水俣病の現在

2006年はチッソ付属病院から水俣保健所に「奇病」発見の公式通知から50年。水俣病公式確認から50年です。

三井三池炭鉱ロックアウト、労組は無期限ストで対抗。

1960年01月25日 | 1960年
ロックアウト
三井鉱山株式会社は三池炭鉱の赤字を人員削減で解消するため、1959年4月に希望退職者を募集したが、予定人数に達しなかった。会社側は1959年12月、三池炭鉱1万4千人の組合員のうち、労組活動家300人を含む1278名の指名解雇を通告した。
労働組合は1960年1月5日に解雇通告を一括返上し、労働組合による職場管理をめざす職場闘争を始めた。労働組合は、九州大学教授向坂逸郎の理論的指導を受けて労働者としての意識が高く、会社側の職場秩序回復の呼びかけに応じなかった。
三井鉱山側は事業所(炭鉱)を閉鎖し、労働組合員の立ち入りを禁止した。賃金の支払いも停止した。これがロックアウトであり、使用者側の正当な争議行為である。
三井鉱山は保守党とつながる三井財閥の中枢企業であり、三池炭鉱の争議が反安保運動と結びついて反政府運動に発展するのを力でおさえる責任があった。また、三井には、政府財界それに右翼勢力の全面的支援があった。         

無期限ストライキ
労働組合には、使用者としての三井鉱山が高い利潤を得ているから赤字経営に見えるのであり、経営を組合管理つまり人民管理に移行して利潤をなくせば首切りは不要、という考えが強かった。労働者はいつも安い賃金で働かされるので、全国の労働者のためにも、資本家とは常に戦い続ける必要があった。
三池炭鉱労働組合は全国の労働者と左翼陣営の支援を受けて、政府財界と右翼陣営の支援を受けた三井と戦わなくてはならなかった。
三井と労働組合の対立は「総資本と総労働の対決」といわれる大争議に発展した。この勝敗が日本の進路を左右いずれかに決定するほど重要であることを、労働組合執行部は十分に認識していた。
三池炭鉱労働組合が争議を継続するのには、しなければならないことが多過ぎた。三井が賃金を支払わないため、組合員と家族の生活費を工面しなくてはならなかった。全国からのカンパは、1960年12月の争議終了までに19億円に達したが、一人当たりでは10万円で、1年間の生活費としては余りに少なかった。無期限ストライキは、生活苦との戦いでもあった。
炭鉱労働組合の全国組織である日本炭鉱労働組合(炭労)が、三池争議の支援ストライキを指示しても、どの炭鉱労働組合も応じなかった。総労働といわれながらも三池炭鉱労働組合は孤立した。その一方、総資本は政府の呼びかけに応じて三井を支援した。組合の敵は政府であった。
労働組合員の中には、就労すれば賃金を支払うという三井側の誘いに乗り、争議から脱落する者が増えた。三井による組合潰しと第2組合の結成(1960年3月17日)であった。労働組合は、身内や隣人との戦いを続けるとともに、仕事に戻りたい自分との戦いでもあった。政治闘争・経済闘争を越えた困難な戦いであった。

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