水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

旧百間港メチル水銀排出口(水俣湾埋立前)

2006年08月11日 | 水俣
水俣湾の百間港はチッソの工場排水口であった(1932~58年)。その中にメチル水銀が含まれ、魚介類を通して人間が体内に取り入れた。水俣病は有機水銀中毒である。チッソの工場排水は、1958年から不知火海(水俣川河口)に変更されたが、水俣病が水俣湾から不知火海に拡大された。
百間排水口の看板に、チッソ水俣工場からのメチル水銀が水俣湾と不知火海を汚染した事情が説明されている。以下、その全文。
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百間排水路
百間排水口は水俣病原点の地です。
この排水口を通じて、昭和7(1932)年から昭和43(1968)年までチッソ(株)水俣工場において酢酸等の原料となるアセトアルデヒドの製造工程で副生されたメチル水銀化合物が工場排水とともに排出され(一時期、水俣川河口へも排出)、水俣湾は汚染されました。そのため、八代海(不知火海)一円に水俣病が発生しました。
水俣湾に排出された水銀量は約70~150トン、あるいはそれ以上とも言われ、百間排水口付近に堆積した水銀を含む汚泥の厚さは4mに達するところもありました。
昭和52(1977)年、熊本県は汚泥を除去する公害防止事業に着手し、約14年の歳月と総事業費485億円の巨費をかけて、水俣湾に堆積した水銀ヘドロの一部浚渫、埋め立てを行い、平成2(1990)年、事業は終了しました。
現在、百間排水口からは、浄化処理された工場排水及び家庭からの生活排水が流れています。また水俣湾の魚介類の安全性を確認するための調査も継続して実施されています。
一度汚染・破壊された環境は、いかに莫大な費用と労力をかけても、元に戻すことはできません。このことを私達は人類の教訓として受け止めなくてはなりません。
(以上が看板の説明文。下の白黒写真2葉はこの看板にある)
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昭和51(1976)年、チッソがメチル水銀の使用をやめたあとの百間水路の内陸側。上の百間排水口説明看板にある写真である。高濃度のメチル水銀を含む汚泥が堆積しているが、総量は少なく、水俣湾側と比較すると、処理は簡単であった。





百間排水口外、水俣湾側である。メチル水銀を含む海底汚泥から、メチル水銀だけを取り除くことはできなかった。ある地域の汚泥を浚渫して、別の地域の汚泥の上にかぶせて水俣湾の大半を埋め立てた。
写真は埋め立て前の昭和52(1997)年の様子で、漁船が並んでいて漁業が盛んであったこと、そして、魚介類の水銀汚染は、漁民とその家族に大きな健康被害を与えたことが推察できる。



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工場排水は百間堀川を通して水俣湾に流された。1958年の排水口変更まで、百間堀にはメチル水銀を含むヘドロが堆積した。現在、チッソ水俣工場は水銀を使用していない。液晶原料を製造している。百間堀への排水は無毒無害である。

水俣病を忘れないために

2006年08月10日 | 水俣
水俣湾の埋立地エコパーク45haと不知火海を見わたす高台(水俣市明神町)に、国、県、市の水俣環境学習の3施設がある。3施設とも水俣病を後世に正しく伝えることが最大の使命のようである。むだな重複施設というより、役割・機能を分担した3施設というべきだろう。


エコパークはメチル水銀の堆積した元水俣湾である。現在は埋め立てられて、グラウンド兼イベント会場として利用される。水俣湾は100%全部埋めたのではなく、百間排水路の排水処理に必要な部分を残している。
写真に見える海の部分は、水俣湾より南の水俣港である。
エコパークはグラウンドのテントは催し物のためのものである。地盤が弱く、大きな構造物をつくることができない。この撮影は国立情報センター屋上から。



国立水俣病総合研究センター(水俣病情報センター)と水俣市立水俣病資料館は建物が隣り合い、渡り廊下でつながっている。写真は国立情報センター。会議室や資料室が利用される。
全く別の土地(水俣市浜)に研究者用施設として国立水俣病総合研究センターがあり、よく間違えられるので有名。この写真は情報センターである。



これは熊本県の施設で、「熊本県環境センター」が正式名称。環境学習のため、クラス単位、グループ単位の学習施設が整っている。最近は総合学習の場として、修学旅行に組み込まれたりして、利用者が多い。



恋路島がすぐ近く。手前は親水公園つまり水俣湾埋立地の一部である。この海域全体が、一時期メチル水銀に汚染された。恋路島は無人島であり、リゾート開発を進めて、水俣のマイナスのイメージを払拭しようとする計画はあった。しかし、逆に、水俣病の本質としての行政の失敗と、市民運動を後世に正確に伝えていくために、国立情報センターが建設された。下の写真はその屋上から撮影。