水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

南ベトナム、ディントウィ村で住民が蜂起。

1960年01月17日 | 1960年
ベンチェー蜂起
1960年、海外からの援助資金を横領し、南ベトナム政府は汚職腐敗の頂点にあった。反共国家の最前線として、南ベトナムの政治は安定していなけらばならず、アメリカ・日本・フランスなどの関係国は、南ベトナム政府の腐敗を黙認していた。しかし、南ベトナム国民の怒りは次第に大きくなった。
メコンデルタにあるベンチェー省ディントウィ村(ミン島)で、1960年1月17日午前7時、住民3人が南ベトナム政府軍部隊長を殺害して銃を奪った。その直後に他の住民100人とともに寺の政府軍キャンプを襲撃し、降伏させた。ディントウィ村の蜂起はたちまち近隣の村の蜂起になり、そしてベンチェー省に、南ベトナム全土に波及した。


北ベトナムの影
ベンチェー省の一斉蜂起は、南ベトナム住民が、アメリカ政府に支援されたゴジンジエム政権の圧政に抵抗し、自らの意思で起こした記念碑的な歴史的事件とされた。しかし、実際には、北ベトナム秘密工作員が周到に用意し、南ベトナム秘密党員によって引き起こされた事件であった。北ベトナムが表に出ないのは、南ベトナム住民の自発的反政府運動として国際世論の支援を得るためと、アメリカの直接的軍事介入を避けるためであった。


第15回労働党中央委員会
1959年5月、ベンチェー蜂起の前年、ハノイ(北ベトナム)で第15回共産党中央委員会が開催された。参加者の中には、ゴ政権の圧政が続く南ベトナムからの参加者もいた。半月に及ぶ激論の結果、ホーチミンは次のことを決定した。
①南ベトナムを武力解放する。  
・北ベトナムの支援で南ベトナムに解放戦線をつくるが、南ベトナムの自然発生的かつ自主的な反政府組織であるかのように装い、内外の支持を得る。
・南ベトナムで、反政府の一斉蜂起をする。方法と場所などについては、南ベトナム各地の秘密労働党員が用意する。
・南ベトナムの一斉蜂起は1960年1月17日とする。
②北ベトナムから南ベトナムへの補給路として、ホーチミンルートを建設する。


ホーチミンルート
北ベトナムから南ベトナム反政府軍に、戦闘員・食料・武器弾薬などを運搬する山岳道路がホーチミンルートである。1959年5月に建設が呼びかけられたが、実は大半がすでに完成していた。自動車の通ることのできない山岳道路である。人手だけで、北ベトナムから南ベトナムに、絶えることなく、物資・人員を補給した。南ベトナムの解放に果たした役割は大きい。
ホーチミンルートの大半は山岳道路であり、アメリカの航空偵察では発見できなかった。アメリカがベトナムに本格介入した1961年から、枯れ葉剤を空中から山岳地帯に大量に散布したが、ジャングル内のホーチミンルートを発見できなかった。
アメリカは精鋭地上軍をジャングルに投入しても、ホーチミンルートの発見は困難であった。ホーチミンルートによって、北ベトナムは南ベトナム反政府軍の反米闘争に武器を供給した。さらに細かな軍事作戦の伝達ができて、北ベトナムが南ベトナムを占領(解放)することができた。
 
http://www15.ocn.ne.jp/~aoisora5/