水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

熊本水俣病の現在(目次)

2007年10月05日 | 水俣病
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2007年3月
熊本水俣病審査会、8年ぶりに1名認定
3000人以上が認定審査申請中であり、審査にあと100年を要する。
2007年2月
弁護士連合会は、水俣病患者放置は人権侵害として警告
環境省は、04年関西水俣病最高裁判決さえも無視している。
水俣市茂道集落でネコが大量異常死
1954年8月1日、新聞は、水俣病の兆候をはじめて報じた。
水俣病不知火患者会訴訟 
不知火海沿岸の水俣病患者2万人は、裁判に救済を求めた。 
2007年1月 
水俣病審査会再開
52年政府基準と2004年最高裁判決との二重基準のままで再開。
2006年12月 
自民公明の水俣病最終決着案
チッソが患者3万人に1万円を支給し、水俣病を終結させる与党案。
2006年11月 
民主党の水俣病最終決着案
政府が患者3万人に一律1万円を支給する野党案。
水俣病認定申請か新保健手帳か
未認定患者の多くは、医療費がタダの新保健手帳交付を申請。
2006年10月
水俣病を保健手帳で救済か
2004年の関西水俣病訴訟で国が敗訴し、保健手帳復活した。
熊本地裁判決(1973)は誤り
判決は政府の責任を認めず、行政による救済が困難になった。
水俣病患者総数は3万人
水俣病認定患者数推移のグラフ。正確な患者数は不明である。
旧水質二法は骨抜き
政府の責任が明記されていたが、政府は水俣湾汚染を放置した。
水俣病の終わり(その① 見舞金契約)
1959年、チッソは10万円の支払い、水俣病終結を試みた。
水俣病の終わり(その② 熊本地裁判決)
1973年熊本地裁判決は形式的には患者勝訴、実質的に敗訴。
水俣病の終わり(その③ 村山政権の政治決着) 
1995年、10,353人に一律260万円を支給したが、最終解決には失敗。
2006年9月
不知火海の未認定患者訴訟
不知火海沿岸の患者2万人は、認定審査で大半が棄却された。
不知火海の汚染
チッソは1958年に工場排水を水俣湾から不知火海に変更した。
不知火海は今 
不知火海からメチル水銀が消え、漁業が復活した。
水俣病認定要件 
昭和52年(1977)の環境庁からの通知。水俣病の認定が困難になった。
チッソの責任
患者への補償、水俣湾埋立費用負担で、チッソの支払い能力は限界。
2006年8月
茂道集落
小さな漁業集落に水俣病患者が続出、集落機能が崩壊した。
百間排水口
チッソの工場排水は無毒無害であり、生活排水とともに排出されている。
旧百間港
チッソからのメチル水銀が漁港に堆積し、水俣病を発生させた。
水俣病を忘れないために 
水俣病を次世代に伝える、国・熊本県・水俣市の施設がつくられた。
親水公園(水俣湾埋立地)
海底のメチル水銀を除去できず、1977~90年に水俣湾埋立。58ka。
チッソ水俣工場
アセトアルデヒドの製造をやめ、液晶生産が主力になっている。
水俣湾はどう変わったか(地図)
埋立地58ha。埋立費用458億円のうち306億円をチッソが負担。