水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

日本が韓国米の輸入を中止した。

1960年01月08日 | 1960年
アメリカの食料戦略
第2次世界大戦後、国際的な食料不足の中で、アメリカでは小麦・米の生産過剰が続いた。この原因として、国内農民保護のために農産物の輸出価格を政策的に引き上げたことと、輸入国には貿易決済用ドルの不足していたことが大きい。
朝鮮戦争によるアジアの特需景気も一時的であり、農産物の大量在庫の問題はアメリカ最大の政策課題になった。アメリカは軍事とドルの強さを背景に、援助の形で農産物輸出を増やす政策(MSA援助)を推進した。なお1971年まで1ドルの交換レートは 360円であった。

MSA協定(1954年)
池田勇人自由党政務調査委員長はロバートソン国務次官補との会談(1953年)で、日本の地上軍(自衛隊)を18万人に増強すること、アメリカの余剰農産物を購入すること、再軍備のための愛国心教育を進めることが合意された。このためのMSA協定が1954年3月8日に調印された。
MSAとは大統領直属の相互安全保障本部(Mutual Security Agency)のことで、明らかな軍事組織である。日本はMSA協定締結によって、防衛庁を設置し、保安庁を改組して陸海空3軍の自衛隊を創設した(防衛二法)。
また、アメリカからは米・小麦の輸入量を増やした。アメリカからの小麦輸入増加は日本の小麦農家へ壊滅的打撃を与えそうであった。また、アメリカからの米輸入増加は、他の米輸出国に大きな影響をおよぼすことが懸念された。
アメリカの自国に都合のよい食料戦略は、国際的に厳しく批判された。日本国内では味のよいヤミ米が増え、配給米辞退者が増加していた。

PL480号(1954年) 
PLとは公法(Public Law) のことである。公法480号は正式には「農産物貿易促進援助法」といわれ、1966年まで続けられた。内容はMSA援助から批判の多い軍事的部分を削除したものであり、MSAと本質的な差はない。
しかし、農産物輸出代金をドル即時払いではなく、相手国通貨による支払いとした。その代金をアメリカは相手国に預金しておいたので、低利で相手国の経済開発事業に融資したことと同じであり、経済開発援助の役割も果たした。
1954年、日本はアメリカからの過去の輸入実績に、米10万トン、小麦34万トンの輸入を上乗せした。日本は、その代金306億円をアメリカに円で払ってから、改めて年4%の低利で借りた。愛知用水の建設、在日米軍の住宅建設、アメリカ小麦の市場拡大キャンペーンなどに使った。
アメリカ小麦の日本市場拡大のため、文部省はパン給食を全国の小中学校で実施した。厚生省は日本食生活協会に栄養指導車キッチンカー12台を導入して、保健所を拠点としてキッチンカーを巡回させて、小麦粉の調理方法をPRした。
アメリカからの米・小麦の輸入量上乗せのため、韓国からの輸入米10万トンの枠がなくなった。韓国は貴重な外貨獲得源を失うため、日本政府に韓国米の輸入継続を求めた。

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