水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

日本の遠洋漁業に国際的規制が強化される。

1960年01月29日 | 1960年
遠洋押し出し
サンフランシスコ講和条約(1951年)による日本の主権回復、水産物の需要増加、漁獲技術の進歩により、日本の水産業は沿岸漁業から沖合へ、沖合漁業から遠洋漁業へと、積極的に遠くに出漁するようになった(遠洋押し出し政策)。
特に他の漁場から北洋底引漁業に転換する北転船が多かった。1960年、北洋母船式底引網船団は13船団が出漁し、カレイ・ニシン・オヒョウ(ヒラメ)など50万トンの水揚げがあった。
マグロ漁船(200~400トン)はインド洋・大西洋にまで出漁した。2千トン以上の大型トロール漁船は、アフリカ沿岸やニュージーランド沿岸で、タイやその他の底魚を漁獲した。
中国・韓国・ソ連・アメリカ・カナダなど沿岸各国は日本漁船の進出を規制するため、日本にとっては著しく不利な漁業条約を結んだ。日本国内には自国漁船を守るだけの軍事的実力がないために国辱的な漁業条約を押しつけられた。国内では再軍備を求める、右翼が支持を広げた。



北太平洋漁業条約(1953年)
日本・アメリカ・カナダの3国の漁業条約。西経175度以東の海域においてはサケ・マス・オヒョウ・ニシンの漁獲が禁止された。出漁国は日本だけなので、実質的には、西経175度以東における遠洋漁業の禁止であった。1962年の改定でもサケ・マスの漁獲は禁止されたが、他の魚種は資源に余裕のある範囲で規制が緩和された。


日ソ漁業条約(1956年)
東経175度以西のベーリング海とオホーツク海において、サケ・マス・カニの漁獲量を制限した漁業条約である。
日ソ漁業委員会において、日ソ両国に対し、資源維持のための適切な漁獲量を割り当てたが、日ソ漁業委員会は毎年紛糾して、割当量を定めることが難しかった。
例年、両国外務大臣の直接交渉によって政治的決着が図られた。ソ連は自国河川や領海内で産卵したサケ・マス・カニはソ連のもの(母川国主義)とする立場で、日本の漁獲可能な資源見積もり量を減らした。
日本の北洋遠洋漁業には漁獲割当量の削減が続いて採算がとれなかった。サケ・マス漁船は、北洋タラ漁や南洋マグロ漁への転換が相次いだ。


李承晩ライン
韓国の李承晩大統領は、1952年1月18日、日本漁船の操業規制海域を設定を宣言した。韓国沿岸からほぼ 200kmの海域では、日本漁船がアジ・フグの漁獲が禁止された。
日本漁船326隻が李承晩韓ラインを越えて、韓国の武装警備艇に拿捕された。日本国内には、李承晩韓ラインに日本の自衛隊と海上保安庁が出動し、日本漁船を守るべきであるとの主張もあったが、憲法の制約で外国軍との軍事衝突を起こす活動はできなかった。日韓国交正常化交渉の結果として、1965年に李承晩韓ラインは撤廃された。

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