水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

松村謙三氏、日中貿易再開に動く。

1960年01月16日 | 1960年
日中貿易の行きづまり
中国(中華人民和国)は、1949年の共産主義革命後、アメリカの封じ込め政策によって国際政治から排除された。サンフランシスコ講和会議に招待されたのは、国民政府(台湾)の方であった。日本はアメリカの求めにより安保条約を締結したが、その本質は中国・ソ連・北朝鮮などの勢力拡大をおさえる反共軍事同盟であった。
岸内閣は1960年には日米安保条約改定と、日米軍事同盟を強化をめざした。かつて満州国産業部次長であった岸首相は強硬な中国敵視政策を貫き、1957年6月3日に台湾において、中華民国の大陸反攻政策に賛意を表した。そのため岸内閣の外交政策を批判する民主団体に限って、「友好貿易」の形で中国との貿易ができた。細々とした貿易であり、実質的な貿易中断であった。日本の輸出品は鉄鋼・化学肥料など50億円、中国の輸出品は大豆・塩など総額50億円で、台湾との貿易の半分以下であった。
1958年5月2日、長崎市の中国切手展で、日本人青年が中国国旗を引きずり下ろす事件が発生した。さらに岸首相が、未承認国中国の国旗はボロ布に過ぎない、と中国敵視政策をむき出しにしたので、日中関係は最悪になった。日中友好貿易の存続も危ぶまれた。


LT貿易
松村謙三が文部大臣であった1955年に郭沫若の訪問を受けた。また早稲田大学の後輩には廖承志がいた。
1959年10月9日には、中国の郭沫若と廖承志の招待で、松村謙三は中国を訪問した。険悪化した日中関係の改善をめざして、周恩来首相と会談した。
1962年の第2回目の訪中では、松村・周会談に関する共同発表と、それを受けた「日中総合貿易に関する覚書」が調印された(1962年11月9日)。日中覚書貿易は中国側では廖承志(日中友好協会会長)と日本側高碕達之助(自民党)の協議の結果なので、LT貿易ともいわれた。貿易窓口は日本が高碕事務所、中国が廖事務所になった(1964年)。


日中貿易の停滞
日本側が日中覚書貿易に期待したのは、現在の日中友好と将来の日中国交正常化であった。中国側の要求により、日本側は、日中友好を妨げる日米両政府の批判を続けなくてはならなかった。日中覚書貿易は、政治と密接に結びついた貿易であり、すべて民間にまかされた経済取引ではなかった。
中国政府はLT貿易を利用して日本政府を批判を続けたが、日本の中国政策には大きな影響はなかった。
1965年、中国国内で文化大革命がはじまると、日本の政界や世界の華僑の人脈につながる廖承志は、修正主義者として1971年まで活動を封じられた。日本が文化大革命中の中国から輸入できたのは、米・塩程度であった。1971年8月21日に松村謙三が死去した。その2か月後、1971年10月25日に中国が国連に加盟し、台湾は国連など国際舞台から追放された。中国は国際政治の表舞台に登場して、中国との民間貿易が可能になった。

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