水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

日本は先進工業国の仲間入り。

1960年01月26日 | 1960年
技術革新
1956年の経済白書は、日本の経済復興が終わったことを認めて「もはや戦後ではない」と指摘した。これから後は技術革新による急速な工業化が進んだ。1960年(池田内閣成立)から1973年(第1次石油危機)までが、高度経済成長期とされる。
日本の技術革新の特性として、
①日本にとっては技術革新だが、国際的には陳腐な技術である。
鉄鋼・自動車・火力発電などでは、海外の生産技術が先行していたが、日本の各企業は技術をそっくり真似た。海外の技術を真似ることが、日本の技術革新であった。
アメリカの大量生産技術と日本人の低賃金労働力を組合せて、鉄鋼・自動車を低価格で大量生産した。低価格品の製品を輸出し、世界市場を拡大した。
②世界で開発中の新しい技術は、国際提携の形で導入した。
日本企業は、石油化学・電子工学・原子力・医薬品などの最先端技術に追いつくことは困難であった。国際的な特許権が確立されていて、真似ることは不可能であった。そのため、外国企業と技術提携したのが石油化学・医薬品であった。電子工学は技術提携を進める一方で、周辺技術の開発をめざした。原子力や宇宙宇宙産業は、海外企業と提携しつつも国産技術のレベルアップを進めた。


日本政府の保護
資本主義は自由な経済活動が原則だが、日本企業は世界の技術水準に到達するまで、政府の手厚い保護と規制を受けた。日本政府は、1960年前後には外国為替管理法の運用を厳しくした。
日本企業が国際競争力をつけるまで、外国製品の輸入を規制した。日本企業の輸出代金回収のために、輸出代金を受け取るまで代金を一時立替える政府系輸出入銀行が設立された。 
大企業は都市銀行を中心とする財閥を形成した。戦後の一時期は解体された財閥が復活した。中小企業は大企業の系列下にあり、厳しい競争を避けることができた。日本はどの企業も経済競争をしなかった。
日本政府の計画にもとづいた技術開発と生産をしているだけで、十分な利益が保障された。国際的には、日本の企業活動が日本株式会社と批判された。


外部経済(外部不経済)
公害(環境汚染)は市場を通して発生した経済ではない。それで外部経済の典型とされる。
本来は企業が環境維持のために、経済的負担をしなければならないのだが、公害を放置すれば、その分、企業の利益は大きくなる。
企業が生産工程において生じる大気汚染・水質汚染を放置すると、企業の支出が減り、製品の利幅が大きくなって、国際競争力は強まった。
1960年前後、企業の負担すべき汚染対策費用を、被害住民が医療費の形で負担したり、自治体が環境浄化費として負担したりした。企業城下町では、住民が従業員とつながりが強くて何も言えず、公害病に苦しんだ。当然、企業業績は優秀であった。
水俣病、四日市喘息などは、高度経済成長期に被害が拡大しながら、公害が放置されて、被害者が拡大した例である。
このような、市場取引なしの経済活動が外部経済だが。マイナスの影響を考慮して、外部経済を特に外部不経済という場合がある。 

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