水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

不知火海の水俣病未認定患者の損害賠償訴訟

2006年09月30日 | 水俣病
水俣病不知火患者会(原告50人)が、水俣病公式認定の遅れの損害賠償を国・県・チッソに求めた。2006年9月29日、その口頭弁論が、熊本地方裁判所であった。

国・政府・県の責任
国(環境省)・熊本県・チッソ水俣工場の被告側は熊本地裁の口頭弁論で、次の3点を、原告(不知火患者会)の一人一人が明らかにするように、要求した。
①メチル水銀で汚染された魚介類を食べた事実はあるのか。
②認定要件(52年条件)を満たすような複数の症状はあるのか。
③症状と、メチル水銀中毒との因果関係は何か。

同じ議論の蒸し返し
1969年の水俣病第1次訴訟開始から2004年の関西水俣病最高裁判決に至るまで、何度もくりかえされた議論である。すでに2004年10月15日の最高裁判決において、国と熊本県の行政不作為が厳しく指摘されていて、改めて蒸し返す議論ではない。
チッソの工場排水路が1958年に百間港(水俣湾)から水俣川(不知火海)に変更になり、メチル水銀は不知火海に拡散した。不知火海沿岸に水俣病患者が見られるようになった。
関西水俣病の最高裁判決は、国が旧水質二法で工場排水を止めさせなかったこと、熊本県が漁業調整規則で漁獲を規制しなかったことを、指摘しているのである。

なぜ決着のついた議論を蒸し返すのか
不知火海の水俣病患者は推定2万人。水俣湾の推定患者の3~5倍である。もし、水俣病患者に認定された場合、慰謝料などの一時金はは別として、現在生存している水俣病患者の治療費・通院費・生活費への支払いが、一人年間260万円としても、年間500億円以上になる。環境省、熊本県、チッソは、不知火海の患者を認定せずにあるいは裁判を長引かせて水俣病患者の自然減少を待つ作戦である。患者救済よりも、財政の問題、ということなのであろう。

(共同通信2006.9.30)
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1932 チッソがアセトアルデヒドの製造開始
1953 水俣病患者第一号(当時、奇病扱い)
1957 熊本県が食品衛生法による漁獲禁止を検討、厚生省が拒否
1958 チッソ、工場排水路を水俣湾から不知火海に変更
1959 熊大医学部、水俣病はチッソの有機水銀と発表
1968 チッソがアセトアルデヒドの製造中止
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チッソの責任は
チッソは有毒なメチル水銀(有機水銀)を排出した責任がある。しかし、チッソが使っていたのは無機水銀(金属水銀)であり、無毒であった。無毒な工場排水を海に投棄するのは、海洋汚染が問題になる1970年までは当然のことであった。
チッソ水俣工場が、アセトアルデヒドの製造工程で無機水銀が有機水銀に変わることを認識した時点で、すでに水俣湾沿岸では水俣病が発生していた。チッソは水俣病がメチル水銀中毒であることを知らなかった。
1958年に排水路を不知火海(水俣川)に変更したのは、希釈すれば、水俣病の原因物質が無毒化すると判断したためである。工場にとっては合理的判断であった。
チッソが水俣病発症の原因者であることを知らずに、当時の一般的化学工場の常識的行動として、海に排水したのである。
チッソに責任があるとすれば、水俣病の原因物質の究明に熱心でなかったことである。しかし、民間企業が利益を最優先し、利益を失うことをしないのは、民間企業としては当然の行動である。
チッソが工場からの廃液垂れ流しをやめなかったのは、利益最優先の民間企業としては当然である。責められるべきは、チッソの排出を容認した国・政府の方である。
行政の無作為の責任が、非常に大きい。

不知火海の汚染

2006年09月28日 | 水俣病
チッソ水俣工場の排水路が1958年9月に八幡プールで沈殿処理され,水俣川河口に放流された。沈殿処理ではメチル水銀は処理されず,メチル水銀は水俣川から不知火海に放出された。
水俣病の原因は,まだメチル水銀と特定されていなかった。工場側は有害物質は不知火海に拡散して,無害になるとの見通しであった。甘い見通しであった。

当時,不知火海では打瀬船(うたせ船)によるエビ漁が盛んであった。干潟のような浅海ではエンジンを止め,帆で船を動かし,底引き網でエビをとっていた。エビはチッソから排出されたメチル水銀に汚染されていて,不知火海の漁民に水俣病が広がった。



不知火海ではイワシ漁も盛んであった。しかし,新鮮なイワシはネコや家畜も食べた。まずネコが発病,次いで牛・豚,そして人間が水俣病を発症した。チッソ水俣工場からは,遠い不知火沿岸で1年間に1000人以上が水俣病特有の手足のしびれ,言語障害が起こった。1959年8月と11月,不知火沿岸の漁民数千人がチッソ水俣工場に乱入し,操業停止を求めた。

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1958年9月 チッソが排水路を水俣川に変更
1959年7月 熊大医学部が水俣病の原因をメチル水銀と発表
1959年8月 不知火漁民が水俣工場の操業停止を要求
1959年10月 チッソ附属病院でネコに工場廃液を与え,水俣病発症
1959年11月 不知火漁民が水俣工場の操業停止を要求
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不知火海は今

2006年09月27日 | 水俣病
チッソは水俣市南部の百間排水口(水俣湾)からの工場排水が、水俣湾の汚染の原因になるため、百間排水路へのメチル水銀など工場廃液の排出を中止した。
代わりに北の水俣川河口低地を産業廃棄物で埋め立て、メチル水銀を含む排水を埋立地の八幡プールで沈澱処理し、水俣川河口(不知火海)に排水した(1958~1968年)。

1958年までは、水俣湾を漁場とする月浦、湯堂、茂道などの漁民が高濃度のメチル水銀に汚染された魚介類を大量に漁獲し、家族ともども毎日食べて水俣病にかかってしまった。水俣湾の魚介類を、ほぼ毎日食べる人数は漁民家族を含め、2000人~3000人であった。そのほとんどが水俣病罹患者である。

1958年に新たに八幡プールから水俣川河口(不知火海)に沈殿処理した排水が流され、その中に高濃度のメチル水銀が大量に含まれていた。広い不知火海の魚介類がたちまちメチル水銀に汚染した。
不知火沿岸漁民に水俣病が大量発生するようになった。メチル汚染魚介類を長年食べていたのではないから、症状は比較的軽いが、患者数が2万人とも5万人ともいわれた。水俣病の症状は、他の老人病との区別が難しく、水俣病の認定審査を通りにくく、不知火海沿岸漁民が集団で、裁判による認定に持ち込むケースが多くなった。

チッソは不知火海全域への被害の拡大に驚き、1968年、アセトアルデヒドの生産を中止、工場内の水銀の使用を一切やめた。しかし、すでに被害は水俣湾から不知火海全体に広がっていた。排水路を変更したチッソの大きな過失は明らかであった。
監督の立場にあった熊本県、厚生省の行政責任もあった。



八幡プールに貯えられる工場排水(沈澱処理後、水俣川河口に放流)。メチル水銀は1958~68年まで放出し、水俣病を拡大した。現在は八幡プールは一応は安全な産業廃棄物で埋め立てられている、安定型埋立地である。




現在の水俣川河口。河口の向こうは御所浦島。水俣川河口に排出されたメチル水銀が、漂着する地点にある島である。御所浦島では1400人が水俣病患者としての認定申請をしているが、正式に認定されたのは50人である。全員を認定すると、経済的にチッソ、熊本県、環境省が苦しい立場に追いやられることを配慮して、認定基準を厳しく設定している。
河口の左側が八幡プールである。チッソからの廃棄物で現在も不知火海側が埋め立てが進められている。その埋立地の一部を、水俣市が買い上げゴミ焼却工場を建設した。



水俣病認定要件(1977年)

2006年09月25日 | 水俣病
昭和52年(1977年)に環境庁が発表した「後天性水俣病の判断条件」。別名52年判断条件。水俣病の公式認定の基準となるが、一人に複数の症状が見られることが必要である。①~⑥は水俣病に多発する症状(環境省1977)である。
①感覚障害
②運動失調
③平衡機能障害
④求心性視野狭窄
⑤中枢性眼科障害
⑥中枢性聴力障害
⑦その他
   

熊本県が委嘱した医師・研究者が水俣病認定審査をする。メチル水銀説を実証した熊本大学医学部関係者は、国から県への圧力があり、審査委員としては委嘱されない。
①~⑦の認定要件は厳格すぎ、水俣病患者の多くを切り捨てているとして、批判が多い。水俣病に認定されると、慰謝料(1,600~1800万円)、医療費(全額)、年金(月額68,000~173,000円)の支給を受けることができる。しかし、チッソ、熊本県、国は経済的負担を軽減するため、水俣病認定患者をできるだけ認定しないようにしている。
52年認定基準を定めた時の環境庁長官が石原慎太郎、現東京都知事である。水俣病ニセ患者発言が問題になった。

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2004年関西水俣病最高裁判決で、複数要件を認定基準とするのは誤り、との判決があった。特に①の感覚障害は水俣特有だから,これだけで認定OKとした。また②~⑦も明瞭な症状ならば水俣病の認定OKである。つまり最高裁判決では①~⑦の1症状で水俣病と認定されることになる。

水俣病の認定には、環境省基準(政府の52年判断条件)と最高裁基準(04年判決の司法基準)の2つが並立している。政府基準は誤りだが,司法基準に変更すると,水俣病患者数は激増し,政府の財政問題と直結する。このため,政府(環境省)は政府基準の変更引き延ばしをはかっている。

環境相私的諮問委員会は認定基準の見直しをするように諮問案を決めたが,環境省の横やりのため,3年後に見直しを検討するとの諮問になってしまった(2006年9月)。
基準が2つになったため、水俣病認定審査会は委員が辞任してしまい、認定作業が中断の状態にある。
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水俣病認定作業は1959年12月25日、厚生省の「水俣病患者診査協議会」で始められた。この時は、チッソの見舞金契約の対象者を減らすための水俣病認定作業であった。公平中立ではなく、チッソにとって有利になるような水俣病認定作業であった。この体質は2004年の水俣病関西訴訟の最高裁判決で厳しく批判された。それでも政府(環境省)は水俣病の患者認定の姿勢を改めようとしない。
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チッソ水俣工場ではアセトアルデヒド製造時に触媒として金属水銀を使ったが,アセトアルデヒドと水銀が反応して,猛毒のメチル水銀になった。海水中ではメチル水銀が魚介類の生態系で濃縮されて,水俣病の原因物質になった。


チッソの責任

2006年09月25日 | 水俣病
埋立後(1994年)の水俣湾
1977年から1990年まで水俣湾58haを埋め立て、100トンのメチル水銀を含む汚泥を封じ込めた。埋め立て総費用485億円のうち、チッソの負担は306億円であった。企業としてのチッソ水俣工場は赤字に追い込まれた。しかし、チッソには千葉県市原、岡山県倉敷の石油化学コンビナートには液晶素材の関連製造工場があり、全体としては好業績が続いている。


チッソは1958年からは水俣湾に排水しなかった。水俣湾の汚染は止まった。このあとの水俣病は、水俣湾の残留水銀によるものであった。

1958年から1968年まではチッソは八幡プール(水俣川河口)に排水先を変更した。水俣湾の汚染の進行は止まったものの、今度は不知火海全体にメチル水銀が拡散した。魚介類が汚染し,水俣病患者が不知火海沿岸に広がった。不知火海沿岸の水俣病患者2万人以上と推定される。
医学的見地から水俣病を審査する公式認定審査会は、補償金・慰謝料・医療費などの財政負担を考えて認定を厳格にした。このため、不知火水俣病患者会からは、審査基準が患者切り捨ての条件になっているとの批判が強まり、不知火海沿岸の水俣病患者を救済できる審査基準を求め、次々と訴訟を起こしている。
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チッソは最高の技術を誇る化学会社である。水俣工場でカーバイドから水銀を触媒に使いアルデヒドを大量に製造し、1960年前後の石油化学工業の発展に大きく貢献した。無機水銀を使用したにもかかわらず、メチル水銀が排出されることに、チッソの研究体制が向かなかった。このことが1973年の熊本地裁判決で糾弾されたが、民間企業チッソには納得できなかった。
水質二法で工場排水を止める権限のあった政府、漁業調整規則で海水汚濁を止める権限のあった熊本県が、水俣病の拡大に何もしなかった。国・県の行政責任の方が大きい。行政の無作為の責任である。
しかし、それでチッソの責任がなくなるわけではない。排水中のメチル水銀が水俣病の原因と分からなくても、1958年には工場排水中の何かが水俣病の原因と分かったはずである。また、附属病院細川院長はネコに工場排水を与え、ネコに水俣病を発症させている。
チッソは漁民の抗議にまじめに対応すべきであった。政府と結びついた大企業の態度はあまりに横柄であった。熊本大学医学部が排水中のメチル水銀を疑った時点で、チッソの優秀な研究者に、有機水銀の毒性を急ぎ、研究させなくてはならなかったのである。
しかし、チッソも、日本政府も、熊本県も、何もしなかった。何もしなかった責任は重い。