水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

1960年は山谷暴動ではじまる。

1960年01月01日 | 1960年
東京台東区山谷は簡易宿泊所(ドヤ)が多く、ドヤ街といわれる。その起源は江戸時代である。浅草の盛り場で稼ぐ貧乏芸人や行商人は、山谷の安宿に泊まったことから始まる。明治以降は、地方農村で仕事のない二三男や夜逃げをして来た夫婦者など、いわゆる細民が集まった。終戦直後に上野駅近辺で暮らしていた浮浪者は、都心の美観保持のために上野駅地下の寝泊まりを禁止され、山谷のドヤ街に流入した。

昭和30年代になっても、山谷の安宿の三畳間で暮らす所帯持ちや単身者は、1万人といわれた。昭和34年に東京タワーが完成し、東京の近代化が急速に進んでいた。昭和39年の東京オリンピックをめざし、東京では上下水道・新幹線・地下鉄・高速道路・ビル工事などのため、土木労働者はいくらでも必要であり、地方農村からの季節出稼労働者が増加した。山谷には様々な理由で故郷に戻ることのできない新たな出稼労働者が、生活費の安さから単身流入し、住み着いた。戦前からの所帯持ちの細民と、行き場を失った単身の労働者が、山谷の数百の安宿に集まった。

昭和35年(1960年)、山谷のドヤ街居住者は1万2千に達した。山谷ドヤ街の住民の多くは、日雇い仕事で得た金のある限りは酒とパチンコに没頭し、金も仕事もない日には、輸血用血液を売って暮らした。土木工事や港湾労務の仕事は手配師から斡旋されたが、労働者は日雇収入の2~3割を手配師にピンハネされた。
年末年始の長い休みには仕事も金もなくなって、不満を鬱積させたままドヤ街で正月を迎えた。
昭和35年元旦、警官が酔った労働者に冷たくあたったことから500人の山谷住民が交番を襲撃した。このような不満の爆発を左翼的反権力闘争に発展させるため、左翼活動家が山谷ドヤ街に入り込み、革命勢力としての組織化に乗り出した。当時は、岸内角の安保改定に反対する反政府運動が全国的に盛り上がっていた時期であった。

東京都は山谷の労働者の左傾化阻止のために福祉活動を強化したり、都営住宅に優先入居させたり、就職を斡旋したりした。その一方で、山谷にマンモス交番を新設して力による対決の姿勢も強めた。マンモス交番は昭和35年6月23日に完成した。その直後の7月26日と8月1日には、山谷の労働者がマンモス交番を襲撃する大騒動があった。もともと山谷住民には組織になじめない者が多く、左翼活動家による組織化は進んでいなかった。山谷の大騒動も圧倒的な警察力の前に屈してしまい、民衆蜂起や革命に発展しないまま、酒に酔った住民の騒動という形で終わった。

権力の強さを見せつけた騒動であった。山谷住民の組織的蜂起があったのは、昭和40年代、大学紛争と絡んだ一時期だけであった。現在、山谷の住居表示は清川や日本堤になった。ドヤ街では今なお5千人が生活しているが、安いビジネスホテルへの建替が進み、外国人旅行者が目立つようになった。

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