水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

公安調査庁、学生諸派に破防法適用か。

1960年01月18日 | 1960年
公安調査庁
終戦後の日本の治安維持は、超法規的な占領軍の団体等規正令(1949年)にもとづいていた。GHQの指令により、日本政府は共産主義を一掃するため、北朝鮮系在日朝鮮人団体の解散(1949年)、共産党幹部の追放(1950年)、共産党シンパの職場追放を進めた。
1952年のサンフランシスコ講和条約発効によって日本の主権を回復した吉田内閣は、共産党弾圧のための治安立法として破壊活動防止法を制定した(1952年7月21日公布即日施行)。1952年5月1日の血のメーデー事件が、日本でも共産主義革命の起こる可能性の高いことを示した。政府は治安立法としての破防法制定を急いで公布したのであった。
破防法制定と同時に、適用団体の活動調査を目的とする公安調査庁が、法務省外局として設置された。公安調査庁長官の請求によって公安審査委員会が審査し、その結果として適用認定団体になると、集団活動が制約されたり、団体の解散を命じられた。
破防法は、共産主義者の暴力革命防止を目的にした。実際に破防法が適用されたのは、戦争・無失業・無税を目標にした三無事件だけであった(東京地裁、1969年5月)。この事件は、旧軍人が反共国家建設をめざした、クーデター計画であった。


社会党左派と共産党
1960年に公安調査庁が破壊活動防止法の適用容疑団体とみなしたのは、全学連・社会主義青年同盟・共産主義者同盟の3団体であった。全学連は執行部の安定した固定的組織ではなく、闘争方針に関して主流派と反主流派が対立する不安定な組織であった。公安調査庁が破防法を適用して活動を封じ込めようとした時、全学連主流派は共産主義者同盟(共産同=ブント)によって占められていた。ブントは安保改定阻止闘争を反帝・反米闘争に発展させるねらいがあり、1月15日16日の羽田空港突入占拠事件を起こしていた。
社青同はブントよりもさらに過激なスローガンを掲げていたが、社青同活動家の人数が少なくてブントに圧倒され、主流派内の少数グループであった。 ブントも社青同も、セクトとして全学連として、二重に破防法適用の容疑団体とされたが、もともと既成政党の民主的活動の枠を否定する過激な活動を主張していたから、活動に支障はなかった。しかし、政府(公安調査庁)が全学連を破防法適用容疑団体とみなしたため、共産党系学生は全学連主流派として活動することができず、常に反主流派として民主主義革命路線を進まざるを得なかった。過激な活動に突き進む全学連各派の中で、共産党系全学連(民青)の活動は埋没した。
日本社会党左派は全学連主流派を支援してきたが、羽田空港占拠事件による世論の批判や破防法適用容疑などで、心情的支援に後退した。共産党同様、全学連各派に対し、学生運動も、議会制民主主義のルールを遵守することを強調しなければならなかった。

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