水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

民主社会党結党、委員長に西尾末広氏。

1960年01月24日 | 1960年
日本社会党の分裂
1959年6月2日の参議院議院選挙で、社会党は野党左派統一戦線としての安保阻止国民会議を結成したが、自民党に負けてしまった。社会党右派で党顧問の西尾末広は、参院選前から安保段階的解消論としての安保条件付き賛成を主張し、安保改定阻止の社会党執行部(鈴木茂三郎委員長)と厳しく対立していた。
1959年9月の社会党再建大会では、高姿勢な西尾に批判が集中した。西尾の安保段階的解消論のため、社会党が参院選に負けたことになった。西尾は、社会党の選挙敗北の責任を押しつけられ、社会党を除名された。
社会党にとっては西尾を追放したことになるが、西尾にとっては社会党からの離党であった。西尾とともに33名が社会党を離党した。

民主社会党
1960年1月24日、西尾末広は新党の民主社会党を旗揚げした。結党宣言では革命を否定して、議会制民主主義を通して社会主義を実現することを明らかにした。
「多年にわたる保守党の腐敗政治と、社会党の容共化に不満を持ち、幻滅を感じた国民の、待望してやまなかった民主社会主義新党は、本日ここに結成をみた。新党は民主社会主義の理念にもとづき、資本主義を根本から改め、人間性を解放し、共産主義に反対し、倫理を基礎に、個人の自由と平等による社会を実現するものである。新党は、左右のイデオロギーにもとづいた独裁を排除し、今日わが国政治をゆがめている、多数横暴と少数暴力を是正し、議会制民主主義を守り、漸進的に社会主義を実現することを目標とするものである。」

民主社会主義
1951年に開催された「国際社会主義者会議におけるフランクフルト宣言」で、社会民主主義の理念は、共産主義的社会主義に対立し、理想主義的・倫理的ヒューマニズムにもとづいて資本主義を乗り越える思想とされた。労使の協調、議会制民主主義の尊重、自由主義を認める混合経済、福祉国家の建設などが具体的な目標であった。
しかし、階級論的立場で考えると、議会制民主主義は有産階級に自由・平等をもたらすが、無産階級には不自由・不平等を押しつけるだけである。
議会制民主主義は有産階級のための支配機構である。仮りに議会制民主主義によって労働者が権力を掌握しても、労働貴族としてかつての支配者同様、労働組合を支配し、社会主義を実現しようとはしない。従って、民主社会主義とは有産階級の反革命的考え方である、ということになる。

民主社会党の凋落 
1960年11月の総選挙で、民主社会党は自らを健全野党と読んだが、40議席から17議席に減少した。以後、元の勢力を回復できなかった。保守でも革新でもない性格上、具体的政策は曖昧であり、この弱点を選挙のたびに攻撃されたのであった。
財界は野党の左傾化を憂い、健全野党をつくるため、民主社会党を支援する労組を結成した。企業内では第2組合として、昇給・昇任を早めた。また、第1組合には労組経費の徴収代行の中止、大会参加への給与カット、転勤によるいやがらせなど、様々な差別をして、第1組合の勢力を衰退させた。
第2組合の全国組織として同盟ができた。同盟系の労組には会社・財界から潤沢な活動資金が流れて来たが、労組員一人一人は、同盟系労組が、自民党保守政治を補完する政治勢力として利用されているこを自覚していた。
第2組合員の多くは生活の方便として第2組合に属しているのであり、選挙の時は民社党に投票しなかった。民社党の勢力は衰えるばかりであった。1994年に解党消滅した。

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