水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

安保国会、日本の拒否権で激論

1960年02月11日 | 1960年
事前協議の意味
衆議院予算委員会(2月8日)で、社会党横路節雄は、安保事前協議における拒否権の有効性を、岸首相に質問した。
横路
法律的には日米二国間には拒否権が存在せず、常識的な意味では拒否権が存在するというのは、曖昧である。日本が戦争に巻き込まれる事態になれば、米側は、事前協議において日本側の同意を必要とする、と明確にすべきではないか。
首相
事前協議の主題にする意味は、日本と協議して日米の合意を得るということである。用語として同意と書いていなくても、日米の意見の一致があって米側の行動が起こされるのだから、事前協議があれば、同意を得るという目的は達せられる。


アメリカの同意
衆議院予算委員会(2月11日)では、事前協議において、日本がノーといった場合、アメリカが同意するかどうか、微妙な問題について、論議があった。岸首相への質問者は社会党の広瀬勝邦である。
広瀬
新しい安保条約によって在日米軍が行動し、日本が戦争に巻き込まれる恐れがある。事前協議において、日本は、米軍の行動を拒否できる保証はあるのか。
首相
事前協議は交換公文に書かれている。交換公文は条約と同じ効力がある。事前協議において、日本が自主的立場でノーということができる。日本の同意が得られなかった場合、米側は日本の意思に反した行動はとらない。これが事前協議の意味であり、訪米した時に、アイゼンハワー大統領にも確認した。
広瀬
事前協議で日本がノーといった時、米国は同意するのか。
首相
米国は、日本のノーに必ず同意しなければならない、ということではない。意見が一致しない場合、米国は日本がノーといった事柄に反する行動はできない、ということだ。
広瀬
それでは、米軍が勝手に行動できることになる。日本がノーといえば、米国はそれに同意する、ということにしなくてはならない。
首相
事前協議で日本はイエスともノーともいえる。日本がノーといった場合、米国に同意を強いる根拠はない。しかし、日本がノーといった場合、米側は日本の意思に反した行動をとることはできない。これが事前協議の解釈だ。


自民党、紀元節復活に強い意欲。

1960年02月10日 | 1960年
建国記念日
旧憲法では、2月11日は神武天皇の即位を奉祝する紀元節であった。戦後の新憲法下、1948年に制定された「国民の祝日に関する法律」では、紀元節だけは祝日から除外された。その理由としては、歴史的根拠が曖昧で、かつ、天皇制と密接に結びついて、新憲法になじまないことがあげられた。
政権与党の自民党は、神社本庁の後押しで、1957年以来、「紀元節」を「建国記念の日」と名称を変え、毎年、祝日法改定法案として国会に上程したが、常に審議未了で廃案になった。
戦後のいわゆる民主憲法の改正につながる紀元節の復活は、国会内外において、野党の絶好の攻撃目標になった。自民党は選挙に負ける恐れがあり、自民党政権崩壊さえ、あり得ることであった。誰が首相でも、祝日法改正には消極的であった。
1960年2月11日の紀元節式典には政財界・神社関係者・天皇制復活論者など多数が出席し、紀元節復活と日本民族の再統合を誓った。その背景には、日米安保反対闘争で結束を強め、国民の支持を増やした左翼陣営への、右翼勢力の強い危機感があった。右翼には、冷戦におけるソ連の軍事的優位が伝えられ、共産主義への恐怖もあった。
紀元節復活は、日本が反共国家として世論を統一すること、日米軍事同盟を強化して米国の軍事力の傘に入ること、さらには自衛隊を日本軍と認める憲法改正へのワンステップであった。

紀元節
明治政府は1872年(明治5年)に太陽暦を採用した。日本書記では神武天皇の即位が辛酉の年の元旦であったことから、西暦紀元前660年を紀元(皇紀)に換算した。即位日を旧暦元旦に定め、宮中では祭典が行われることになった。第1回目の紀元節は1873年(明治6年)1月29日の旧暦元旦であった。
しかし、太陰暦の正月元旦を紀元節とすると、紀元節の月日が太陽暦では固定せず、神武天皇の即位日が不確実の印象が強かった。このため、皇紀元年の元旦が、太陽暦のいつに相当するかを政府の天文局が調査した。その結果、2月11日が皇紀元年の元日であるかのような結論を得た。
1874年(明治7年)の第2回目からは、紀元節を2月11日に固定した。この日が国民の休暇日となり、宮中と神社では神武天皇の神霊をまつる祭儀が行われるようになった。

神武天皇
古事記で、神武天皇は初代天皇とされる。辛酉の朔(前660年元旦)に橿原(奈良)で即位し、在位76年、127歳で崩じた。神武天皇を含め、そのあと十数代にわたり、いずれの天皇も寿命が非常に長い。これは神武天皇の即位を、古事記で辛酉と定めたため、あとの天皇の寿命を長くし、実在の天皇につないだためである。
古事記には神武天皇の名前はなく、若御毛沼命、神倭伊波礼毘古命、始馭天下之天皇などと記されている。神武天皇とは、8世紀に命名された諡名である。


建国記念日の制定
1966年6月、佐藤栄作内閣は建国記念日をいつにするかは決めずに、祝日法を改正した。建国記念日の日取りを一任された建国記念日審議会(菅原通済委員長)は、第2次大戦の開戦と同日の1966年12月8日に、建国記念日を紀元節と同じ2月11日と答申した。
12月8日に答申、2月11日を紀元節とする態度は、財界保守勢力の右傾化であるとともに、左翼勢力への露骨な挑戦であった。政府はすぐに政令で2月11日を「建国記念の日」と定めた。これはアメリカが日本に求めていた憲法改正と自衛隊合法化、最終的には対米従属の道へのワンステップであった。


ガーナ、社会主義政策に失敗。

1960年02月09日 | 1960年
アフリカ独立の父エンクルマ 
ガーナのエンクルマ(1909~1972年)は、イギリスとアメリカに留学後、イギリス植民地ガーナの独立運動を指導した。1947年に統一ゴールドコースト会議書記長になり、1949年には会議人民党を組織した。
1957年にガーナの独立を達成すると、初代ガーナ大統領に就任した。エンクルマは、アフリカの多くの国が独立する理論的精神的なバックボーンになって、アフリカ独立の父といわれた。1960年には多くの国が独立し、「アフリカの年」といわれた。
しかし、ガーナの社会主義的経済政策は失敗した。1966年の中国訪問中にクーデターが発生して、エンクルマは失脚した。エンクルマは終生ガーナに戻ることができず、ギニアで亡命生活を送った。

エンクルマの社会主義政策 
エンクルマはガーナの独立(1957年)から、クーデターで大統領の座を追われる(1966年)まで独裁政治を続け、社会主義的イデオロギーにもとづいた経済政策を実施した。アフリカの新興独立国が経済的自立を達成するためのモデルであった。
しかし、エンクルマのいずれの政策も、ガーナの財政を圧迫した。独立によってガーナ国民は自由を得たが、その代償としてガーナ国民は深刻な貧困に襲われた。

公共投資
カカオのモノカルチャー経済では財政収入が少なく、国家の運営が難しかった。エンクルマはガーナの近代化のために工業化路線を選択した。港湾・空港・アコソンボダムを建設し、産業基盤整備の整備を進めた。

工業化政策
植民地時代の収奪のため、ガーナ国内に民間資本(企業)は存在しなかった。独立直後の新興国家には、外国資本も進出しなかった。
エンクルマはガーナの工業化のため、国営企業を設立した。国営企業は、輸入代替型の軽工業と、アコソンボダムの水力発電を利用したアルミニウム製造が中心であった。
国営企業保護のため、競合する工業製品の輸入を規制したり、外資の進出を禁止したりした。また、政府からは国営企業に潤沢な補助金が支出された。
これらの結果として民間企業が育成されず、非効率の国営企業が増加した。国営企業幹部とガーナ政府には、汚職と腐敗が広がった。

農業政策
ガーナはイギリス植民地時代からカカオのモノカルチャー経済が続いていた。他の植民地のような大規模農場ではなく、零細自営農民の小規模農場であった。
エンクルマは大規模国営農場を建設して、大型農業機械による効率化をめざした。しかし、結果は逆に非効率な国営農場ばかりになってしまい、カカオの生産量は増加しなかった。

生活基盤整備
エンクルマは社会主義的な経済的平等を実現するため、教育と医療を無償とした。生活の近代化のため、電気・水道の建設を進めた。貧困と失業者救済のため、カカオ産業には大量の労働者を雇い、国家財政公務員として給料を与えた。

財政の問題
社会主義政策を維持するためには豊富な財源が必要であった。ガーナ政府は財政確保のため、政府機関のマーケテングボード(商業省)によるカカオの独占買い付けを実施した。
マーケテングボードが農民からカカオを安く買い、高値で輸出し、その差益を国家収入とするものであった。カカオ農家の犠牲による社会主義国家建設であった。
しかし、この増収政策は失敗した。
第1にカカオの国際価格が暴落したため、マーケテングボードによる買い占めが赤字になった。
第2に、軍部のクーデターでエンクルマが失脚して失敗に終わった。エンクルマが中国に、ガーナの財政再建のための融資交渉に行っていた。親中国路線に進むことを不安死したアメリカ政府が、ガーナ軍部を支援して、大統領追放のクーデターを成功させた。このあとの財政再建プログラムもアメリカの筋書きである。


財政再建
1983年にローリングズ大統領が、世界銀行による構造政策を受け入れて財政が再建された。ガーナ政府は経済主権を放棄し、世界銀行の財政再建プログラムに沿った経済政策を実行した。
カカオは増産が可能になった。また、外資の導入で金・木材・アルミの輸出市場も確保できた。ガーナは財政再建が達成でき、世界銀行の優等生といわれた。
しかし、ガーナを真似て、サハラ以南アフリカで世界銀行の構造政策を導入したが、基幹産業がないため、財政はさらに逼迫し、内乱とクーデターが多発する事態になってしまった。世界銀行による構造調整プログラムは、ガーナ以外ではことごとく失敗した。


日本政府見解、極東に中国大陸を含まず。

1960年02月08日 | 1960年
安保国会
1960年1月19日署名の新しい安保条約を、日本が批准するための安保国会が2月8日に始まった。安保条約第6条の、「極東」の範囲が論戦の中心であった。日米安保条約第6条には、極東が次のように記述されている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第6条(基地の供与) 日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本において施設及び区域を使用することを許される。
以上、安保6条・・・・・・・・・・・・・・

この文脈の「極東」について、安保反対と是認の立場の相違から(1)と(2)の2通りの解釈が生じた。

(1)安保条約反対の野党側解釈
野党は日本社会党と共産党である。極東が在日米軍の出動範囲であり、かつ、極東すべてが日米安保条約の適用範囲である。従って、極東の範囲を具体的個別的に明確にしなくてはならない。
*この解釈の背景として、反米容共といわれた野党にとって、極東の範囲を明確にすることが、共産圏との友好関係維持のために必要であった。

(2)安保積極賛成の政府与党側解釈
与党とは自由民主党である。極東とは漠然とした地理的概念であり、具体的に島・国・地域などの範囲を、具体的個別的に特定できるものではない。
安保6条における極東は、その文脈から、日本の安全にとって脅威となる範囲をさしたものであると解釈される。文脈上は、極東が在日米軍の出動範囲ではないし、日米安保条約の適用範囲でもない。
*これは条文を作成した側の解釈だから、字義と文脈の上では正しい。しかし政治的軍事的には、日本への脅威がある地域はすべて極東の範囲となる。また、在日米軍の出動範囲を日本政府がコントロールする権限はないのだから、極東において在日米軍の無制限の行動を保障する意味があった。
例えば、のちのベトナム戦争中、在日米軍がベトナムを直接空爆した。ベトナムは極東であり、日本政府が在日米軍の自由な軍事行動を是認した。
また、日本の自衛ペルシャ湾の掃海作業に派遣された(1991年)。ペルシャ湾が極東の安全に大きな影響を与える、という論理がまかり通った。
PKO協力法制定(1992年)後には、自衛隊が非戦闘員の形でカンボジア・ルワンダ・シリアに国連平和維持活動を名目に派遣された。
極東とは、このように自衛隊の海外派兵のできる範囲として、拡大した。先に極東の範囲があるのではなく、在日米軍の出撃範囲、自衛隊の派遣範囲として柔軟に決まる、ということである。
自衛隊の活動範囲の拡大を十分に予想していた。極東という定義域のない便利な言葉を、最初から6条に盛り込んでおいたということである。


日本政府見解の極東(2月8日)  
昭和35年(1960年)2月8日の衆議院予算特別委員会で、社会党の論客横路節雄が極東の範囲を具体的地名をあげて質問したのに対し、藤山愛一朗外務大臣と岸信介首相は、具体的に極東の範囲を答えた。
この時の極東の範囲とは、フィリピン、中華民国、韓国、日本と日本固有の領土としての歯舞・色丹・国後・択捉、そして、これらの周辺海域である。当時、中華人民共和国の砲撃を受けていた金門島と馬祖島は中華民国領として極東に含まれた。
極東に含まれないとされたのは、ベトナム、中国大陸(中華人民共和国)、沿海州(ソ連領日本海岸地域)、北千島であった。政府は北朝鮮を極東に含むのか含まないのか、明確にしなかった。
しかし、個別に具体的地名を列挙して極東の範囲を限定することは、日本政府が在日米軍の行動範囲を規制することになって、アメリカ政府を怒らせてしまった。


日本政府見解の変更(2月26日)
2月26日の衆議院安保特別委員会において、政府は2月8日の政府見解を変更した。極東としては個別の地域をあげることができないし、極東の範囲を明確に定めることもできない、とした。
政府与党の元の漠然とした概念規定に戻った。また、極東は安保条約の適用区域ではないし、在日米軍の出動範囲でもない、と曖昧にした。以後、一貫して、政府は極東の範囲を示さなかった。


奥多摩湖渇水のため、人工降雨。

1960年02月07日 | 1960年
奥多摩湖


 
東京都西多摩郡奥多摩町(旧小河内村)の多摩川上流域に、小河内ダムが建設された。1926年に当時の東京市議会がダム建設を決議し、地域住民が強く反対したものの、1937年に着工された。戦時中は資材や労働力が不足して工事が中断した。戦後の1948年に工事が再開され、1957年に完成した。
小河内ダムのダム湖が奥多摩湖である。小河内ダムは重力式コンクリートダム、ダムの高さは149m、幅353m、流域面積263平方kmである。満水時のダム湖(奥多摩湖)の面積4.25平方km、貯水量が1億8910万トンである。ダム湖水没地からの移転は945世帯、総工費251億円であった。
小河内村ではダム建設の賛否をめぐって、地域内で激しい対立抗争と人間的葛藤がくり広げられた。石川達三の小説「日蔭の村」は、この模様を丁寧に描写した名作である。


東京都の水需要
小河内ダムの水は、東京都民の水道用水とするものだが、他に水力発電・農業用水にも役立てる計画であった。奥多摩湖の水は山口・村山貯水池を通して都内各地の浄水場に送られた。
小河内ダムの流域が狭い上に、降水が地下水として流出する割合も多く、奥多摩湖の貯水量は増えなかった。満水まで3年間を要した。飲用水として送水すると奥多摩湖の水位が低下してしまい、都民の水の安定供給には不適当なダムであった。首都圏の人口急増が続いている中で、小河内ダムからの水には期待できなかった。

人工降雨計画
1946年、アメリカGE社のラングシェアとシェーファーによって開発されたのが、人工的に雨を降らせる方法である。人工降雨にはいくつか方法がある。
①航空機から、沃化銀の煙を雲中に散布し、人工氷晶とする方法。
②温かい雲にドライアイスを散布し、雲の温度を下げて、雨粒にする方法。
③直接雲に航空機から散水し、雲粒を大きくさせる方法である。
いずれも航空機で雨雲に雨を降らせる工夫をする方法である。アメリカでは効果は不明であり、1960年を最後に、最近は行われない。
アメリカでは、人降雨には否定的な結果が出たにもかかわらず、小河内ダムでは①のよう沃化銀を雨雲に散布する方法を選んだ。航空機を使わずに、地上から雨雲に向け、巨大扇風機て吹きつける方法である。何度も試みられたが、成功していない。



その後の小河内ダム
1964年に東京都が異常渇水に陥って、都民に対して給水制限を実施した。東京都水道局は、かんばつという異常気象が渇水の原因であり、ダムの貯水・給水方法に問題がない、との立場を維持した。東京都民は、給水の時間制限を、忍耐強く受け入れた。
政府(建設省)は多摩川水系そのものの給水能力の低さに原因があるとして、利根川・荒川水系からの緊急給水で水不足を乗り切った。さらに上水道の安定供給のため、利根川水系に矢木沢ダム・草木ダム、荒川水系に下久保ダムなどの建設を急いだ。これらの建設主体は水資源公団であった。
利根川・荒川には東京都の水利権はなかったが、河野一郎など「建設族」の強引な政治力で、東京都の水利権は利根川・荒川流域に拡大した。
多摩川水系の小河内ダムは、その存在感を失った。もともと、ダム湖を満水にするためには5年はかかるといわれたダムである。奥多摩湖(小河内ダム)としての周辺整備が進められ、東京都心からの手頃な観光地となった。
小河内ダムは多目的ダムである。給水のためには貯水量を増やしたり、治水のためには貯水量を減らしたりし、ダムの機能を果たしている。しかし、これは人間がダムの水量を操作しなくても、自然状態の多摩川に備わっていた機能である。小河内ダムの役割と存在そのものが疑われている。


前進座、中国公演に出発。

1960年02月06日 | 1960年
前進座
1931年(昭和6年)、河原崎長十郎(2世)と中村翫右衛門(3世)は歌舞伎界の門閥制度を厳しく批判した。民衆の進歩的要求に適合する演劇の創造性をめざして松竹を脱退し、前進座を結成した。映画演劇研究所で、座員とその家族が共同生活を送った。前進座の公演は歌舞伎十八番物だけではなく、真山青果の史劇や長谷川伸の大衆劇で人気を得た。映画でも元禄忠臣蔵が大好評であった。


訪中公演
前進座創立30周年記念として、1960年2月6日、総勢70名の第一次訪中公演が実現した。日中関係が最も悪化していた時期の訪中であり、一部では成功が危ぶまれた。演目は『佐倉宗五郎』『俊寛』などであった。北京・西安・上海など、各地の公園は大好評であった。



前進座と共産党
第2次世界大戦後、前進座は収入を得ながら、新しい演劇のあり方を全国に理解してもらうため、青年劇場運動として、全国の各地の中学・高校などで公演を続けた。しかし、1949年、前進座が民族文化の改良と創造のため、日本共産党に集団入党すると、学校の巡回公演が不可能になった。前進座は多くの商業大劇場から締め出されたが、小劇場で演じられる河原崎長十郎の「俊寛」は、非常に評判がよかった。また河原崎国太郎の「切られお富」、瀬川菊之丞の「阿部一族」なども人気が高かった。


中国との結びつき
河原崎長十郎とともに前進座を率いてきた中村翫右衛門は、共産主義革命直後の中国に密出国して、1953年に帰国した。中村翫右衛門は前進座に返り咲き、前進座は商業大劇場での公演が可能になった。
中国が革命を進めて国際的に孤立する中で、前進座は中村翫右衛門のパイプを通して中国共産党と友好関係を維持した。前進座の中国公演は、日中両共産党の友好関係の確認の意味が強かった。
しかし、1960年から中ソ対立が目立つようになった。日本共産党がソ連共産党に同調すると、日本の左翼陣営全体がソ連派と中国派とに分裂した。これは日共系(ソ連派)と反日共系(中国派)との分裂でもあった。日中両共産党のパイプであった前進座は日共系としての立場を鮮明にして、中国共産党寄りの河原崎長十郎は前進座を除名された(1967年)。


商業演劇への道
日中国交回復(1972年)後に日中共産党が和解すると、河原崎長十郎が前進座に戻り、1980年には念願の歌舞伎座において前進座創立50周年記念公演が開催された。1981年に河原崎長十郎は没したが、翌年には吉祥寺に前進座劇場がつくられた。
中村中村翫右衛門、中村梅之助は座員の映画・TV進出にも積極的であった。また、前進座の演目そのものも、古典から現代演劇まで、多くの観客を集めることをめざした。なお、1968年、前進座は株式会社前進座となって、商業演劇の方向に進んでいた。


中国共産党と日本共産党 
中国共産党は、毛沢東の指導で中国革命を達成した。中国革命の日本波及を恐れる日米政府は日本の左翼運動を、団体等規制令(1949年)・レッドパージ(1950年)・破壊活動防止法(1952年)で規制した。
安保条約(1951年)には内乱条項が盛り込まれ、在日米軍が日本の革命を鎮圧するために出動することが取り決められていた。
破壊活動防止法にもとづいて公安調査庁が作られ、冷戦の終了した現在においても、日本共産党の活動は政府の監視下に置かれている。

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安保事前協議では、米国にNOもあり得る。

1960年02月05日 | 1960年
事前協議
衆議院予算委員会(1960年2月5日)では、安保条約第4条[随時協議と有時協議]と第6条[在日米軍施設、区域]について、日本政府が米政府にどこまでNOと言えるのか、協議の実効性が論戦の中心になった。
第4条[随時協議と有時協議]
締約国は、この条約の実施に関して随時協議し、また、日本国の安全又は極東における国際の平和及び安全に対する脅威が生じた時は、いつでも、いずれか一方の締約国の要請により協議する。
第6条[在日米軍施設、区域]
日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍、及び海軍が日本国において施設及び区域を使用されることを許される。


交換公文
書簡をもって啓上いたします。本大臣は、本日署名された日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約に言及し、次のことが同条約第6条の実施に関する日本国政府の了解であることを閣下に通報する光栄を有します。
合衆国軍隊の日本国への配置における重要な変更、同軍隊の装備における重要な変更及び日本国から行われる戦闘作戦行動のための基地としての日本国内の施設及び区域の使用は、日本国政府との事前協議の主題とする。
本大臣は、閣下が、前記のことがアメリカ政府の了解であることを貴国政府に代わって確認されれば幸いであります。
本大臣は、以上を申し進めるに際し、ここに重ねて閣下に向かって敬意を表します。
1960年1月19日にワシントンで 
岸 信介
米国国務長官 クリスチャン・A・ハーター閣下


書簡をもって啓上いたします。本長官は、本日付けの閣下の書簡を受領したことを確認する光栄を有します。
本長官は前記のことがアメリカ合衆国政府の了解であることを本国政府に代わって確認する光栄を有します。
本長官は、以上を申し進めるに際し、ここに重ねて閣下に向かって敬意を表します。
1960年1月19日
米国国務長官 クリスチャン・A・ハーター
日本国総理大臣 岸信介閣下



拒否権
質問は社会党の河野密、答えるのは藤山愛一郎外相と岸信介首相である。
河野:日本の安全又は極東における国際の平和及び安全に対する脅威が生じた場合に協議するといっているが、これが事前協議か。
外相:第4条は、平生の協議であり、事前協議ではない。第6条に付随する交換公文に規定される協議が事前協議である。日本側が事前にNOという場合もあることを想定し、交換公文では事前協議という言葉を使った。
河野:第6条交換公文の事前協議とは、米軍の装備、配置の変更、在日米軍基地からの戦闘行動だけである。事前協議はこれだけに限定するのか。
外相:そのとおり。米軍の平生の行動についての協議は事前協議ではない。交換公文の事前協議とは、日本がNOを通すこともあるので、事前協議である。
河野:事前協議においては、日本の拒否権はあるようだが、拒否権という言葉そのものが、条約本文にも、交換公文にも、議事録にも、どこにもない。せめて議事録に、日本側に拒否権があることを書きとどめることが、できなかったのか。
首相:法律論としての拒否権の有無が問題ではない。事前協議で日本がNOといった場合、米軍が日本の意思を尊重するかどうかが問題だ。事前協議についての日米交渉では、米側は日本の意思に反して行動しないということが前提とされてきた。1月の訪米時に、米大統領と再確認し、共同声明に盛った。拒否権については、明瞭である。
外相:拒否権というのは二国間の問題ではない。多数の決議に対して、少数意見がそれを拒否する場合に使われる。日米の事前協議でNOということが拒否権である。協議においては誰でもNOということができる。当り前だから、それを特に書く必要は毛頭ないと思う。


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松川事件弁護団、最高裁長官の罷免を要求。

1960年02月04日 | 1960年
松川事件 
1949年8月17日3時9分、東北本線の金谷川-松川間の急カーブで青森発奥羽線経由上野域旅客列車412が、脱線転覆した。機関士1名、機関助士2名が事故死した。現場に残されたバール・スパナなどが国鉄松川線路班詰所のものであることから、福島県警は国鉄労組員9名、東芝労組員11人などを逮捕した。労組活動家と共産党員が多かった。
1950年の福島地裁と1953年の仙台高裁では全員有罪であった。1959年最高裁判決は判決差戻し(実質無罪)であった。1961年の仙台高裁差戻し審で無罪、1963年の最高裁判決で全員の無罪判決が確定した。松川事件はアメリカCIAの陰謀とする説が根強い。

田中耕太郎最高裁長官
戦前戦後の日本の法曹界の重鎮であったが、自己主張が強いため毀誉褒貶も、激しかった。
①東大教授兼文部省教育局長
田中耕太郎(1890~1974年)は、カトリック自然法思想にもとづく「世界法の理論」の論文で学位を得た(1929年)。終戦直後の1945年10月、東大教授と文部省教育局長を兼任し、全国の教職員の適格審査に当たった。これは占領軍の教育民主化政策として、軍国主義者を全国の学校から一掃するものであり、 130万人のうち7万3人を追放処分とした。
なお、追放された教職関係者は1952年4月のサンフランシスコ講和条約発効にともない、処分を解除された。
②緑風会
1946年に文部大臣に就任して、六三制を1948年から即時実施することを決定したものの、吉田茂首相と対立して辞職した。1947年に貴族院議員から参議院議員となり、無所属無党派議員集団としての緑風会を結成した。
③最高裁判所長官
1950年から1960年まで、最高裁判所長官として司法の独立と法廷秩序維持をめざした。周囲からの批判には耳を傾けない権威主義的姿勢が次第に目立った。
松川事件は一二審とも有罪判決にもかかわらず、最高裁判決(1959年8月)では、実質無罪の破棄差戻しとなった。この時、田中最高裁長官は少数意見として、最高裁判決そのものを厳しく批判した。
仙台高裁差し戻し審の最中、田中最高裁長官は検察側にテコ入れする姿勢を強め、法廷外の松川裁判支援闘争を批判した。仙台高裁には世論を雑音として無視するように指示した。
このため、松川事件被告弁護団は裁判の公正中立が失われるとして、田中最高裁長官の罷免を要求した。しかし、この訴追要求は認められなかった。
田中最高裁長官は1960年に定年となって国際司法裁判所判事に転じたので、1963年の松川事件最高裁の再審無罪判決には関与しなかった。

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岩戸景気で、地価年間上昇率が24%。

1960年02月03日 | 1960年
岩戸景気 
岩戸景気は1958年から61年まで42か月間続いた好景気であり、過去最高といわれた神武景気(1955~57年)を越えた。実質年間GNP成長率は12~14%の高率である。高度経済成長政策が具体的政策プランとなる前に、高度経済成長そのものがすでに始まっていたことになる。
岩戸景気の呼び方は、古事記において天の岩戸が神武天皇の登場よりも古いとすることに由来する。


民間設備投資
神武景気と比較すると、岩戸景気には重化学工業の民間設備投資増加に大きな特徴があった。1960年以後の日本の高度経済成長の基礎となった。その特徴は、
①スケールメリットの追求 
鉄鋼・石油・電器などにおいては、大量生産のための生産設備が開発導入された。大量生産によるコストダウンを実現し、輸出競争力の強化をめざした。
②工場の新規立地
単なる生産設備の更新ではなく、工場そのものを新しい地域に移転拡大した例が多い。特に石油化学コンビナートや鉄鋼・電力などは臨海工業地帯かその周辺地域に、新工場を建設した。
③貿易の自由化
1955年にGATT(関税と貿易に関する一般協定)に加盟したが、戦後処理の暫定措置として貿易自由化の延期は容認されていた。しかし、輸入制限をしながら輸出拡大が続いたためにアメリカからの風当たりが強く、1964年から輸入制限が段階的に緩和された。自由貿易の中で国際競争力を強化するため、新規に工場を建設し、新しい生産設備を導入する企業が増加した。
④競争の激化
企業が個別に新製品の開発や販売価格を競争するだけ段階から、銀行を中心とする系列集団間の競争に変質した。個人戦から団体戦への変質であった。終戦後、銀行は財閥解体の対象とされず、強い力を維持していた。経済的政治的影響力が強く、銀行は解体された財閥を、資本を通して復活させて、系列企業への融資を拡大した。
⑤投資が投資を呼ぶ
石油が化学・電力・繊維と結びつき、電器は鉄鋼・産業機械と結びついた。一産業の投資が他の異なる産業の投資を誘発した。産業間の関連性が強まり、大型投資ブームが到来した。資金を調達する銀行・証券の役割が重くなる一方で、各企業の系列化と相互依存が強まった。

地価の上昇
企業は高い利潤をあげた。その資金を工場建設などの再生産に積極的に投資することが多かった。地価の安い農漁村では、工場の進出、そのための道路・港湾・ダム・工場用地の造成などで、地価が上昇した。農地改革で安く手にした農地を、高値で得ることができ、「土地成金」が続出した。土地成金希望者が、工場の地方誘致を叫び、新産業都市・工業整備特別地域の指定が、地方を選挙地盤とする国会議員で検討された。
大都市郊外では、農山村から流入する都市労働者の住宅団地が大量に建設された。新しい住宅地、通勤新線建設用地、都心から郊外に移転する大学・高校の用地などとして、農地・山林が高値で売れた。
1億総不動産屋時代が、石油危機(1973,79)の時期を除き、1960年から90年まで続いた。土地価格の永久上昇の神話を信じてしまったので、企業も個人も永遠の財産としての土地を買った。銀行は、土地を担保に、土地を所有する法人企業にいくらでもカネを貸した。
1990年のバブル崩壊で地価は下落し、土地を所有する企業は銀行からの債務を返済できず経営破綻した。日本の大銀行は経営危機に陥ってしまい、財政による緊急融資を受けたが、銀行の破綻と統合が続いた。


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中国で凶作餓死2000万人以上か。

1960年02月02日 | 1960年
大躍進政策
中国では、毛沢東が共産主義国家建設のため、急進的な大躍進政策を進めた。1958年につくられた人民公社とは、共産党支配下の新しい農村であった。政治組織であるとともに、地主制廃止後の生産単位でもあった。自給自足が原則の、共産党の村が人民公社であった。
この頃、毛沢東は「人口が多ければそれだけ強いエネルギーが生まれる」と人口資本説(人手論)を展開した。婚姻法改正によって売買婚を禁止するとともに出生奨励を進めた。1960年の中国は人口爆発の状態にあった。
1959年の廬山会議(中国共産党中央委員会総会)では、国防部長彭徳懐が毛沢東の独善的な大躍進政策は農村を疲弊させると批判したが、逆に彭徳懐が毛沢東によって解任されて、大躍進政策が強化された。毛沢東は常に反毛沢東勢力攻撃の準備を進めるようになった。


非正常死2千万人
1959年~1960年に中国の人口が4千万人も減少した。そのうち、栄養失調や伝染病などによる死亡数は2千万人、栄養不足の女性による流産・死産などが2千万人であった。
竹のカーテンといわれる鎖国同然状態の中国で、毛沢東の独裁による悲劇であった。海外には、自然災害による大量死があったと伝えられた。しかし、当時は中国全土に農業が壊滅するような自然災害の事実はなく、毛沢東の大躍進政策の政治的失敗は明白であった。毛沢東の指導の具体的な誤りとして
(1)性急な人民公社化の失敗
土地なし農民は人民公社化によって農地を得た。農業の指導的地位にあった地主層は追放されて農地を失ったり、監視労働の処分を受けたりした。農地を無償で得たかつての小作農民は、公社(コミューンの意味)に安楽な生活を期待した。無理に働かなくても食うことができる(大鍋飯)と思い違いした。大鍋飯は日本の親方日の丸に相当する。
(2)過剰な生産報告による過剰な納税
各人民公社では毛沢東の指導の正さを実証するため、高い生産ノルマを掲げ、それが達成できたような報告をした。人民公社幹部が共産党内における地位を上げるため、そのような誤った過剰委報告が増加した。しかし、農民は相応の税負担(穀物)をしなければならなかった。重い税負担にあとには、どの人民公社にも食料は残らず、ひどい食料不足に陥った。
(3)飢餓難民の移動禁止 
1959年に「農村労働力の盲流制止に関する緊急通知」が出され、他の人民公社に食料を求めて移動することが禁止された。また、国境を越えて他の国に移動する難民についても、厳しく罰せられた。人民公社では、自力更生つまり自給自足が原則であった。
(4)海外への情報遮断
毛沢東政権下の人民公社では、いつでも豊作のニュースが内外に伝えられた。人災・天災による餓死のような、人民公社化の失敗を連想させるようなニュースは伝えられなかった。人から人への伝言の形で伝えられたニュースは、誇大な餓死者数があふれていたり、逆に過小な被害であったりした。海外からの援助は、毛沢東への敵意もあり、非常に少なかった。毛沢東も、受け取るほど困っていない、と自力更生の人民公社に執着した。

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北炭夕張炭鉱事故、死者41名。

1960年02月01日 | 1960年
北海道炭礦汽船(北炭)
北海道炭礦鉄道会社は1889年(明治22年)に設立され、官営幌内炭鉱と鉄道の払い下げを受けた。炭鉱労働者として囚人を使った。1903年(明治36年)には空知炭鉱と夕張炭鉱を開坑し、石炭輸送鉄道としては室蘭線を開通させた。この頃に汽船会社を買収して運輸業に乗り出したが、鉄道は政府に買収されたので、1906年、社名を北海道炭礦汽船に改めた。
室蘭に兵器生産のための輪西製鉄所を建設して軍需産業への進出をめざしたが失敗、三井系列下の日本製鋼に吸収された。


北炭夕張炭鉱
1960年のエネルギー政策の根幹は、石炭から石油への転換であった。国内の石炭産業は、高価格体質の石炭生産から撤退するか、合理化を進めて生産コストを下げて輸入炭に対抗するか、厳しい選択を迫られていた。いずれを選択しても、国内の炭鉱は合理化の荒波を受けなくてはならなかった。九州の三井三池炭坑では激しい労使紛争が起こり、総資本と総労働の対決といわれた。
北海道礦汽船夕張炭鉱(北炭)は、合理化に消極的であった。社長萩原吉太郎は政府の石炭合理化資金を炭鉱の合理化には振り向けず、北炭グループの三井観光開発を中心とするレジャー産業に投資した。萩原吉太郎は労働組合の支持で社長になった経緯があり、労使協調にこだわった。炭鉱の余剰労働者を、三井観光開発傘下の観光ホテルに配置転換した。さらに九州の三井炭鉱などの失業者を、北炭の夕張炭鉱や三井観光で受け入れた。
国内のエネルギーは石炭から石油への転換が進んだが、北海道内では萩原吉太郎の政治力で、高価格の国内炭を鉄鋼・発電などに押しつけて需要の安定を図った。
政府からは経営効率化のため豊富な合理化資金と安全対策資金が供給されたが、この資金が将来性のあるレジャー産業に投資された。北炭は総合レジャー産業に傾斜する姿勢を強めた。一方、高価格の石炭を押しつけられる需要者は、北炭の合理化と安全対策の遅れを厳しく批判していた。その中で、1960年2月1日深夜に夕張炭鉱でガス爆発事故が起こって41人死亡の惨事になった。


事故後の北炭  北炭はこの事故以後に、10年遅れの合理化と安全対策に着手したが、1981年に再度ガス爆発事故が起こった。安全対策への投資資金を調達できず、しかも北海道内の高価格の石炭が北海道の経済不況の原因と非難された。
萩原吉太郎は夕張炭鉱の再建に失敗し、閉山した。労使協調という日本的労働慣行の美風が夕張炭鉱の悲劇の原因といわれた。
夕張市の人口は1960年には10万人を越えたが、石炭産業の消えて久しい2000年には1万6千人に減少した。かつて、黒ダイヤといわれた、石炭産業全盛の賑わいはない。メロンの産地として有名であり、かつて石炭産地であったことを知る者が少ない。

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アラビア石油、ペルシャ湾で海底油田試掘に成功。

1960年01月31日 | 1960年
アラビア太郎
秋田県平鹿郡大森町出身の山下太郎(1989~1967年)は札幌農学校(北大)卒業後、オブラートの製造特許で元手を得、穀物やサケ取引に手を広げた。さらに満鉄の社員住宅の建設によって莫大な利益をあげて、満鉄太郎といわれた。
満鉄(南満州鉄道株式会社)は鉄道を経営して石炭・大豆などの独占輸送で利益をあげる一方、撫順炭鉱・鞍安製鉄所なども経営するコンツェルンとして、日本の財閥・官僚・政商の大きな利権になっていた。日中の中国侵略は満鉄の権益拡大が一つの目的であった。
満鉄は戦後、日本の保守政界の最大の金脈・人脈になった。山下太郎はそれを利用し、インドネシアの石油開発のための日本石油株式会社を設立した(1956年)。
スエズ戦争後、中東では民族主義運動が盛んになった。サウジアラビア王族は、米メジャー系のアラムコが安く独占していた石油開発の利権を、日本の政商山下太郎に高く売る意図で、石油利権情報を流した。山下太郎は、国内の原油需要の増大を見通し、インドネシアの石油開発を放棄し、サウジ王族の誘いに乗った。アラビア太郎といわれた。



アラビア石油
1957年、山下太郎はペルシャ湾とその周辺の油田開発のため、サウジ王族と直接交渉して、ペルシャ湾の中立地帯における開発利権を得た。それまではメジャーと産油国の利益は50%ずつの折半であったが、山下太郎は取り分を44%に引き下げた。また、石油採掘利権の期限を44年間とし、毎日300万円をサウジアラビアとクウェートに支払うことにした。サウジ側には破格の好条件であった。
しかし、アラビア石油には大きな負担であった。山下太郎は、油田開発の費用負担と輸入原油の需要先確保のため、鉄鋼・電力の各社の出資金合計35億円でアラビア石油株式会社を設立した(1958年)。満鉄時代の人脈をフルに利用して、アラビア石油の役員には経団連会長の石坂泰三をはじめ財界首脳をかつぎだした。社長は山下太郎であった。
1960年1月31日、ペルシャ湾の海底油田第1号の試掘に成功し、カフジ油田と名づけられた。さらに海底油田の開発が進められた。1970年には日本の輸入総量の10%を、アラビア石油が占めるまでになった。


アラビア石油の採掘権失効
2000年2月28日、アラビア石油がサウジアラビアから得ていた石油採掘権益は、契約期限切れで失効した。延長の条件として、サウジアラビアは国内に全長1400kmの鉱山鉄道の建設を持ち出した。
アラビア石油は、鉄道建設資金2000億円とその後の運営資金を負担できないため、サウジの条件を拒否して、採掘権が失効させたのであった。山下太郎が契約時点で、サウジ王族の言いなりの条件で、採掘権を獲得したことが問題の発端であった。2000年の契約拒否にはアラビア石油に対し、メジャーから強い圧力があった。

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参議院緑風会解散、参議院同志会として再出発。

1960年01月30日 | 1960年
緑風会(りょくふうかい)
日本国憲法は第2次世界大戦後、1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行された。1947年4月20日の第1回参議院議院選挙では、当選した250名の中で、108名が特定政党に属さない無所属議員であった。
無所属議員が政治的意思を表明するための組織として、緑風会を結成した。旧貴族院勅撰議員の山本有三(作家、本名山本勇造)・田中耕太郎(法学者)・佐藤尚武(外交官)が中心になって無所属議員96名を集めた。当時、緑風会が参議院の最大政党であった。
緑風会では議員個人の自由な意思が尊重されて、多数を占めるために党利党略で動くことはなかった。会派の決定に投票行動を拘束されることもなかった。ゆるやかなクラブのような参院会派であった。山本有三の人道的理想主義的な態度を反映していた。
参議院議長の初代は松平恒雄、2代目は佐藤尚武、3代目は河合弥八、いずれも緑風会出身であった。緑風会の政治姿勢は常に是々非々であって、良識の府といわれた。文化財保護法は緑風会の議員提出法案であった。



緑風会から参議院同志会へ
緑風会には党派的特徴がない結果として、常に衆議院・参議院の与党を補完する役割を果たした。通常選挙(参院選挙)や議会多数派工作では、思想信条の似通った与党の草刈り場になり、緑風会の独自性は次第に消えた。緑風会から、他会派への所属替え議員が増えた。1956年の通常選挙では自民党が参議院第一党になった。衆議院は憲法上も参議院に優越し、しかもその参議院の少数会派緑風会は、政治的影響力が弱くなった。
1960年1月30日、緑風会は参議院同志会に改称した。無所属議員が減り続け、1965年にその参議院同志会が解散した時には、奥むめおと佐藤尚武の引退間際の2人だけであった。
その後の参議院は第2院として衆議院のチェックをする機能を失い、衆議院と同様、各議員は政党の決定に従って行動することが多くなった。良識の府といわれた参議院は党利党略で動くため、衆議院のカーボンコピーと批判されて、その存在意義を問われるようになった。


山本有三(1887~1974)
本名は山本有造、栃木県出身。苦学して東大独文科に入学した後、同級生の芥川龍之介らと文学活動を展開し、戦前は劇作家・小説家として活躍しながら、検閲に強く反対した。代表作としては『生命の冠』・『女の一生』・『真実一路』などがある。文芸家協会設立に政治的手腕を発揮した。
戦後は貴族院の勅選議員になり、続いて参議院議員として緑風会設立に尽力した。緑風会では、国政を政党として動かすのではなく、政治家個人の良識で動かそうとした。緑風会が参議院第一党である間は、参議院は衆議院のチェック機能を果たした。山本有三の影響が大きかった。1965年、文化勲章を受章した。


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日本の遠洋漁業に国際的規制が強化される。

1960年01月29日 | 1960年
遠洋押し出し
サンフランシスコ講和条約(1951年)による日本の主権回復、水産物の需要増加、漁獲技術の進歩により、日本の水産業は沿岸漁業から沖合へ、沖合漁業から遠洋漁業へと、積極的に遠くに出漁するようになった(遠洋押し出し政策)。
特に他の漁場から北洋底引漁業に転換する北転船が多かった。1960年、北洋母船式底引網船団は13船団が出漁し、カレイ・ニシン・オヒョウ(ヒラメ)など50万トンの水揚げがあった。
マグロ漁船(200~400トン)はインド洋・大西洋にまで出漁した。2千トン以上の大型トロール漁船は、アフリカ沿岸やニュージーランド沿岸で、タイやその他の底魚を漁獲した。
中国・韓国・ソ連・アメリカ・カナダなど沿岸各国は日本漁船の進出を規制するため、日本にとっては著しく不利な漁業条約を結んだ。日本国内には自国漁船を守るだけの軍事的実力がないために国辱的な漁業条約を押しつけられた。国内では再軍備を求める、右翼が支持を広げた。



北太平洋漁業条約(1953年)
日本・アメリカ・カナダの3国の漁業条約。西経175度以東の海域においてはサケ・マス・オヒョウ・ニシンの漁獲が禁止された。出漁国は日本だけなので、実質的には、西経175度以東における遠洋漁業の禁止であった。1962年の改定でもサケ・マスの漁獲は禁止されたが、他の魚種は資源に余裕のある範囲で規制が緩和された。


日ソ漁業条約(1956年)
東経175度以西のベーリング海とオホーツク海において、サケ・マス・カニの漁獲量を制限した漁業条約である。
日ソ漁業委員会において、日ソ両国に対し、資源維持のための適切な漁獲量を割り当てたが、日ソ漁業委員会は毎年紛糾して、割当量を定めることが難しかった。
例年、両国外務大臣の直接交渉によって政治的決着が図られた。ソ連は自国河川や領海内で産卵したサケ・マス・カニはソ連のもの(母川国主義)とする立場で、日本の漁獲可能な資源見積もり量を減らした。
日本の北洋遠洋漁業には漁獲割当量の削減が続いて採算がとれなかった。サケ・マス漁船は、北洋タラ漁や南洋マグロ漁への転換が相次いだ。


李承晩ライン
韓国の李承晩大統領は、1952年1月18日、日本漁船の操業規制海域を設定を宣言した。韓国沿岸からほぼ 200kmの海域では、日本漁船がアジ・フグの漁獲が禁止された。
日本漁船326隻が李承晩韓ラインを越えて、韓国の武装警備艇に拿捕された。日本国内には、李承晩韓ラインに日本の自衛隊と海上保安庁が出動し、日本漁船を守るべきであるとの主張もあったが、憲法の制約で外国軍との軍事衝突を起こす活動はできなかった。日韓国交正常化交渉の結果として、1965年に李承晩韓ラインは撤廃された。

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東京から新首都への遷都が、検討された。

1960年01月28日 | 1960年
遷都論
1960年前後は農村の人口過剰と首都圏の工業発展により、東京への人口集中が著しかった。東京から首都機能を移転して東京の人口過密を防ぐ計画はあった。地方農村に首都移転という巨大プロジェクトがスタートすれば、ゼネコン(土木事業会社)に大きな利益が転がり込み。その公共事業そのものが真の目的であった。
いくつもの首都移転計画は提案されたものの、どの計画も我田引水であった。土地の買い上げ経費や、他の候補地との調整の問題が解決できず、すぐに消えてしまった。

1959年-東京湾新東京造成論(加納久朗住宅公団総裁)/東京湾の一部を埋め立て、そこに官公庁や皇居などを移転する。  
1959年-ネオン東京プラン(産業計画会議)/東京湾の埋め立て地には皇居は移転せず、工場・住宅・官公庁を移転する。
1959年-横浜遷都論(都留重人一橋大教授)/農地・台地の広がっていた横浜(当時)に、首都を移転する。
1960年-中央道遷都論(日本生産性本部郷司浩平)/富士山麓までの中央道e沿線に国会・官公庁を移転する。
1960年-「富士の都」建設案(磯村英一東京都立大教授)/富士山麓に国会を移転する。
1960年-東京計画1960(丹下健三東大助教授)/東京湾に巨大な人工島を建設し、首都を移転する。
1960年-三河・浜名湖遷都論(伊藤郷平愛知学芸大教授)/首都を愛知三河・静岡浜名湖に移転する。



東京の改造
イギリスのニュータウン計画をモデルにした首都圏整備法がつくられ(1956年)、関東全域の広域的な都市計画によって、都市問題の解決が図られた。
東京駅を中心に、15km以内を都心地域、その外縁に幅10kmのグリーンベルト、25km以遠を周辺地域とした。
多摩ニュータウンや筑波研究学園都市は、周辺地域(25km以遠)に計画された都市である。しかし、グリーンベルトは乱開発が進んだため、第2次首都圏整備計画(1968年)では消滅した。


東京オリンピック
広域的な都市計画や東京の人口過密対策は、1964年の東京オリンピック開催準備のために後回しにされた。政府と東京都の公共事業は首都圏の整備ではなく、東京都心に限定された道路整備・首都高速道路建設、地下鉄・新幹線・モノレール建設などが進められた。
公共土木事業は、ゼネコンに大きな利益を与えた。東京オリンピックを錦の御旗にすることで、土地の買収や住宅の移転は簡単にできた。
それまで東京の交通網は動脈硬化といわれるほどの破綻ぶりであったが、オリンピックを口実にした都市再開発事業で、東京都心は近代的都市に生まれ変わった。
石原東京都知事は、東京の大改造のため、ロンドンの次、2016年のオリンピック誘致に、真剣に取り組んでいる。


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