水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

人類の繁栄、黄金の60年代が始まる。

1960年01月11日 | 1960年
Golden Sixties(黄金の60年代)
1959年、アメリカのニュース週刊誌Life が、黄金の1960年代(Golden Sixties)の到来を予想した。科学技術の進歩と経済的な繁栄によって人類は豊かで幸福な時代を享受し、アメリカの1920年代の金ピカ時代が、世界的な規模で再来するという予測であった。
しかし、黄金の1960年代を予測したライフ社自身が、1960年代に赤字経営に転落し、1972年に廃刊になることを予測できなかった。
黄金の1960年代に、アメリカはベトナム戦争の泥沼に入り込んだ。日本では高度経済成長は続いて経済的には繁栄したものの、1960年安保闘争後には社会の右傾化が進んだ。戦前回帰を思わせる、教育・社会が目の前に広がった。社会党・共産党のような革新政党は力を失った。


Nouvelle vague(ヌーベルバーグ)
1960年前後、フランス映画にはストーリー重視の伝統的映画製作手法を否定し、映像やストーリーを大胆に飛躍させた気ままな映画製作が流行した。ヌーベルバーグとは「新しい波」の意味である。作品としては『いとこ同士』(19589年。C.シャブロル)や『大人は判ってくれない』(1959年。F.トリュフォー)などがある。 
日本では、大島渚『青春残酷物語』、吉田喜重『ろくでなし』、篠田正浩『乾いた湖』などが松竹でつくられた。松竹ヌーベルバーグといわれて、日活の裕次郎映画、東映のチャンバラ映画とは明らかに異質であった。
ヌーベルバーグ映画は飽きられるのも早く、他の作品は興行的には失敗であった。また大島渚『日本の夜と霧』は左翼の路線対立を扱った討論主体の内容であり、5日間公開しただけで上映中止になった。大島渚は松竹を辞めた。保守政治の強い圧力が、日本映画の新しい波を葬り去った。


エネルギー革命 
通産省が1955年に石油化学工業の育成に乗り出してから、日本各地に輸入原油を使う石油化学コンビナートが建設された。中東の原油が生産過剰のために値下がりして、1960年代は、原油1バーレルが1~2ドルの時代が続いた。
アメリカ系メジャーとの技術提携で、日本国内に世界最新鋭のコンビナートが建設された。メジャーの生産地精製主義から消費地精製主義への転換に対応するものであった。
川崎には日本石油(三菱系)、四日市には三菱油化、岩国には三井石油化学、新居浜には住友化学が石油化学コンビナートを建設した。いずれも財閥系企業の大規模コンビナートである。石油化学製品の需要増加に応じるとともに、スケールメリットを生かしてコストダウンを実現させ、高い収益率をねらった。
石油化学コンビナートが市街地に建設され、大気汚染が大きな問題になった。石油化学工業の発展と輸入石炭の増加で、国内の石炭産業が衰えた。炭鉱も石油化学コンビナートも、同一企業グループによって経営されていた。政府財界は、国内炭鉱の廃坑による労働者の悲惨さを、エネルギー革命という歴史的必然性のある言葉で覆い隠した。

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