。

総評の腰砕け
1960年1月23日、総評主流派である労働者同志会が、安保闘争重視の政治闘争から、賃上げ・時短に向けての経済闘争への路線変更を示唆した。これは総評が労働組合であり、社会党や共産党の政治組織とは異なる理念の組織であることを明確にした印象を与えた。しかし、この時の政治闘争からの逃避は、間近にせまった春闘で賃上げ・時短を勝ち取るための戦術であった。

労働組合と政治  
戦後間もない1946年、全国各企業の労組のナショナルセンターとして、政治的には中立の日本労働組合会議(日労会議)、社会党右派系の日本労働組合総同盟(総同盟)、社会党左派系・共産党系の全日本産業別労働組合会議(産別会議)ができた。
極左革命運動をめざす産別会議の力を弱めるため、GHQ・日本政府・経団連(財界)が日労会議・総同盟に働きかけ、産別会議とともに、1950年7月11日に日本労働組合総評議会(総評)を発足させた。極左暴力革命を排除して総評を支援するするため、GHQ・日本政府・経団連は、日本共産党員とその支持者を、労組や職場から一斉追放した(レッドパージ)。反体制分子を抹殺することで、翌年のサンフランシスコ単独講和・日米安保、それに続く日本再軍備への地ならしが一応は完了したと思われた。
しかし、総評執行部は、共産党シンパの労組と妥協するため、1951年に平和4原則として全面講和・中立・米軍駐留反対・再軍備反対を宣言し、政治闘争を強めた。政府・財界にとって、総評の変化は思いもよらないことであり、「ニワトリからアヒル」への転換と揶揄された。 

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インスタント食品が生活を変える。

1960年01月22日 | 1960年
小麦輸入の増加
1945年の終戦から10年間、日本は深刻な食料不足のため、米・小麦を輸入した。アメリカからの小麦を輸入には、日本の再軍備が条件とされた(MSA協定)。アメリカは日本に輸出した小麦輸出代金を、全額、日本の銀行に預け、日本への経済援助に使った。日本国内ではアメリカからの経済援助を受けるため、食料需給が充足した後も小麦を輸入した。小麦の消費拡大のため、学校給食にはパンを使った。
アメリカ農務省は、アメリカ国内で生産過剰となった小麦の販路拡大資金を、オレゴン州小麦栽培連盟に提供した。連盟から日本に役員が派遣され、1956年から1960年まで日本各地に12台のキッチンカーを走らせて小麦料理を普及させた。パン技術者を養成する講習会や、粉食PR映画も作成した。
1960年には、脚気の原因になる米を減らし、栄養にすぐれた小麦を食べなくてはならない、という世論が出来上がった。
日本産の小麦は価格と品質でパンには不適当であり、アメリカの小麦を継続輸入することになった。日本の小麦栽培はほぼ全滅した。これはアメリカの思惑通りの結果であった。水田や畑の裏作としての小麦栽培も、アメリカ産小麦には価格と品質で負け、多くの農家は、冬の出稼ぎをするようになった。


インスタントラーメンの急増
1958年8月25日にサンシー殖産の発売したインスタントラーメン(商品名チキンラーメン)が爆発的に売れた。1958年12月にサンシー殖産は日清食品に社名を変更し、1959年12月に大阪府高槻市に近代的工場を完成させた。三菱商事の全国販売網で年間2億食の大量生産・大量販売が可能になった。良質安価の輸入小麦を原料とする工場生産であった。
1960年には1日1社といわれるほど多数のインスタントラーメン製造業者が出現した。淘汰されて残った大手5社とは、日清食品・サンヨー食品・明星食品・東洋水産・エースコックである。日本の小麦はインスタントラーメンの大量生産に適するような、品質の安定と数量の確保ができず、原料は輸入小麦に頼らざるを得なかった。
国産小麦は国内の小規模零細な手作り麺工場向けであった。

魚肉ハムと魚肉ソーセージ
魚が原料のハム・ソーセージは日本人の栄養状態を欧米並みに引き上げる画期的な発明といわれた。1952年には製造方法が確立されたが、安い原料魚がなかった。
1954年に静岡のマグロ漁船第五福竜丸がビキニ環礁で、アメリカの水爆実験による放射能を浴びて死者を出した。このため国内のマグロが放射能で汚染されているとして、売れなかった。マグロ価格も暴落した。
値下がりした大量のマグロが、ハム・ソーセージの原料として使われた。味の良さと安さで売れた。その後、技術開発が進められ、マグロ以外の魚種でもうまいハム・ソーセージが作られた。簡単便利、栄養豊富なおかずとして、学校給食などに大量に消費されるようになった。世界中に普及した魚肉ハム、魚肉ソーセージは日本の発明である。 

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安保改定を見込み、自衛隊を増強。

1960年01月21日 | 1960年
警察予備隊
憲法9条の解釈では、当初、日本は自衛のための軍隊を保有できないとされた。しかし、1950年6月に朝鮮戦争が起こると、米軍が日本国内の基地から出動した。
1950年7月8日、GHQのマッカーサー司令官は日本政府に対して、日本国内の軍事力の空白を埋めるため警察予備隊7万5千人、海上警察隊8千人の創設を指令した。
吉田茂内閣は急遽、警察予備隊を募集した。1950年8月10日、総理府直属の警察予備隊が発足した。国内の治安対策を目的とし、警察力を補う形ではあったが、日米両政府は日本の再軍備のスタートと認識した。
1952年4月、運輸省外局の海上保安庁には海上警備隊が新設された。船舶は日米船舶貸借協定により米軍から借用した。

保安隊
1952年8月1日、警察予備隊と海上警備隊とをあわせて保安庁が発足した。警察予備隊は保安隊に改称された。海上警備隊は、1954年に保安隊が自衛隊改組とともに海上自衛隊になった。保安隊も、国内の治安対策が最重要目的であった。

破壊活動防止法
1952年7月21日には破壊活動防止法が公布された。暴力革命などの団体暴力を取り締まるために公安調査庁が設置されて、特に共産主義勢力への調査警戒が強化された。

日米関係
1953年、池田勇人自由党政務調査委員長と米国ロバートソン国務次官補との会談で、MSA(相互安全保障法)援助協定が締結された。米の経済軍事援助を受け入れる代償として、日本は軍備増強と対共産圏輸出規制をすることになったのである。

自衛隊
1954年6月、防衛二法(自衛隊法と防衛庁設置法)が公布された。1954年7月1日、保安隊と海上警備隊が改組拡充され、陸・海・空3軍の自衛隊が発足した。これまでの警察予備隊や保安隊は、国内共産主義勢力への治安対策であった。
これに対して、自衛隊は外国の共産主義勢力の侵略に対する防衛という軍事的性格が強化された。旧安保にもとづいて日本に駐留米軍の補完的側面もあった。
憲法9条の制約があって、建前としては自衛隊は軍隊ではなかった。しかし、第1次防衛力整備計画(1958~1960年)では在日米軍と整合するような装備の近代化が図られた。これは日本の軍需産業の復活でもあった。国産61戦車の配備、F104J戦闘機の導入、戦艦の建造、レーダー基地建設などが進められた。第1次防衛力整備計画は、1960年の安保改定後の第2次防衛力整備計画につながるような長期計画の始まりであった。F104J戦闘機やミサイルの国内ライセンス生産、レーダーの開発生産などにつながる既成事実が積み重ねられた。

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岸首相、ア米大統領に皇太子夫妻訪米を約束。

1960年01月20日 | 1960年
皇族と政治 
旧憲法において天皇は元首として統治権を総攬する立場にあったが、新憲法では政治的権能を失って国民統合の象徴という立場になり、天皇の政治的行為は国事行為に限定された。
国事行為とは、国家機関の実質的に決定したことを、天皇が外部に対して形式的・儀礼的に行うことである。
現憲法6条で定める天皇の国事行為は、次の2つの任命権である。
・国会の指名にもとづいて内閣総理大臣を任命する。
・内閣の指名にもとづいて最高裁長官を任命する。
また、憲法7条では内閣の助言承認によって、次の10の国事行為を行うことが定められている。
・憲法改正・法律・政令・条約の公布
・国会召集
・衆議院解散 
・総選挙の施行公布
・国務大臣の信任、外国大使公使の認証
・恩赦
・栄典授与
・批准書・外交 文書の認証
・外国大使・公使の接受 
・儀式

皇室外交
1960年前後は冷戦の世界であった。日本の保守勢力は、安保改定による日米軍事同盟の強化と日本の再軍備をめざした。日本国内の共産主義勢力を一掃するため、共産主義を外来の異質文化とする一方、皇室を日本固有のすぐれた伝統文化と規定した。
それまで皇太子が米人キリスト教徒の家庭教師の教育を受けたり、ミッションスクール出の平民女性を妃殿下に迎えることを快く思わなかった保守勢力は、皇室への姿勢を全面的に改めた。
皇室の活動を国事行為に限定せずに、
「統合の象徴としての行為」
「公人としての行為」
に拡大した。これらは政府の助言による行為であり、天皇の個人的意思が働かないから、憲法には反していないとされた。
国民体育大会や植樹祭などでの挨拶、新年の国民参賀、皇室外交などが、「統合の象徴」あるいは「公人」としての行為である。

皇室外交の意味
岸首相は、皇太子夫妻が安保改定後の1960年9月に訪米することを、アイゼンハワー米大統領に表明した。米政府に対して、日本国民すべてが安保改定に感謝する意味があった。また、国内の反安保・反米勢力に対しては、保守勢力の勝利宣言の意味があった。
この時から、皇室外交は、国内の政治抗争や権力維持のために利用されるようになった。

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ワシントンで日米安全保障条約に調印。

1960年01月19日 | 1960年
新安保条約
1951年9月8日調印の旧安保は「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」である。1960年1月19日調印の新安保の正式名称は「日本とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」である。
旧安保には、米軍が日本を防衛する義務がなく、日本で内乱があった場合には米軍の出動する条項があった。また、条約を終了させるには米側の承認が必要であった。日本に不利な片務的条約であったが、旧安保は本質的には日本の基地提供協定であった。
新安保では、片務性は多少は緩和されたものの、明らかな日米反共軍事同盟への変質であった。日本は米軍の極東戦略における前線基地として重要になった。このことはベトナム戦争において実証された。
新安保の特徴は、 
・日米軍事同盟であり、日米ともに日本の防衛責任を負う。
・極東の安全について、日米が事前にあるいは臨時に協議する。
・有効期限を10年間とし、事前通告によって一方的に条約を終了できる。
しかし、新安保にはいくつかの重大な問題があった。
・在日米軍が攻撃を受けた場合、日米にも共同防衛責任がある。
・極東の範囲が不明確であり、米軍の紛争に日本が巻き込まれる恐れがある。
・事前協議の発議は米側にある。


アメリカの危機感
ソ連は人工衛星スプートニクの打ち上げに成功(1957年)して、軍事的に優位に立っていることを示した。アメリカはソ連との平和共存政策を進めながらも、アジアへの共産主義拡大を警戒をした。朝鮮半島・台湾海峡・インドシナ半島の軍事的緊張が続き、日本への軍事的脅威は存在した。
日本が自国の安全のため、軍事的に重要な位置にあるのも事実であった。日本が、米軍の出撃基地としても、米軍の後方支援基地としても重要なのは、米軍の軍事活動が日本の安全のためだからであった。米国が日本の申し出に応じて、安保条約を改定したのは、日本の安全のためであった。


新安保条約の調印
日米安保条約は1960年1月19日にワシントンのホワイトハウスで調印された。日本からは岸信介首席全権・藤山愛一郎外相・石井光次郎自民党総務会長・朝海浩一郎中米大使・足立正日本商工会議所会頭の5全権が署名した。
米国からはハーター国務長官・マッカーサー駐日大使・パーソンズ国務次官補の3全権が署名した。アイゼンハワー大統領が署名に立ち会った。
日本は新安保を対米従属の軍事同盟強化と考えず、在日米軍や自衛隊への軍需産業の再興をねらっていた。日本側全権に、商工会議所会頭が含まれていたのは、日本が新安保をアメリカとの協力による経済発展の機会と認識していたからである。

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1960年日米安保(全文)

1960年01月19日 | 1960年
日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約


前文
日本国及びアメリカ合衆国は、両国の間に存在する平和及び友好の関係を強化し、並びに民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配を擁護することを希望し、また、両国の間の一層緊密な経済的協力を促進し、並びにそれぞれの国における経済的安定及び福祉の条件を助長することを希望し、国際連合憲章の目的及び原則に対する信念並びにすべての国民及びすべての政府とともに平和のうちに生きようとする願望を再確認し、両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し、両国が極東における国際の平和及び安全の維持に共通の関心を有することを考慮し、相互協力及び安全保障条約を締結することを決意し、よって次のとおり協定する。


第1条
締約国は、国際連合憲章に定めるところに従い、それぞれが関係することのある国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決し、並びにそれぞれの国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎むことを約束する。
締約国は、他の平和愛好国と協同して、国際の平和及び安全を維持する国際連合の任務が一層効果的に遂行されるように国際連合を強化することに努力する。


第2条
締約国は、その自由な諸制度を強化することにより、これらの制度の基礎をなす原則の理解を促進することにより、並びに安定及び福祉の条件を助長することによって、平和的かつ友好的な国際関係の一層の発展に貢献する。
締約国は、その国際経済政策におけるくい違いを除くことに努め、また、同盟国の経済的協力を促進する。


第3条
締約国は、個別的に及び相互に協力して、継続的かつ効果的な自助及び相互援助により、武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を、憲法上の規定に従うことを条件として、維持発展させる。


第4条
締約国は、この条約の実施に関して随時協議し、また、日本国の安全又は極東における国際の平和及び安全に対する脅威が生じたときはいつでも、いずれか一方の締約国の要請により協議する。


第5条
各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続きに従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する。 
前記の武力攻撃及びその結果として執ったすべての措置は、国際連合憲章第51条の規定に従って直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し及び維持するために必要な措置を執ったときは、終止しなければならない。


第6条
日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍、及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。
前記の施設及び区域の使用並びに日本国における合衆国軍隊の地位は、1952年2月28日に東京で署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基づく行政協定(改正を含む)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される。


第7条
この条約は、国際連合憲章に基づく締約国の権利及び義務又は国際の平和及び安全を維持する国際連合の責任に対しては、どのような影響を及ぼすものではなく、また、及ぼすものと解釈してはならない。


第8条
この条約は、日本国及びアメリカ合衆国により各自の憲法上の手続きに従って批准されなければならない。この条約は、両国が東京で批准書を交換した日に効力を生じる。


第9条
1951年9月8日にサン・ワシントン市で署名された日本国とアメリカ合衆国の間の安全保障条約は、この条約の効力発生の時に効力を失う。


第10条
この条約は、日本区域における国際の平和及び安全の維持のため十分な定めをする国際連合の措置が効力を生じたと日本国政府及びアメリカ合衆国政府が認める時まで効力を有する。
もっとも、この条約が10年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行われた後1年で終了する。


以上の証拠として、下名の全権委員は、この条約に署名した。
1960年1月19日にワシントンで、ひとしく正文である日本語及び英語により本書2通を作成した。

日本国のために
  岸信介
  藤山愛一郎
  石井光次郎
  足立 正
  朝海浩一郎

アメリカ合衆国のために
  クリスチャン・A・ハーター
  ダグラス・マッカーサー2世
  J・グレイアム・パースンズ 

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公安調査庁、学生諸派に破防法適用か。

1960年01月18日 | 1960年
公安調査庁
終戦後の日本の治安維持は、超法規的な占領軍の団体等規正令(1949年)にもとづいていた。GHQの指令により、日本政府は共産主義を一掃するため、北朝鮮系在日朝鮮人団体の解散(1949年)、共産党幹部の追放(1950年)、共産党シンパの職場追放を進めた。
1952年のサンフランシスコ講和条約発効によって日本の主権を回復した吉田内閣は、共産党弾圧のための治安立法として破壊活動防止法を制定した(1952年7月21日公布即日施行)。1952年5月1日の血のメーデー事件が、日本でも共産主義革命の起こる可能性の高いことを示した。政府は治安立法としての破防法制定を急いで公布したのであった。
破防法制定と同時に、適用団体の活動調査を目的とする公安調査庁が、法務省外局として設置された。公安調査庁長官の請求によって公安審査委員会が審査し、その結果として適用認定団体になると、集団活動が制約されたり、団体の解散を命じられた。
破防法は、共産主義者の暴力革命防止を目的にした。実際に破防法が適用されたのは、戦争・無失業・無税を目標にした三無事件だけであった(東京地裁、1969年5月)。この事件は、旧軍人が反共国家建設をめざした、クーデター計画であった。


社会党左派と共産党
1960年に公安調査庁が破壊活動防止法の適用容疑団体とみなしたのは、全学連・社会主義青年同盟・共産主義者同盟の3団体であった。全学連は執行部の安定した固定的組織ではなく、闘争方針に関して主流派と反主流派が対立する不安定な組織であった。公安調査庁が破防法を適用して活動を封じ込めようとした時、全学連主流派は共産主義者同盟(共産同=ブント)によって占められていた。ブントは安保改定阻止闘争を反帝・反米闘争に発展させるねらいがあり、1月15日16日の羽田空港突入占拠事件を起こしていた。
社青同はブントよりもさらに過激なスローガンを掲げていたが、社青同活動家の人数が少なくてブントに圧倒され、主流派内の少数グループであった。 ブントも社青同も、セクトとして全学連として、二重に破防法適用の容疑団体とされたが、もともと既成政党の民主的活動の枠を否定する過激な活動を主張していたから、活動に支障はなかった。しかし、政府(公安調査庁)が全学連を破防法適用容疑団体とみなしたため、共産党系学生は全学連主流派として活動することができず、常に反主流派として民主主義革命路線を進まざるを得なかった。過激な活動に突き進む全学連各派の中で、共産党系全学連(民青)の活動は埋没した。
日本社会党左派は全学連主流派を支援してきたが、羽田空港占拠事件による世論の批判や破防法適用容疑などで、心情的支援に後退した。共産党同様、全学連各派に対し、学生運動も、議会制民主主義のルールを遵守することを強調しなければならなかった。

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