水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

これからは保健手帳で救済か

2006年10月14日 | 水俣病
医療手帳(2006年8月31日現在、5971人)
水俣病発生地域において、水俣病の認定は却下されたが、水俣病特有の病状がある患者に医療手帳が交付されている。認定患者のような慰謝料、年金は支給されないが、医療費と介護費用はタダになる。温泉・針灸分7500円(最高月額)が支給される。病院への交通費として医療手当が2万円も支給される。

保健手帳(2006年8月31日現在、1983人)
水俣病の病状の軽微な者に、医療費と介護費用がタダになる保健手帳が交付される。温泉・針灸に対して月額最大7500円が支給される。医療手当2万円は支給されない。


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1992年から1996年まで、認定の却下された水俣病患者救済手段として受け付けられ、医療費負担は軽減された。水俣病患者は、認定患者、医療手帳患者、保健手帳患者の3ランクに分けられた。
財政負担の最も軽い保健手帳は、2004年の関西水俣病訴訟で国が敗訴してから、受付が復活した。

水俣病認定患者は慰謝料1400万円、年金月額10万円前後である。これと比較すると、医療手帳と保健手帳は非常に安上がりの救済手段である。チッソの経営と、県・国の財政に配慮した制度である。
水俣病認定制度が行きづまり、老人医療費が高騰したため、水俣病認定申請を断念して、保健手帳の申請者が増えている。政府のねらいが的中したことになるが、患者にとっては幸福なことではない。
1973年の熊本地裁判決は加害企業を糾弾した点では画期的であったが、水俣病患者の救済という点では無力であった。国が県にやらせた認定制度で、水俣病患者が救済されなくなることを、この時の判決では予想していなかった。先見性の欠如は、チッソが工場排水中にメチル水銀があることを予想しなかったのと同じである。

熊本地裁判決(1973)は間違いだったかも?

2006年10月12日 | 水俣病
水俣湾を埋め立てた親水公園から、恋路島を見ながら、1973年3月20日の熊本地裁の裁判の勝者は誰で、敗者は誰か、ゆっくり話し合った。夕闇がせまる頃、うしろのエコグランドから、谷村新司と大黒摩季の野外ジョイントコンサートの歌声が、せつなく聞こえてきた。




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●熊本地裁におけるチッソの主張
チッソが水俣工場で使用していたのは無機水銀である。触媒として使うとメチル水銀が生成され、それが工場排水中に含まれるとは知らなかった。1950年代、1960年代の化学工業の国際的水準において、アセトアルデヒドの製造工程でメチル水銀が生成されることは知られていなかった。また、メチル水銀が水俣病の原因であることも予見できなかった。したがって、チッソは水俣病に対して責任はない。

◆熊本地裁はチッソの主張を厳しく批判した。
チッソは工場排水による被害者が出た段階で、排水の有害性に気づいたはずである。排水中の有害物質を最高の技術で調べ、排水中の有害物質を取り除かなくてはならなかった。
排水中に何らかの有害物質の存在することに気づいたのに、死者が出るまで何の研究調査も、具体的対策も講じなかったということは、悪質な人体実験である。
化学工場のような有害物質を排出する工場では、最高の科学技術を用いて排水中の有害物質を検出し、有害物質の排出を止めなくてはならない。それができない場合には、工場の排水を止めるか、工場の操業を止めなくてはならない。


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1973年の熊本地裁判決は、間違いだったかもしれない。
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熊本地裁判決は、1950年代の化学工業に、1970年代の知識を求めた。
工場が有害物質を含む排水を海に流すことは、当時の化学工場の常識であった。製紙・鉄鋼・メッキなどの工場は、海に未処理の排水を流していた。自然界には浄化作用があり、有害物質を含む、汚れた工場排水はきれいな水になると思われていた。海が工場排水のために汚染されることは、あり得ないと考えられていた。
レイチェル・カーソン女史の「沈黙の春」は1962年刊行である。川・湖・海が化学物質で汚染される恐怖を描いた。レイチェル・カーソンは、化学実験で考えたのでもなければ頭で考えたのでもない、子宮で考えたのだ、と批判された。
和訳は当初「生と死の妙薬」として1964年に出版された。翻訳は青樹簗一だが、実名ではない。大学研究者としてのポストを失うことを恐れ、仮名で翻訳出版した。
つまり、1960年前後は、日米ともに自然界に放出された化学物質が人体に大きな害を与えるとは、研究者においてさえ、知られていなかった。
それを熊本地裁が、チッソの技術水準で有害物質を発見できる、と判断したことは誤りである。チッソは排水中の有害物質を検出できなかったのであるから、有害物質を除去できるまで操業を中止すべきであった、と厳しく判断する方が妥当だろう。
当時の科学技術の水準はそんなに高いものではなかった。それに民間企業は最大の利益を求める組織体であり、法で禁止されない限り、あらゆる活動が許されるのであり、当時の法体系では、工場排水を河川・湖・海に流すことは違法ではなかった。

1956年 水俣病第一号患者がチッソ附属病院が公表。
1959年-熊本大学医学部が水俣病はメチル水銀中毒と発表。
1962年-レイチェル・カーソン「沈黙の春」、アメリカで発売。   
1963年-入鹿山熊大教授、水俣工場排水中から有機水銀検出。
1964年-「沈黙の春」を「生と死の妙薬」として、翻訳者匿名で発売。


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政府は水質二法による規制をしなかった。これが不知火海汚染の原因であった。
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1958年に「公共用水域の水質の保全に関する法律(法律第181号)」と「工場排水等の規制に関する法律(法律182号)」が制定された。通常は、「水質保全法」と「工場排水規制法」、現在はあわせて旧水質二法といわれる。
旧水質二法は1950年代に顕在化した水質汚染問題、水俣病・イタイイタイ病への対策として制定された。しかし、旧水質二法は問題水域を個々に指定したため、規制内容に徹底を欠いた。当時の経済企画庁は力が弱く、通産省に押し切られる形で、チッソ水俣工場の排水域を、水質二法の適用外とした。
このため、法的にチッソの工場排出を止める根拠を失った。チッソはメチル水銀を含む工場排水を水俣湾に、1958年からは不知火海に流し続けた。
政府は1958年以降の不知火海汚染を止める法的手段はあった。しかし、行政の不作為というより、通産省のチッソ養護の姿勢のため、不知火海にメチル水銀が拡散し、水俣病は不知火海沿岸に拡大した。チッソ水俣工場の排水を法的にあえて規制しなかった通産省の責任は重大である。

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熊本県は漁業調整規則で、工場排水を規制しなかった。これが水俣病拡大の第2の原因であった。
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熊本県知事には、熊本県漁業調整規則32条によって、チッソ水俣工場の排水を規制できる権限があった。権限を行使し、チッソに対し総水銀の「除害設備」設置を命じて、工場排水を規制すべきであった。
しかし、熊本県はチッソ水俣工場の存続を優先し、水俣病拡大をおさえるための行政責任を果たさなかった。水俣病患者の増加よりも、チッソ水俣工場を存続させる方が重要であった。


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水俣病患者は1977年から環境庁の「52年基準」で認定されない限り、チッソの補償を受けられなくなった。石原環境庁長官が、1973年熊本地裁判決を空文化した。
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1973年の熊本地裁の判決でチッソの姿勢が厳しく糾弾された。しかし、水俣病患者は、熊本県の選出した審査委員による水俣病認定という審査をパスしない限り、何の補償も受けられなかい。
水俣病認定審査は最初のうちは大半がパスできたものの、1977年に国が認定基準を設定(52年要件)すると、水俣病の認定審査を通らない人数の方が多くなった。
例えば、1978年は認定125人、棄却365人であった。
1979年には認定116人、棄却657人であった。
水俣病患者の敵は、チッソから、認定審査会に代わった。認定を求める裁判が続出した。
1973年の熊本地裁判決の意義は、認定審査会に伝わらなかった。審査委員会はチッソの補償金を低くおさえるため、認定申請の多くを棄却した。特に不知火海沿岸漁民の認定申請には、非常に冷たかった。
52年基準つまり患者切り捨ての審査基準を設定した時の環境庁長官が、現在東京都知事の石原慎太郎である。


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2004年、最高裁は52年要件は誤りと断定したが、政府は誤りでないとしている。
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2004年、関西水俣訴訟団の最高裁判決で、52年要件全部を満たす水俣病患者ばかりではないと述べた。司法の判断基準では、水俣病特有の症状が一つでもあれば、水俣病と認定できることになった。
しかし、政府は52年要件を存続させる姿勢を変えないことを表明した。この結果、水俣病認定には最高裁のような典型的症状一つでもOKとする場合と、水俣病審査委員会の52年要件(判断基準)のように複数の病状現れた場合には水俣病と認定する場合と、2つの基準が存在する状態になっている。

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政府は52年要件を続けることで、水俣病患者の新規認定をおさえている。
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2006年9月、環境省大臣の水俣病認定についての私的諮問委員会において、委員の柳田邦夫が、水俣病認定審査基準の見直しの答申文を書いた。しかし、環境省職員が環境省見解と異なる答申文は答申文ではない、として、受け取りを拒否。52年要件(判断基準)は存続することになった。
チッソの利益に熊本県・国の財政支援をしない限りは、認定水俣病患者の医療費、年金を払えない。
県・国は財政難のため、水俣病患者の認定を棄却することで、支出をおさえようとしているのである。

水俣病患者数3万人

2006年10月12日 | 水俣病
水俣病は次の4種類があり、水俣病患者総数は2~3万人と推定される。全員を水俣病として公式認定するとチッソは倒産になるので、①による政治決着を急いだ。しかし、④のような公式認定を求める水俣病患者が1万人以上もいる。④の場合、チッソの経済的負担が急増し、現行の補償制度が崩壊する。このため、政府は52年要件にもとづく認定制度をかたくなに守っている。水俣病患者の認定は、2000年以降、一人もいない。
水俣病患者は、一応、次の4型に区分される。
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①村山政権時代に政治決着として、最終的な解決として、一時金260万円を受け取った水俣病未認定患者10,353人。
②2004年の関西水俣病訴訟の勝訴で水俣病に認定された50人。各種の裁判で水俣病と認定された者は、合計7,890人。
③水俣病であることを隠したり、気づかずに生活している者が20,000~30,000人。
④行政に公式認定された水俣病患者数(2006.5.31まで)
熊本県  1,175 人(うち1,277人は死亡)
 鹿児島県  490人(うち305人は死亡)
 合 計  2,265人(うち1,582人は死亡)
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水俣病に公式認定されと、チッソから慰謝料(1,600~1800万円)、医療費(全額)、年金(月額68,000~173,000円)が支給される。チッソはこれまで1,200億円以上を支払ってきたが、半分は熊本県からの借金である。チッソをつぶすと熊本県の不良債権となるため、チッソの補償を支援してきた。
水俣病患者が増加すると、チッソも熊本県も経済的に苦しくなるので、国と県は、認定患者を増やさない方針である。
水俣病の認定は、経済的・政治的・社会的な情勢で決まる。水俣病の病状で決まるのではない。水俣病の病状のある者の総数は2~3万人といわれている。
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チッソから慰謝料、年金、医療費を支給されるのは公式の認定患者であり、死亡を含め2,265人である。
環境省の昭和52年判断条件(1977)以後、水俣病認定基準が厳しくなり、2000年以降の水俣病認定数はゼロである。当時の環境庁長官は石原慎太郎(都知事)である。
熊本県の水俣病認定者推移
1968年認定44名はチッソとの見舞金契約(1959年)から1968年までの合計である。認定合計1,775名である。52年基準(1977年)以降の水俣病認定者数は減り、2000年以後、水俣病認定はゼロである。




2004年の関西水俣病訴訟最高裁判決で52年基準が否定され水俣病の認定基準が2つになった。環境庁の52年基準と、2004年の最高裁判決の基準である。
最高裁判決に従えば、これまでの認定棄却には誤りが多数含まれ、認定患者が増えることになる。そのため、認定審査委員は全員辞任してしまい、後任委員が選任できなくなった。認定作業は中断したままである。
環境省は最高裁判決を無視し、政府の52年基準を堅持する方針である。水俣病患者の高齢化による死亡を待ち、水俣病患者の自然的減少で、補償金を減らす長期戦である。水俣病患者の自然消滅を待つ姿勢である。

1959年、水俣病の終わり(① 見舞金契約)

2006年10月10日 | 水俣病
1959年12月30日、チッソと水俣病患者の間で、見舞金契約が結ばれた。その趣旨は
(1)チッソは、水俣工場からの排水が水俣病の原因とは考えていない。
(2)将来、水俣工場の排水が原因と分かっても、チッソに何も要求しない。
(3)死亡者に30万円、生存者に10万円を、見舞金として支給する。

チッソ側が一方的に有利な契約であった。チッソが水俣病患者の死亡者・生存者に出すのは、一度限りの見舞金であった。チッソは水俣工場の排水には責任を負わないし、チッソの経済的負担をこの見舞金を最後とし、将来はチッソにどれだけの原因があることが判明しても、カネを出さないとするものであった。
働き手が水俣病に罹患した水俣湾の漁民家族にとって、わずかの金額の、たとえ1回だけの最後の見舞金でも、年末の貴重な収入であった。
水俣病はこれで終わりであった。
この見舞金契約が精神的束縛となり、裁判によるチッソの責任追求は、新潟水俣病の提訴(1967)よりも、1年遅れた(1968年6月14日)。
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1959年12月25日、見舞金契約の交渉中、厚生省には「水俣病患者診査協議会」が作られ、水俣病患者の認定作業を行うことになった。
水俣病認定の作業は、チッソの見舞金対象者を確認することから始まり、現在に至っている。誰が見ても水俣病と見えても、認定審査会による認定を受けない限り、チッソからの見舞金を受け取ることができなかった。認定審査会による患者の絞り込み作業は、チッソの支払いをできるだけ少なくすることが目的である。
つまり、見舞金契約で水俣病は終わるはずであったが、見舞金をもらうための認定作業がさっぱり進まかった。水俣病患者の戦いの相手は、チッソから、チッソと認定審査会の連合軍との戦いになった。
このような行政と大企業の連係は、行政(通産省、厚生省)が主体になり、1959年以前には水俣病の原因追求を妨害したり、水俣病認定作業を遅らせるような基準を作ったりした。



写真左が百間排水路方向。いくつかの排水口からメチル水銀が排出されて、百間港にメチル水銀が100トン以上も堆積した。魚介類を通して、水俣湾の漁民とその家族に水俣病を発症させた。
右が丸島排水路方向。途中、メチル水銀が排出されることはなく、丸島港にはメチル水銀は堆積しなかった。しかし、丸島の漁民の中には、百間港で水銀汚染された魚介類を通して、水俣病を発症する者が多かった。


1973年、水俣病の終わり(② 熊本地裁で患者勝訴)

2006年10月09日 | 水俣病
水俣病の認定を受けられなかった水俣病患者112名が患者家庭互助会を結成、1969年6月14日に、チッソを相手に、6億4千万円の慰謝料を求め、熊本地裁に民事提訴した(第1次訴訟)。
新潟水俣病が昭和電工を提訴したのは1968年である。熊本水俣病の訴訟が1年遅れたのは、1959年の見舞金契約で今後はチッソの責任を問わないと約束した水俣病患者が多かったことと、水俣病には伝染病・遺伝病などの偏見が多く、未認定患者が集団訴訟に躊躇したためである。
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1973年3月20日、熊本地裁判決は、患者側の全面勝訴であった。水俣病の発症と拡大は、チッソに原因と責任があった。

◆裁判におけるチッソ側の主張
チッソ水俣工場で触媒として使用したのは無機水銀であり、アセトアルデヒド製造工程でメチル水銀に変わることは予見できなかった。排水中にメチル水銀が含まれることも、それが人体の中枢神経を破壊して水俣病を発症させることも予見できなかった。メチル水銀の生成も、水俣病の発症も、当時の最高の化学的知識では知られていないことであるから、チッソには水俣病の責任がない。

◆熊本地裁判決(チッソを批判)
①チッソの言い分によれば、環境が汚染されて住民の生命が危うくなる時まで、メチル水銀のような有害物質を排出してもやむを得ないということになる。その結果として住民の生命が失われることもあり、工場排水による人体実験そのものである。チッソは、排水中に予想外の危険物質が含まれる可能性があれば、操業を中止してでも安全を確保しなくてはならない。
②チッソは、排水中にメチル水銀の含まれていることを知らなかったのではなく、調べなかったのである。1955年には文献上、分かるはずであった。
③チッソは1958年に排水口を水俣湾から、水俣川河口の八幡プールに変更し、水俣病を不知火海沿岸に拡大させた。これは誰でも予想できることである。
④見舞金契約は、あとの事実究明によってもチッソのみが有利で、患者側は著しく不利になる。公序良俗に反し、無効である。

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1973年の熊本地裁判決によって水俣病患者がすべて、チッソによって救済される、あるいは金銭的補償を得られると期待し、水俣病は終わりと確信していた。
ところが訴訟に直接参加した112名だけがAランク1800万円、Bランク1700万円、Cランク1600万円の補償金を受け取ることができたが、他の水俣病患者は補償の対象外とされた。
水俣病患者団体とチッソとの補償協定書で、患者団体が弁護士などを除いて交渉したために、法的無知につけこまれ、チッソにだまされた。
それは、行政(国、熊本県)の水俣病認定を受けた者だけが、チッソから補償金を受けられるとした点である。
水俣病認定審査会の認定は最初はゆるやかであった。しかし、チッソの水俣病関連の総支出額は1,200億円を越え、経営が行き詰まった。政府はチッソを存続させ、水俣病認定患者を救済するため、1977年(昭和52年)に認定基準を厳しく設定した。
2万人の水俣病患者は、1977年の認定基準(52年要件)を撤回させて水俣病患者の認定を受けるため、政府を相手に新たな裁判闘争を始めなくてはならなかった。
水俣病の進行と老齢化のため、身体の自由がきかなくなり、しかも裁判費用も捻出できない患者が多かった。司法による救済を求める裁判闘争は、なかなか進まなかった。

政府は熊本県に水俣病患者の認定を減らすことを指示し、チッソの経営難、国・熊本県の財政難を乗り越え、高齢の水俣病患者が死に絶えることを待つ姿勢を強めている。2005年の水俣病懇話会の提言には、認定基準の見直しが書かれていたが、環境省庁はそれを現行の認定基準がベストであると書き直しをさせた。

1995年、水俣病の終わり(③ 村山政権の政治決着)

2006年10月06日 | 水俣病
水俣病患者のうち、未認定患者は金銭的補償も医療も受けることができず、裁判に救済を求める動きが強まった。
1995年、社会党連立村山富市首相は未認定水俣病患者を救済するとともに、長期裁判による政治不信を払拭するため、医学的制約を超えて政治決着を急いだ。
社会党が連立与党となる条件として、自衛隊を軍事力と認め、非武装中立論を放棄していた。260万円の一時金支給は、右傾化した社会党の、罪滅ぼしの意味が強かった。1995年、村山政権と患者団体が和解し、一時金が支払われた。

●一時金260万円。
申請患者10,353人に支給。訴訟中の者は、訴訟取り下げることが条件である。
●医療手帳
医療費をタダとし、医療手当として月2万円を支給する。
●保健手帳
軽微な患者は医療費をタダとするが、医療手当を支給しない。裁判中の患者には、訴訟を取り下げさせる。
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村山政権は、政府の水俣病認定審査における52年基準を改めなかった。水俣病認定申請者の大半は却下されて、裁判で認定させる患者が増加していた。村山政権が、260万円の一時金支給をしたことで水俣病問題は、全部終わりのはずであった。
しかし、裁判で水俣病認定を求めて勝訴した者は、1000万円~2000万円の一時金を得ることができた。このため、一時金を拒否して裁判を続ける患者が多く、村山政権による260万円は、水俣病の最終決着にはならなかった。10,353人という患者数は予想よりも少なかった。

水質二法はチッソを対象外

2006年10月01日 | 水俣病
1958年に「公共用水域の水質の保全に関する法律(法律第181号)」と「工場排水等の規制に関する法律(法律182号)」が制定された。通常は、「水質保全法」と「工場排水規制法」、現在はあわせて旧水質二法といわれる。

旧水質二法は1950年代に顕在化した、水俣病・イタイイタイ病への対策として制定された。しかし、旧水質二法は問題水域を個々に指定したため、規制内容に徹底を欠いた。工場排水に含まれる鉛・カドミウム・有機水銀などをまとめて規制することができなかった。いわゆるザル法であり、1960年代の阿賀野川水銀汚染(第2水俣病)やイタイイタイ病発生を容認する結果となった。



旧水質二法の制定は1958年、水俣病の原因がメチル水銀と判明する前年の法である。工場排水による海洋汚染が、人間の健康・生命に深刻な影響を与えることは分かっていた。チッソ水俣工場はアセチレンからアセトアルデヒドを製造する、世界最先端技術であったため、水質二法の適用外になった。チッソ水俣工場が適用外になったのは、当時の通産省のトップの方針といわれている。
チッソ水俣工場のメチル水銀放出について、通産省の認識はきわめて甘かった。旧水質二法は、水俣病対策としては、何の役にも立たなかった。1973年の熊本地裁判決では、旧水質二法に関しての行政の不作為が厳しく批判された。
工場排水を一括規制できるようになったのは、1970年に水質汚濁防止法が代替法として制定されてからのことである。
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満州閥というものがある。旧満州国や現北朝鮮あたりで利権を手にして、敗戦で満州国崩壊後には、利権(金品)を手に無事に帰国し、戦後日本の政治経済を牛耳った。利権の源泉は、満州の現地中国人御用商人にアヘン売買の権利を売ったことにあった。その利権の周辺に、植民地主義者が大勢集まった。
チッソを創設したのが野口遵である。野口コンツェルンは、戦前戦中は有力財閥であった。植民地北朝鮮に進出し、安い水力発電を利用して肥料を生産し、北朝鮮・満州農民に販売した。日本にも輸出した。
1958年制定の水質二法を骨抜きにしたのは、満州閥の首相岸信介の意を受けた通産大臣池田勇人であった。池田勇人は1960年の岸信介のあと、首相になって高度経済成長路線を突き進んだが、各地で公害問題・環境問題が深刻になった。