水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

熊本水俣病の現在(目次)

2007年10月05日 | 水俣病
project-T(別サイトのブログ)
2007年3月
熊本水俣病審査会、8年ぶりに1名認定
3000人以上が認定審査申請中であり、審査にあと100年を要する。
2007年2月
弁護士連合会は、水俣病患者放置は人権侵害として警告
環境省は、04年関西水俣病最高裁判決さえも無視している。
水俣市茂道集落でネコが大量異常死
1954年8月1日、新聞は、水俣病の兆候をはじめて報じた。
水俣病不知火患者会訴訟 
不知火海沿岸の水俣病患者2万人は、裁判に救済を求めた。 
2007年1月 
水俣病審査会再開
52年政府基準と2004年最高裁判決との二重基準のままで再開。
2006年12月 
自民公明の水俣病最終決着案
チッソが患者3万人に1万円を支給し、水俣病を終結させる与党案。
2006年11月 
民主党の水俣病最終決着案
政府が患者3万人に一律1万円を支給する野党案。
水俣病認定申請か新保健手帳か
未認定患者の多くは、医療費がタダの新保健手帳交付を申請。
2006年10月
水俣病を保健手帳で救済か
2004年の関西水俣病訴訟で国が敗訴し、保健手帳復活した。
熊本地裁判決(1973)は誤り
判決は政府の責任を認めず、行政による救済が困難になった。
水俣病患者総数は3万人
水俣病認定患者数推移のグラフ。正確な患者数は不明である。
旧水質二法は骨抜き
政府の責任が明記されていたが、政府は水俣湾汚染を放置した。
水俣病の終わり(その① 見舞金契約)
1959年、チッソは10万円の支払い、水俣病終結を試みた。
水俣病の終わり(その② 熊本地裁判決)
1973年熊本地裁判決は形式的には患者勝訴、実質的に敗訴。
水俣病の終わり(その③ 村山政権の政治決着) 
1995年、10,353人に一律260万円を支給したが、最終解決には失敗。
2006年9月
不知火海の未認定患者訴訟
不知火海沿岸の患者2万人は、認定審査で大半が棄却された。
不知火海の汚染
チッソは1958年に工場排水を水俣湾から不知火海に変更した。
不知火海は今 
不知火海からメチル水銀が消え、漁業が復活した。
水俣病認定要件 
昭和52年(1977)の環境庁からの通知。水俣病の認定が困難になった。
チッソの責任
患者への補償、水俣湾埋立費用負担で、チッソの支払い能力は限界。
2006年8月
茂道集落
小さな漁業集落に水俣病患者が続出、集落機能が崩壊した。
百間排水口
チッソの工場排水は無毒無害であり、生活排水とともに排出されている。
旧百間港
チッソからのメチル水銀が漁港に堆積し、水俣病を発生させた。
水俣病を忘れないために 
水俣病を次世代に伝える、国・熊本県・水俣市の施設がつくられた。
親水公園(水俣湾埋立地)
海底のメチル水銀を除去できず、1977~90年に水俣湾埋立。58ka。
チッソ水俣工場
アセトアルデヒドの製造をやめ、液晶生産が主力になっている。
水俣湾はどう変わったか(地図)
埋立地58ha。埋立費用458億円のうち306億円をチッソが負担。


水俣病審査会,認定審査が追いつかず

2007年04月08日 | 水俣病
熊本県の水俣病認定申請者が,再び急増している。水俣病と認定されると,補償費用1000万円以上をもらうことができ,医療費はただ,通院費用が支給される。この費用は加害企業チッソが支出すべきカネだが,チッソの企業保護,熊本県の財政難のため,環境庁つまり政府が肩代わりしている。
-----------------------------------------------------------
2004(平成16)年10月の水俣病関西訴訟最高裁判決で,水俣病患者勝訴,国が敗訴した。国の水俣病認定のための52年基準は誤りであり,患者を幅広く認定することが国の責任になった。このため,熊本県の水俣病認定審査会が再会された。「52年基準」で却下された患者の認定再申請が,2004年の関西訴訟以降に急増し,2007年3月末には3300人に達した。
しかし,熊本県は医師不足のため,県の月1度の審査会で認定審査のできる患者はせいぜい10人。年に100人である。3000人を越える患者の認定終了まで300年以上はかかることになる。

熊本日日新聞2007年4月7日

-------------------------------------------------------
3000人以上の認定審査は不可能である。それでも認定審査を再開したが,基準は政府の「55年認定基準」である。審査会は裁判と国の板挟みになりながらも,国の立場で審査して,水俣病患者を極力少なく認定している。これでチッソ,県,国の財政負担が軽減されるからである。

政府の動き
裁判によって大量に認定されると,チッソ,県,国の加害者としての負担は一挙にふくらんでしまう。そこで,一人当たり100万円を支給して,水俣病患者の認定裁判を取り下げさせ,審査会一本の認定にしようとする動きが強まっている。
村山政権の「最終決着」は1人に260万円を支給し,認定裁判を取り下げさせた。もう一度この「最終決着」を,今度は100万円に減額して実施するハラである。

なぜ,急がないのか
医師による審査会もゆっくり,政府による支給対象人数調査もゆっくりである。水俣病患者の自然死を待ち,財政負担を少しでも減らしたいからである。政府の財政負担を軽減するためには,認定も最終決着もゆっくりの方がいいのである。

熊本審査会、5回目の申請患者を水俣病と認定

2007年03月15日 | 水俣病
熊本県水俣病審査会は環境庁通知の昭和52年水俣病認定基準に従い、昭和52年(1977年)以降の水俣病患者認定申請をことごとく却下してきた。
しかし、最高裁判所が2004年に昭和52年基準で判定する不合理を指摘したため、水俣病審査会は、国基準(1977)と最高裁判決(2004)の矛盾を解決できず、休止状態が続いていた。もし、熊本県審査会が水俣病と認定すれば、加害企業チッソと政府の経済的負担は、患者一人に2千万円の支払いが必要になる。
2007年3月10日に再会された熊本県認定審査会が、これまで4回認定棄却をした、緒方正実さんを、水俣病と認定した。国の昭和52年基準の破綻である。
-------------------------------------------------------
潮谷熊本県知事は3月10日の熊本水俣病認定審査会に決定に従い、3月15日水俣市の緒方正実さん(49歳)を水俣病患者と認定した。熊本県による水俣病認定は1999年4月以来、8年ぶりである。これまで4回も申請を棄却された緒方さんが、今回逆転認定されたことで、国の52年基準が問題になりそうである。
これで熊本県の認定患者は計1,716人となった。
(熊本日日新聞など。2007.3.15)

------------------------------------------------------
現在、熊本県の認定審査申請者は3,300人。各種医学検査を経ての審査会になるので、全員の審査を終了するのには100年かかる。このため、高齢患者の焦りが強い。

政府の、水俣病患者放置政策は、人権侵害

2007年02月23日 | 水俣病
政府は1977年(昭和52年)水俣病認定基準をタテに、水俣病の公式認定を実質的に拒否している。最高裁は2004年に、この認定基準は水俣病を反映していないとして、政府の姿勢を批判した。しかし、それでも政府(環境省)は患者の高齢化による自然減少を待つ姿勢を崩していない。
九州弁護士連合会はこのような政府の姿勢は、人権侵害にあたるとして、熊本県・政府(環境省)、チッソ(加害企業)に、警告書を提出した。
政府と熊本県知事は、この警告書を黙殺し、水俣病患者の自然消滅を待つため、調査・調査の時間稼ぎをしている。
-----------------------------------------------
九州弁護士会連合会は2007年2月23日、水俣病未認定患者の救済を放置しているのは人権侵害に当たるとして、熊本県に対応を求める警告書を提出した。23日の午後には原因企業チッソと環境省に、26日には鹿児島県にも警告書を提出する予定である。
警告書は、被害者救済の新基準策定や、認定業務の再開を求めている。
熊本県の認定審査会は2004年10月の関西訴訟最高裁判決で患者側の勝訴が確定して以降、委員の再任拒否で休止状態である。熊本県知事は1月、現行政府認定基準(55年基準)を維持したまま審査会を再開する方針を明らかにしているが、これでは患者の大半は、認定を棄却される。
九弁連理事の三角恒弁護士は2月23日、熊本県庁の水俣病対策課を訪れ、谷崎淳一課長に「警告書に従い、未認定患者を救済するシステムの構築に努めてほしい」と警告書を手渡した。
谷崎課長は「最高裁判決後、できるだけ努力をしてきたが、今後とも国やチッソと協力しながら問題解決を進めたい」と述べたが、このことは、水俣病の認定基準は変更しないということであり、水俣病患者に対しては冷酷な姿勢である。
(西日本新聞。2007.2.23)

---------------------------------------
政府は2004年の最高裁判決さえも無視している。弁護士グループが、政府の非人間的姿勢に怒りの声をあげても、政府の姿勢は変わらないであろう。水俣病の認定を受けない限り、水俣病患者は、救済されない。
この水俣病患者切り捨ての昭和55年基準を作成した時の環境庁長官は、現在東京都知事の石原慎太郎である。石原慎太郎が東京都知事として、国政へも影響力を保持しているうちは、環境省は口先ではうまいことを言っても、患者の救済に動くことはない。


茂道で1954年には水俣病発生の兆候

2007年02月22日 | 水俣病
水俣市茂道は小さな漁業集落だが、ここでネコ、ネズミの異常が報じられた。昭和29年8月1日、最初の水俣病報道である。
なお、現在の茂道集落については、こちらを参照
---------------------------------
茂道は120戸の漁村だが、不思議なことに6月初めごろから急にネコ猫が狂い死し始めた。ではネコテンカンといった。
100匹以上のネコが全滅し、ネズミが急増した。ネズミは大威張りで中を荒らし回り、被害は増大した。あわてたの人々は、各方面からネコをもらってきたが、これまた気が狂ったようにキリキリ舞して死んでしまうので、ついに水俣市へ泣きついてきた。

-----------------------------------
水俣病公式確認に至る2年前の記事である。これが「水俣病の兆候」を初めて伝える報道だった。
水俣市にネズミ駆除を申し込んだ漁師は、当時33歳だった石本寅重さん。地区を代表しての行動だった。
実は、この記事が出る以前から、水俣湾周辺の漁村部では生き物の異常な行動が目につくようになっていた。タチウオやチヌなどの魚がプカプカと浮き、海辺に暮らす鳥たちは飛べなくなった。異変は、やがて人間に及ぶ。
第一通報者の石本さんは、その後、魚が売れなくなったことで漁師の仕事をあきらめ、チッソによる漁業補償の一環として同社に雇用された。退社後は夫婦ともに患者として認定され、2004年に83歳で亡くなった。
「被害多発地域の中で社員になるという形でチッソ側についたわけだから、漁協も除名になり、白い目で見られた」と遺族。しかし、石本さんは、チッソ入りの決断を後悔するそぶりは全く見せなかったという。
(熊本日日新聞。2007.2.16)

水俣病不知火患者会認定訴訟

2007年02月05日 | 水俣病
水俣湾沿岸の水俣病被害者1万人のうち、3千人は、昭和52年の政府認定基準通知前に、水俣病と公式認定され、チッソから金銭的補償を受けることができた。
不知火海沿岸2万人の水俣病患者は、52年基準の認定審査となって、ほとんど全部の患者が、認定を棄却された。このため、不知火海沿岸の水俣病患者は、チッソと、チッソの不法行為を放置した熊本県・政府の行政責任を追及、国家賠償訴訟に踏み切った。
熊本地裁で始まった裁判では、国(被告)側は、水俣病を立証できない不知火海の患者は、国家賠償を請求できないと主張した。
----------------------------------
水俣病不知火患者会の未認定患者1,150人が、国と県、原因企業のチッソの3者に1人あたり850万円の損害賠償を求めている訴訟の口頭弁論が、2007年2月2日、熊本地裁で開かれた。
水俣病患者会側は、第1陣原告50人が水俣病であることは、診断基準を統一して作成した「共通診断書」の提出などで立証されたと主張した。これに対して、県・国側は「診断書では不十分」と反論した。
熊本地裁亀川裁判長は
「被告は診断書では不十分というが、何が足りないのか具体的に反論してはどうか」
と指摘した。次回4月27日の弁論で、県・国(被告)側が、50人の各原告について、より詳しく主張する見込みとなった。
(毎日新聞 2007.2.3)

-----------------------------------------------
熊本県・政府側は被告である。裁判で負けると、賠償金の支払いに応じなくてはならない。さらに、裁判が水俣病患者としての認定まで踏み込んで判断すると、一時金・年金・医療費の負担まで加わってしまう。
チッソには金銭的支払い能力がないため、熊本県・政府の支払いが増加する。このため、裁判の引き延ばしを図り、高齢者の水俣病患者の自然死を待つ手段を選んでいる。

水俣病認定審査会、再開

2007年01月26日 | 水俣病
水俣病患者を医学的に認定する水俣病審査会が、2007年4月をメドに再開される。
県単位の審査会であり、熊本、鹿児島、新潟の3県にそれぞれ、医療関係者を委員とする水俣病審査会があり、1974年から患者病患者の申請により、診察認定の業務をしてきた。

1977年(昭和52年)の環境庁通知以降、水俣病審査会では水俣病患者の申請をほとんど全部棄却してきた。52年認定基準は、患者切り捨ての、政府とチッソの姿勢がそのまま反映されたものであった。
水俣病患者は司法の場において患者認定を求め、ほとんどの裁判で患者が勝訴して、水俣病審査会は有名無実の存在となった。
 
*52年基準の詳細はこちら
*認定審査会の認定棄却のグラフと説明はこちら


さらに2004年の関西水俣病認定の最高裁判決で、政府の52年基準は水俣病の実状を反映していない、として、水俣病審査会を批判した。最高裁は、水俣病の典型的症状一つだけでも水俣病と判断できる、とした。

水俣病審査会は、52年基準と04年の最高裁判決の二重基準のいずれを選ぶか判断できず、熊本、鹿児島、新潟いずれの県でも、認定審査会の委員が辞任した。審査会による水俣病の認定は中断された。
一方、患者は裁判に救済を求めるようになったものの、裁判の長期化と患者の老齢化のため、すべての患者が裁判に救済を求めることはできなった。

多くの未認定患者は各県の水俣病審査会に期待したが、認定審査会が52年基準によれば救済されることは不可能である。04年の最高裁判例を基準とすれば認定される見込みが強い。


熊本県
熊本県では3000人が認定申請をしている。熊本県知事は52年基準(政府基準)にもとづくことを確認して、認定審査会の委員を選出した。2007年4月から認定審査会を開始する予定である。52年基準による認定で棄却された患者の再申請者が大半であり、申請者の大部分は棄却されると見られる。

鹿児島県
鹿児島県の場合は、二重基準を批判する元認定委員が再任を拒否している。認定審査会の再開の見通しは立っていない。


新潟県
新潟県では阿賀野川河口の漁業者など33人が認定申請をしている。新潟県の泉田知事が、04年の最高裁判決による認定審査を許容したため、新潟水俣病認定審査会が早期に再開され、大部分が認定される見込みである。しかし環境省による圧力で最終的にはどのようになるか、分からない。

-----------------------------------------------
政府(環境省)の立場
毎年50億円のカネを、加害企業チッソに代わり、認定患者の医療・生活費などにつぎ込んでいる。これ以上、水俣病認定患者が増えると、政府の財政負担は増える一方であり、認定患者を増やさない方針である。

第一の方法。
各県の認定審査会の審査を52年基準で行い、患者を水俣病と認定しない。

第二の方法。
政府の将来見通しを曖昧にしておいて、認定を引き延ばし、高齢化した患者の自然減少を待つ。

第三の方法
裁判で水俣病の認定を受ける患者をなくすため、訴訟を取り下げさせる。そのためには、訴訟取り下げを条件に、いくらかの慰謝料を広範囲に支給する。この方法は、村山政権で実施した。
再度、この一時金方式を実施し、水俣病の最終幕引きを政府自民党だけでなく、民主党も検討中である。


与党の最終決着案に、チッソは非協力

2006年12月08日 | 水俣病
水俣湾・不知火海沿岸の水俣病患者は3万人と推定される。政府与党(自民・公明)が、第2次最終政治決着の検討を開始した。
1996年の村山政権の政治決着では対象が10,353人、一人当たりの一時金は260万円であった。
今度の与党案は対象が3万人、一時金は100万円の予想である。これでは患者が納得しないには自明である。加害企業チッソは早々と時効宣言、つまりカネを出さないことを宣言した。
第2の最終政治決着には予算的裏付けがない。与党は、水俣病患者の実態調査にもとづいて政治決着をめざす、と言い訳をしているが、事実上の政治決着断念である。

水俣病患者の実態調査を延々と時間をかけて調査を続け、水俣病患者が死んでいなくなることを期待したような、政治姿勢である。これが第2の最終政治決着なのであろうか。
水俣病の病状を調べるだけで十分なはずで、生活まで調べるのは、水俣病患者の全滅を待つ、時間稼ぎである。
あるいは、1966年の一時金260万円をもらった者には、ニセ患者がいる、と週刊誌が書いて、裁判沙汰になった。今度の患者生活実態調査は、一時金支給前にニセ患者を排除することが最大目的なのかもしれない。

----------------------------------------------------
チッソ、水俣病は時効を宣言

水俣病不知火患者会の認定申請者が国と熊本県、原因企業チッソに損害賠償を求めた訴訟の口頭弁論が2006年11月27日、熊本地裁(亀川清長裁判長)であり、チッソ側は「時効の主張を撤回する考えはない」と明言した。原告弁護団は「チッソの主張は法的にも社会的にも許されない」と反発している。

チッソ側は
(1)原告の多くは1995(平成7)年の政治決着前から感覚障害を自覚しており、既に消滅時効期間の3年が経過している
(2)原告の症状が、提訴から20年前の1985年10月3日以前に発生していた場合、損害賠償請求権がなくなる除斥期間が経過していると主張している。

弁論で原告側は「時効主張は世界最大規模の水銀公害を引き起こした責任を否定するもので、断固、抗議する。本当にこんな主張をするのか」とただしたが、チッソ側は撤回の意思はないと伝えた。また、同日の弁論で国と熊本県は、両者の加害責任を認めた水俣病関西訴訟の最高裁判決に基づき、「1960年1月以降の規制権限不行使については国賠法上、違法であることは争わない」と述べた。

会見した大石利生原告団長は「チッソの時効主張は腹立たしい。公式確認から50年たっても患者は出ている。加害企業として最後の一人まで救済する責務がある」と批判した。

(熊本日日新聞2006年11月28日)  

------------------------------------------

民主党の最終決着案

2006年11月23日 | 水俣病
政府(環境省)が1977年認定基準にこだわり、2004年関西水俣病判決を無視する態度を強めたため、患者は裁判に救済を求めている。
与党が検討している救済措置は、1995年の村山政権政治決着で260万円を支給された者のうち、認定訴訟に加わらない患者の救済をめざすものである。患者の裁判を受ける権利を否定するのは、司法で水俣病と公式認定された場合、チッソつまり政府の肩代わりの負担額が一人2000万円を越えるからである。
これに対しての民主党対案は、認定訴訟は裁判を受ける権利として認め、水俣病の未認定患者に一律100万円を支給し、さらに医療費を無料とすることである。
-------------------------------------------------------

被害者に一律100万円 民主党が救済へ独自案検討

民主党が独自の水俣病被害者救済策として、公害健康被害補償法に基づく認定患者や1995年の政府解決策の対象者、未認定患者らに対し、一律100万円の「特別慰謝金(仮称)」支給を検討している。また、現行の医療費全額支給などの医療事業を恒久対策とするため、特別立法で定める。

支給条件は、現行の認定基準より緩やかな救済基準を示した、2004年の関西訴訟最高裁判決が軸となる見込みである。2004年判決後、認定申請者が急増している現状を踏まえ、被害者を幅広く救済するため、申請期限は設けない方針である。
既に認定された患者や政府解決策の対象者にも支給するのは、2004年の最高裁判決が認めた、すべての水俣病被害者への責任は国にあるとの認識からである。

特別立法の制定は、さまざまな症状を持つ被害者への医療保障が目的である。「特別慰謝金」と同様、最高裁判決の基準で対象者を決める。
主な内容は次の3点で、全額国の負担とする案である。
(1)医療費や療養手当の支給
(2)はり・きゅうや温泉療養費の支給
(3)健康相談など相談事業の実施の三点。費用は全額、国の負担とする。

現行の「総合対策医療事業」は、新たな特別立法にまとめて一本化する。政府が救済の条件として、認定申請取り下げを給付条件としている点については、民主党は「認定申請は患者の権利」として政府案を否定する。

このほか、被害実態の全容解明に向けた大規模な「健康被害実態調査」の実施や内閣総理大臣の謝罪声明、被害者や医学者ら当事者が議論する場の設置も求める。

民主党は環境部門会議でこの方針を了承、特別立法の国会提出に向け、次の内閣での審査など党内手続きを進める。実現にこぎ着けるため、自民党水俣問題小委員会との協議・調整も視野に入れている。

(熊本日日新聞2006年11月23日)

-----------------------------------------------
政府が水俣病未認定患者の恒久対策は、認定訴訟を取り下げたら、医療費をタダにする、というものである。これまでの裁判では政府が連敗し、認定患者への経済負担が大きくなったからである。
民主党の案は100万円を慰謝料として未認定患者全員に一律支給する。裁判の取り下げを求めない。医療費をタダにする。という内容である。財源を考えずに患者救済を最優先する民主党案がいいに決まっている。実現可能性があるかどうか、の問題である。一人100万円で、1万人の未認定患者に支給すると、総額100億円である。国が負担するとたいした金額ではない、ということになるが、加害企業チッソに払わせたら、3年分の利益が吹っ飛ぶ大金であり、負担はできない、というだろう。

保健手帳か水俣病認定申請か

2006年11月01日 | 水俣病
水俣病患者救済には、
①水俣病と審査会や裁判で水俣病患者と認定されたら、加害企業が救済する。
②医療手帳制度。患者認定を受けなくても、医療手帳の交付を受け、月2万円の年金、医療費タダとなる。1995年の一時期にのみ受け付け、現在は新規受け付けをしていない。
③軽症の水俣病患者は、医療費がタダになる保健手帳制度がある。月2万円の年金はない。04年関西水俣病訴訟で国側が敗訴したため、保健手帳制度が復活した。新保健手帳といわれる。メリットは少ない。

①の認定審査会は、環境庁52年基準と最高裁04年判決の2重基準になってしまい、休止中。
②も休止中。
③の医療費タダの保健手帳に申請する水俣病患者が増えてはいるが、申請にあたって、①の認定審査、あるいは認定訴訟を取り下げなくてはならず、患者にとっては苦しい選択である。
認定審査の申請を取り下げたり、裁判をやめなくてはならない、というのは、チッソの見舞金契約のようなもので、公序良俗に反し、無効とすべきルールであろう。
------------------------------------------------------
新保健手帳交付 熊本、鹿児島、新潟3県で5878人、申請の取り下げ5%

熊本、鹿児島、新潟三県が2006年10月31日のまとめでは、国と熊本県の行政責任を認めた水俣病関西訴訟最高裁判決を受け、2005年11月に交付再開された新保健手帳の交付数は三県で計5878人に達した。
公害健康被害補償法に基づく、水俣病審査会の認定申請を取り下げて交付を受けた人数は、全体の約5%の312人である。認定申請者は10月30日までに、三県で計4597人に達し、新保健手帳が被害者救済に役だっていない実態を浮き彫りにした。
新保健手帳は1995年の政治決着に基づく総合対策医療事業のうち、症状の軽い患者に交付された保健手帳である。医療費の自己負担分を全額支給する。2005年11月から交付が再開された。
保健手帳の交付には認定申請や訴訟取り下げが条件である。これまでの交付申請審査数は三県で6469人、このうち水俣病認定取り下げは337人である。
熊本県の村田信一環境生活部長は「認定申請から新手帳に切り替える人が少なく、さらなる救済策が必要」と指摘している。
年金支給を含む医療手帳交付再開など、1995年の政治決着並みの救済策を盛り込んだ「第二の政治決着」実現を、引き続き国などへ働きかける考えである。
新保健手帳交付者の県別内訳は次の通り。
◆熊本県 4698人(うち認定申請取り下げ者235人)
◆鹿児島県 1099人(認定取り下げ73人)
◆新潟県 81人(認定取り下げ4人)

(熊本日日新聞2006年11月1日)

-----------------------------------------------------
水俣病の認定申請を取り下げたり、早期の認定を求める訴訟をやめたりして、保健手帳を申請したのが312人。
審査会や裁判で水俣病患者が一人でも増えると、加害企業チッソ(新潟では昭和電工)の経済負担が重くなる、というより、肩代わりしている環境庁の経済的負担が重くなる。2004年の最高裁判決が52年基準を否定しても、環境庁は認定患者を減らし、経済的負担を軽減したいのである。

*環境庁は環境省に名称変更したが、それを機に環境行政が患者から離れ、企業・行政側本意の環境行政に転換した、と批判されたが、その批判は正しい。


これからは保健手帳で救済か

2006年10月14日 | 水俣病
医療手帳(2006年8月31日現在、5971人)
水俣病発生地域において、水俣病の認定は却下されたが、水俣病特有の病状がある患者に医療手帳が交付されている。認定患者のような慰謝料、年金は支給されないが、医療費と介護費用はタダになる。温泉・針灸分7500円(最高月額)が支給される。病院への交通費として医療手当が2万円も支給される。

保健手帳(2006年8月31日現在、1983人)
水俣病の病状の軽微な者に、医療費と介護費用がタダになる保健手帳が交付される。温泉・針灸に対して月額最大7500円が支給される。医療手当2万円は支給されない。


----------------------------------------------
1992年から1996年まで、認定の却下された水俣病患者救済手段として受け付けられ、医療費負担は軽減された。水俣病患者は、認定患者、医療手帳患者、保健手帳患者の3ランクに分けられた。
財政負担の最も軽い保健手帳は、2004年の関西水俣病訴訟で国が敗訴してから、受付が復活した。

水俣病認定患者は慰謝料1400万円、年金月額10万円前後である。これと比較すると、医療手帳と保健手帳は非常に安上がりの救済手段である。チッソの経営と、県・国の財政に配慮した制度である。
水俣病認定制度が行きづまり、老人医療費が高騰したため、水俣病認定申請を断念して、保健手帳の申請者が増えている。政府のねらいが的中したことになるが、患者にとっては幸福なことではない。
1973年の熊本地裁判決は加害企業を糾弾した点では画期的であったが、水俣病患者の救済という点では無力であった。国が県にやらせた認定制度で、水俣病患者が救済されなくなることを、この時の判決では予想していなかった。先見性の欠如は、チッソが工場排水中にメチル水銀があることを予想しなかったのと同じである。

熊本地裁判決(1973)は間違いだったかも?

2006年10月12日 | 水俣病
水俣湾を埋め立てた親水公園から、恋路島を見ながら、1973年3月20日の熊本地裁の裁判の勝者は誰で、敗者は誰か、ゆっくり話し合った。夕闇がせまる頃、うしろのエコグランドから、谷村新司と大黒摩季の野外ジョイントコンサートの歌声が、せつなく聞こえてきた。




--------------------------------------------------------

●熊本地裁におけるチッソの主張
チッソが水俣工場で使用していたのは無機水銀である。触媒として使うとメチル水銀が生成され、それが工場排水中に含まれるとは知らなかった。1950年代、1960年代の化学工業の国際的水準において、アセトアルデヒドの製造工程でメチル水銀が生成されることは知られていなかった。また、メチル水銀が水俣病の原因であることも予見できなかった。したがって、チッソは水俣病に対して責任はない。

◆熊本地裁はチッソの主張を厳しく批判した。
チッソは工場排水による被害者が出た段階で、排水の有害性に気づいたはずである。排水中の有害物質を最高の技術で調べ、排水中の有害物質を取り除かなくてはならなかった。
排水中に何らかの有害物質の存在することに気づいたのに、死者が出るまで何の研究調査も、具体的対策も講じなかったということは、悪質な人体実験である。
化学工場のような有害物質を排出する工場では、最高の科学技術を用いて排水中の有害物質を検出し、有害物質の排出を止めなくてはならない。それができない場合には、工場の排水を止めるか、工場の操業を止めなくてはならない。


----------------------------------------------------
----------------------------------------------------
1973年の熊本地裁判決は、間違いだったかもしれない。
-----------------------------------------------------
熊本地裁判決は、1950年代の化学工業に、1970年代の知識を求めた。
工場が有害物質を含む排水を海に流すことは、当時の化学工場の常識であった。製紙・鉄鋼・メッキなどの工場は、海に未処理の排水を流していた。自然界には浄化作用があり、有害物質を含む、汚れた工場排水はきれいな水になると思われていた。海が工場排水のために汚染されることは、あり得ないと考えられていた。
レイチェル・カーソン女史の「沈黙の春」は1962年刊行である。川・湖・海が化学物質で汚染される恐怖を描いた。レイチェル・カーソンは、化学実験で考えたのでもなければ頭で考えたのでもない、子宮で考えたのだ、と批判された。
和訳は当初「生と死の妙薬」として1964年に出版された。翻訳は青樹簗一だが、実名ではない。大学研究者としてのポストを失うことを恐れ、仮名で翻訳出版した。
つまり、1960年前後は、日米ともに自然界に放出された化学物質が人体に大きな害を与えるとは、研究者においてさえ、知られていなかった。
それを熊本地裁が、チッソの技術水準で有害物質を発見できる、と判断したことは誤りである。チッソは排水中の有害物質を検出できなかったのであるから、有害物質を除去できるまで操業を中止すべきであった、と厳しく判断する方が妥当だろう。
当時の科学技術の水準はそんなに高いものではなかった。それに民間企業は最大の利益を求める組織体であり、法で禁止されない限り、あらゆる活動が許されるのであり、当時の法体系では、工場排水を河川・湖・海に流すことは違法ではなかった。

1956年 水俣病第一号患者がチッソ附属病院が公表。
1959年-熊本大学医学部が水俣病はメチル水銀中毒と発表。
1962年-レイチェル・カーソン「沈黙の春」、アメリカで発売。   
1963年-入鹿山熊大教授、水俣工場排水中から有機水銀検出。
1964年-「沈黙の春」を「生と死の妙薬」として、翻訳者匿名で発売。


----------------------------------------------------------
政府は水質二法による規制をしなかった。これが不知火海汚染の原因であった。
----------------------------------------------------------
1958年に「公共用水域の水質の保全に関する法律(法律第181号)」と「工場排水等の規制に関する法律(法律182号)」が制定された。通常は、「水質保全法」と「工場排水規制法」、現在はあわせて旧水質二法といわれる。
旧水質二法は1950年代に顕在化した水質汚染問題、水俣病・イタイイタイ病への対策として制定された。しかし、旧水質二法は問題水域を個々に指定したため、規制内容に徹底を欠いた。当時の経済企画庁は力が弱く、通産省に押し切られる形で、チッソ水俣工場の排水域を、水質二法の適用外とした。
このため、法的にチッソの工場排出を止める根拠を失った。チッソはメチル水銀を含む工場排水を水俣湾に、1958年からは不知火海に流し続けた。
政府は1958年以降の不知火海汚染を止める法的手段はあった。しかし、行政の不作為というより、通産省のチッソ養護の姿勢のため、不知火海にメチル水銀が拡散し、水俣病は不知火海沿岸に拡大した。チッソ水俣工場の排水を法的にあえて規制しなかった通産省の責任は重大である。

-----------------------------------------------
熊本県は漁業調整規則で、工場排水を規制しなかった。これが水俣病拡大の第2の原因であった。
-----------------------------------------------
熊本県知事には、熊本県漁業調整規則32条によって、チッソ水俣工場の排水を規制できる権限があった。権限を行使し、チッソに対し総水銀の「除害設備」設置を命じて、工場排水を規制すべきであった。
しかし、熊本県はチッソ水俣工場の存続を優先し、水俣病拡大をおさえるための行政責任を果たさなかった。水俣病患者の増加よりも、チッソ水俣工場を存続させる方が重要であった。


---------------------------------------------------
----------------------------------------------------
水俣病患者は1977年から環境庁の「52年基準」で認定されない限り、チッソの補償を受けられなくなった。石原環境庁長官が、1973年熊本地裁判決を空文化した。
----------------------------------------------------
1973年の熊本地裁の判決でチッソの姿勢が厳しく糾弾された。しかし、水俣病患者は、熊本県の選出した審査委員による水俣病認定という審査をパスしない限り、何の補償も受けられなかい。
水俣病認定審査は最初のうちは大半がパスできたものの、1977年に国が認定基準を設定(52年要件)すると、水俣病の認定審査を通らない人数の方が多くなった。
例えば、1978年は認定125人、棄却365人であった。
1979年には認定116人、棄却657人であった。
水俣病患者の敵は、チッソから、認定審査会に代わった。認定を求める裁判が続出した。
1973年の熊本地裁判決の意義は、認定審査会に伝わらなかった。審査委員会はチッソの補償金を低くおさえるため、認定申請の多くを棄却した。特に不知火海沿岸漁民の認定申請には、非常に冷たかった。
52年基準つまり患者切り捨ての審査基準を設定した時の環境庁長官が、現在東京都知事の石原慎太郎である。


-----------------------------------------------
2004年、最高裁は52年要件は誤りと断定したが、政府は誤りでないとしている。
-----------------------------------------------
2004年、関西水俣訴訟団の最高裁判決で、52年要件全部を満たす水俣病患者ばかりではないと述べた。司法の判断基準では、水俣病特有の症状が一つでもあれば、水俣病と認定できることになった。
しかし、政府は52年要件を存続させる姿勢を変えないことを表明した。この結果、水俣病認定には最高裁のような典型的症状一つでもOKとする場合と、水俣病審査委員会の52年要件(判断基準)のように複数の病状現れた場合には水俣病と認定する場合と、2つの基準が存在する状態になっている。

-----------------------------------------------
政府は52年要件を続けることで、水俣病患者の新規認定をおさえている。
------------------------------------------------
2006年9月、環境省大臣の水俣病認定についての私的諮問委員会において、委員の柳田邦夫が、水俣病認定審査基準の見直しの答申文を書いた。しかし、環境省職員が環境省見解と異なる答申文は答申文ではない、として、受け取りを拒否。52年要件(判断基準)は存続することになった。
チッソの利益に熊本県・国の財政支援をしない限りは、認定水俣病患者の医療費、年金を払えない。
県・国は財政難のため、水俣病患者の認定を棄却することで、支出をおさえようとしているのである。

水俣病患者数3万人

2006年10月12日 | 水俣病
水俣病は次の4種類があり、水俣病患者総数は2~3万人と推定される。全員を水俣病として公式認定するとチッソは倒産になるので、①による政治決着を急いだ。しかし、④のような公式認定を求める水俣病患者が1万人以上もいる。④の場合、チッソの経済的負担が急増し、現行の補償制度が崩壊する。このため、政府は52年要件にもとづく認定制度をかたくなに守っている。水俣病患者の認定は、2000年以降、一人もいない。
水俣病患者は、一応、次の4型に区分される。
------------------------------------------------
①村山政権時代に政治決着として、最終的な解決として、一時金260万円を受け取った水俣病未認定患者10,353人。
②2004年の関西水俣病訴訟の勝訴で水俣病に認定された50人。各種の裁判で水俣病と認定された者は、合計7,890人。
③水俣病であることを隠したり、気づかずに生活している者が20,000~30,000人。
④行政に公式認定された水俣病患者数(2006.5.31まで)
熊本県  1,175 人(うち1,277人は死亡)
 鹿児島県  490人(うち305人は死亡)
 合 計  2,265人(うち1,582人は死亡)
----------------------------------------------------
水俣病に公式認定されと、チッソから慰謝料(1,600~1800万円)、医療費(全額)、年金(月額68,000~173,000円)が支給される。チッソはこれまで1,200億円以上を支払ってきたが、半分は熊本県からの借金である。チッソをつぶすと熊本県の不良債権となるため、チッソの補償を支援してきた。
水俣病患者が増加すると、チッソも熊本県も経済的に苦しくなるので、国と県は、認定患者を増やさない方針である。
水俣病の認定は、経済的・政治的・社会的な情勢で決まる。水俣病の病状で決まるのではない。水俣病の病状のある者の総数は2~3万人といわれている。
-----------------------------------------------------
チッソから慰謝料、年金、医療費を支給されるのは公式の認定患者であり、死亡を含め2,265人である。
環境省の昭和52年判断条件(1977)以後、水俣病認定基準が厳しくなり、2000年以降の水俣病認定数はゼロである。当時の環境庁長官は石原慎太郎(都知事)である。
熊本県の水俣病認定者推移
1968年認定44名はチッソとの見舞金契約(1959年)から1968年までの合計である。認定合計1,775名である。52年基準(1977年)以降の水俣病認定者数は減り、2000年以後、水俣病認定はゼロである。




2004年の関西水俣病訴訟最高裁判決で52年基準が否定され水俣病の認定基準が2つになった。環境庁の52年基準と、2004年の最高裁判決の基準である。
最高裁判決に従えば、これまでの認定棄却には誤りが多数含まれ、認定患者が増えることになる。そのため、認定審査委員は全員辞任してしまい、後任委員が選任できなくなった。認定作業は中断したままである。
環境省は最高裁判決を無視し、政府の52年基準を堅持する方針である。水俣病患者の高齢化による死亡を待ち、水俣病患者の自然的減少で、補償金を減らす長期戦である。水俣病患者の自然消滅を待つ姿勢である。

1959年、水俣病の終わり(① 見舞金契約)

2006年10月10日 | 水俣病
1959年12月30日、チッソと水俣病患者の間で、見舞金契約が結ばれた。その趣旨は
(1)チッソは、水俣工場からの排水が水俣病の原因とは考えていない。
(2)将来、水俣工場の排水が原因と分かっても、チッソに何も要求しない。
(3)死亡者に30万円、生存者に10万円を、見舞金として支給する。

チッソ側が一方的に有利な契約であった。チッソが水俣病患者の死亡者・生存者に出すのは、一度限りの見舞金であった。チッソは水俣工場の排水には責任を負わないし、チッソの経済的負担をこの見舞金を最後とし、将来はチッソにどれだけの原因があることが判明しても、カネを出さないとするものであった。
働き手が水俣病に罹患した水俣湾の漁民家族にとって、わずかの金額の、たとえ1回だけの最後の見舞金でも、年末の貴重な収入であった。
水俣病はこれで終わりであった。
この見舞金契約が精神的束縛となり、裁判によるチッソの責任追求は、新潟水俣病の提訴(1967)よりも、1年遅れた(1968年6月14日)。
---------------------------------------------------
1959年12月25日、見舞金契約の交渉中、厚生省には「水俣病患者診査協議会」が作られ、水俣病患者の認定作業を行うことになった。
水俣病認定の作業は、チッソの見舞金対象者を確認することから始まり、現在に至っている。誰が見ても水俣病と見えても、認定審査会による認定を受けない限り、チッソからの見舞金を受け取ることができなかった。認定審査会による患者の絞り込み作業は、チッソの支払いをできるだけ少なくすることが目的である。
つまり、見舞金契約で水俣病は終わるはずであったが、見舞金をもらうための認定作業がさっぱり進まかった。水俣病患者の戦いの相手は、チッソから、チッソと認定審査会の連合軍との戦いになった。
このような行政と大企業の連係は、行政(通産省、厚生省)が主体になり、1959年以前には水俣病の原因追求を妨害したり、水俣病認定作業を遅らせるような基準を作ったりした。



写真左が百間排水路方向。いくつかの排水口からメチル水銀が排出されて、百間港にメチル水銀が100トン以上も堆積した。魚介類を通して、水俣湾の漁民とその家族に水俣病を発症させた。
右が丸島排水路方向。途中、メチル水銀が排出されることはなく、丸島港にはメチル水銀は堆積しなかった。しかし、丸島の漁民の中には、百間港で水銀汚染された魚介類を通して、水俣病を発症する者が多かった。


1973年、水俣病の終わり(② 熊本地裁で患者勝訴)

2006年10月09日 | 水俣病
水俣病の認定を受けられなかった水俣病患者112名が患者家庭互助会を結成、1969年6月14日に、チッソを相手に、6億4千万円の慰謝料を求め、熊本地裁に民事提訴した(第1次訴訟)。
新潟水俣病が昭和電工を提訴したのは1968年である。熊本水俣病の訴訟が1年遅れたのは、1959年の見舞金契約で今後はチッソの責任を問わないと約束した水俣病患者が多かったことと、水俣病には伝染病・遺伝病などの偏見が多く、未認定患者が集団訴訟に躊躇したためである。
-------------------------------------------------
1973年3月20日、熊本地裁判決は、患者側の全面勝訴であった。水俣病の発症と拡大は、チッソに原因と責任があった。

◆裁判におけるチッソ側の主張
チッソ水俣工場で触媒として使用したのは無機水銀であり、アセトアルデヒド製造工程でメチル水銀に変わることは予見できなかった。排水中にメチル水銀が含まれることも、それが人体の中枢神経を破壊して水俣病を発症させることも予見できなかった。メチル水銀の生成も、水俣病の発症も、当時の最高の化学的知識では知られていないことであるから、チッソには水俣病の責任がない。

◆熊本地裁判決(チッソを批判)
①チッソの言い分によれば、環境が汚染されて住民の生命が危うくなる時まで、メチル水銀のような有害物質を排出してもやむを得ないということになる。その結果として住民の生命が失われることもあり、工場排水による人体実験そのものである。チッソは、排水中に予想外の危険物質が含まれる可能性があれば、操業を中止してでも安全を確保しなくてはならない。
②チッソは、排水中にメチル水銀の含まれていることを知らなかったのではなく、調べなかったのである。1955年には文献上、分かるはずであった。
③チッソは1958年に排水口を水俣湾から、水俣川河口の八幡プールに変更し、水俣病を不知火海沿岸に拡大させた。これは誰でも予想できることである。
④見舞金契約は、あとの事実究明によってもチッソのみが有利で、患者側は著しく不利になる。公序良俗に反し、無効である。

----------------------------------------------
1973年の熊本地裁判決によって水俣病患者がすべて、チッソによって救済される、あるいは金銭的補償を得られると期待し、水俣病は終わりと確信していた。
ところが訴訟に直接参加した112名だけがAランク1800万円、Bランク1700万円、Cランク1600万円の補償金を受け取ることができたが、他の水俣病患者は補償の対象外とされた。
水俣病患者団体とチッソとの補償協定書で、患者団体が弁護士などを除いて交渉したために、法的無知につけこまれ、チッソにだまされた。
それは、行政(国、熊本県)の水俣病認定を受けた者だけが、チッソから補償金を受けられるとした点である。
水俣病認定審査会の認定は最初はゆるやかであった。しかし、チッソの水俣病関連の総支出額は1,200億円を越え、経営が行き詰まった。政府はチッソを存続させ、水俣病認定患者を救済するため、1977年(昭和52年)に認定基準を厳しく設定した。
2万人の水俣病患者は、1977年の認定基準(52年要件)を撤回させて水俣病患者の認定を受けるため、政府を相手に新たな裁判闘争を始めなくてはならなかった。
水俣病の進行と老齢化のため、身体の自由がきかなくなり、しかも裁判費用も捻出できない患者が多かった。司法による救済を求める裁判闘争は、なかなか進まなかった。

政府は熊本県に水俣病患者の認定を減らすことを指示し、チッソの経営難、国・熊本県の財政難を乗り越え、高齢の水俣病患者が死に絶えることを待つ姿勢を強めている。2005年の水俣病懇話会の提言には、認定基準の見直しが書かれていたが、環境省庁はそれを現行の認定基準がベストであると書き直しをさせた。