水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

参議院緑風会解散、参議院同志会として再出発。

1960年01月30日 | 1960年
緑風会(りょくふうかい)
日本国憲法は第2次世界大戦後、1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行された。1947年4月20日の第1回参議院議院選挙では、当選した250名の中で、108名が特定政党に属さない無所属議員であった。
無所属議員が政治的意思を表明するための組織として、緑風会を結成した。旧貴族院勅撰議員の山本有三(作家、本名山本勇造)・田中耕太郎(法学者)・佐藤尚武(外交官)が中心になって無所属議員96名を集めた。当時、緑風会が参議院の最大政党であった。
緑風会では議員個人の自由な意思が尊重されて、多数を占めるために党利党略で動くことはなかった。会派の決定に投票行動を拘束されることもなかった。ゆるやかなクラブのような参院会派であった。山本有三の人道的理想主義的な態度を反映していた。
参議院議長の初代は松平恒雄、2代目は佐藤尚武、3代目は河合弥八、いずれも緑風会出身であった。緑風会の政治姿勢は常に是々非々であって、良識の府といわれた。文化財保護法は緑風会の議員提出法案であった。



緑風会から参議院同志会へ
緑風会には党派的特徴がない結果として、常に衆議院・参議院の与党を補完する役割を果たした。通常選挙(参院選挙)や議会多数派工作では、思想信条の似通った与党の草刈り場になり、緑風会の独自性は次第に消えた。緑風会から、他会派への所属替え議員が増えた。1956年の通常選挙では自民党が参議院第一党になった。衆議院は憲法上も参議院に優越し、しかもその参議院の少数会派緑風会は、政治的影響力が弱くなった。
1960年1月30日、緑風会は参議院同志会に改称した。無所属議員が減り続け、1965年にその参議院同志会が解散した時には、奥むめおと佐藤尚武の引退間際の2人だけであった。
その後の参議院は第2院として衆議院のチェックをする機能を失い、衆議院と同様、各議員は政党の決定に従って行動することが多くなった。良識の府といわれた参議院は党利党略で動くため、衆議院のカーボンコピーと批判されて、その存在意義を問われるようになった。


山本有三(1887~1974)
本名は山本有造、栃木県出身。苦学して東大独文科に入学した後、同級生の芥川龍之介らと文学活動を展開し、戦前は劇作家・小説家として活躍しながら、検閲に強く反対した。代表作としては『生命の冠』・『女の一生』・『真実一路』などがある。文芸家協会設立に政治的手腕を発揮した。
戦後は貴族院の勅選議員になり、続いて参議院議員として緑風会設立に尽力した。緑風会では、国政を政党として動かすのではなく、政治家個人の良識で動かそうとした。緑風会が参議院第一党である間は、参議院は衆議院のチェック機能を果たした。山本有三の影響が大きかった。1965年、文化勲章を受章した。


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